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冷たい雨。別れ。息苦しい予感。

 帰りのホームルームが終わる頃、外は今にも雨が降り出しそうなほど暗くなっていた。

 

 雨に降られる前に帰るべく高矢は急いで学校を出て、冷たい雨がわずかにぱらつき始めている中を早足に歩いた。すると、


「待って、コウくん!」

 

 後ろから声がして、振り向くと、水色の傘が揺れながらこちらへ走ってきた。学校からずっと走って追いかけてきたのか、桃華はマラソンを走った後のように息を切らせながら、


「雨、降ってるよ。傘、持って来てないの?」

 

 と、その右腕をほとんど真上へ上げ、高矢の頭を傘の下に入れる。


「こんな小雨程度、別になんともない」

「なんともなくないよ、風邪引いちゃったらどうするの?」

 

 歩き出した高矢の隣に、桃華は傘を高く掲げたまま慌てた足取りでついてくる。

 

 その傘を自分が持ってやろうかと高矢は思ったが、どういうわけかそれを言い出すことができなかった。昼休みに桃華を怒らせたこと、山吹が妙なことを言っていたことが小石のように胸に引っかかって、上手く言葉が出ないのだった。桃華の手に触れられないのだった。


「そうだ。コウくん、はい、今日の分のノート」

 

 言って、桃華は左肩に引っかけている鞄から器用に左手だけでノートを抜き取り、高矢に差し出す。ああ、と高矢はそれを受け取り、鞄へしまう。

 

 雨はパラパラと弱く傘を鳴らしている。どうやら雨脚が酷くなる前には家につけそうだったが、風がやや強くなってきていた。芯まで冷え切ったように白い手で傘を差し続けつつ、やがて桃華は言った。


「コウくん……わたし、中村さんを捜しに行ってみようと思う」

「捜しに……?」

 

 うん、と桃華は長い髪をなびかす強い風に目を眇めつつ、


「最近はあまり話してなかったけど、いちおう昔からの友達だし……それに、Xはコウくんにだけはおかしな反応をしたでしょ?

 もしかしたら竹ちゃんの言う通り、男の人にはみんなああなのかもしれないけど……そうじゃないかもしれない。いつかXがコウくんを襲いに行くことがあるかもしれないなら……わたしは放ってはおけないもん」

「放ってはおけないって、何をする気だ。というかそもそも、Xが中村を浚っていった犯人だとは言い切れないんだぞ。いや、むしろXとは無関係な……単なる病気か何かで目覚めなくなってる可能性が一番高いんだ」

「でも、そうじゃないかもしれないでしょ? もしかしたら、コウくんがいつか同じ目に遭うかもしれない……その可能性が万が一でもあるなら、わたしは行かないと」

 

 帰路が別れる住宅街の十字路で、桃華は足を止めた。押しつけるように高矢の手に傘を持たせ、


「じゃあ、またね。あ、ノートは明日の朝でいいよ。たぶん、今日はわたし、ずーっと寝てばっかりで勉強なんてしないから」

 

 あははと笑いながら言うと、強まり始めた雨の中を自宅マンションへ向かって走って行った。

 

 その背中をただ呆然と見送りながら、高矢は別れの言葉さえ言うことができなかった。




俺がいつかまたXに襲われなくて済むように? そんなことを言って、どうせ結局は俺を頼るんだろ? 

 まるで自分一人で全てを解決しようとするように言ってるのも、それにいつものちょっとした冗談に噛みついてきたのも、その後にはケロリといつもの様子に戻ったのも、全ては俺を揺さぶって負い目を感じさせて、こっちのほうから協力を申し出させるための陰謀なんだろ?

 

 お前と何年つき合ってると思ってるんだ。それくらいのことは当然、お見通しだ。


 高矢は夜、ベッドに横たわりながら、もうすぐまたXに追われるハメになるに違いないと確信していた。だから、どうにも上手く寝つけずソワソワしていたのだが、しかし――気づくと、部屋は朝の白い光に包まれていた。

 

 雨雲の去った、秋晴れの綺麗な朝だった。

 

 ――もしかして、これは夢の中か?

 

 そう疑ったが、蘭は日課である朝の読書をリビングの日向でしているし、ゴローも日課である毛繕いをその隣でしているし、夢なのではないかと疑っているにも拘わらず夢らしいところが見つけられないことからして、どうやらこれは現実らしかった。

 

 しかし、まだ解らない。油断していると、不意に桃華が――背が伸びて背中に羽を生やした桃華が天井から降ってくるかもしれない。そう気を引き締めながら登校をしたが、やはり夢らしいところはどこにもない。

 

 それどころか、桃華の姿がどこにも見当たらない。天使の桃華どころか、小学生の桃華さえもいない。


 本当に小学生だった頃から一度たりとも遅刻などしたことのなかった桃華が、朝のホームルーム開始時刻になっても登校してこないのだった。しかも、桃華の姉でありこのクラスの担任である江里原までが、今日は急用で休みだというのである。


「ねえ、どういうこと? 桃華だけじゃなくて先生まで休みなんて……。もしかして……」 副担任による朝のホームルームが終わると、斜め後ろの席にいる山吹が深刻な顔で耳打ちをしてきた。高矢はやけに近づいてくる山吹から身体を離しつつ、

「早まるな。まだそうと決まったわけじゃないだろ」

「そ、そうよね。もしかしたら、学校に来る途中に一億円を拾っちゃったのかもしれないし。そりゃあ確かに姉妹で遅刻もするわよね」

「落ち着け、そんなことはありえない」

 

 そう山吹を宥めつつも、高矢の胸にも息苦しいような予感が漂っていた。

 

 早とちりするのは馬鹿らしい。心配させておいて、どうせ何ごともなかったようにやって来るに違いない。そう高矢は自らに言い聞かせたがしかし、結局、桃華も江里原も、放課後になってもその姿を見せなかった。


「……桃華の家に行きましょう。アンタも、もちろん来るわよね?」

 

 来ないとは言わせない。強張った顔にそう脅しの色を表しながら、山吹は帰りのホームルームが終わると高矢を睨みつけてきた。

 

 焦る気持ちは解るが、俺を睨んだってしょうがない。いつもの高矢であればそう言い返していただろうが、今はそのような気持ちさえ起こらない。山吹に言われるまでもなく、高矢の足は玄関へ向かって動き出していた。


 山吹と言葉を交わすこともなく足早に歩いて、やがて桃華の住むマンションへと着くと、その駐車場には学校でよく見る江里原の軽自動車が停められていた。

 

 もし自分たちの想像が事実だったなら、今頃江里原は病院にいるはずである。やはり自分たちの早合点だったのだろうか。そう期待を抱きつつ江里原家のインターフォンを押すと、ドタドタと中から慌ただしい足音がして、


「はい」

 

 と、汗ばんだ額に前髪を貼りつかせ、ブラウスを腕まくりした江里原が扉を開いた。口を開こうとした高矢より早く、


「先生、桃華はいますか? 今日、桃華も先生も学校を休みましたけど、桃華に何かあったんですか?」

 

 と、山吹が息継ぎもなく尋ねた。

 

 江里原はその勢いに気圧されたように目を丸くして、高矢を一瞥してから気まずそうに目を伏せた。


「実は……あの子、今朝から眠ったまま目を覚まさないのです」

「え? 眠ったまま……ですか?」

「ええ。それで、あの子は今病院にいます。CTとか、一通りの検査をついさっき終えたばかりなので、まだ何も解ってはいませんが……」


 乱れた前髪を直そうともせず、江里原は目元に疲労を濃く滲ませながら言う。


 冗談だろ。その言葉が頭の中を駆け巡ったが、上手く口が動かず、声が出ない。ただ呆然と立ち尽くしていると、やがて江里原がハッと顔を上げ、


「それで、今日からしばらく入院をすることになったので、今その着替えを取りに来たところです。だから、今はもう帰ってもらってもよいでしょうか。私も、もうすぐに出なければならないので」

「は、はい、すみませんでした」

 

 山吹が慌てたように一歩下がって頭を軽く下げると、江里原はすぐさまドアノブを掴む。しかし、ドアをわずかに戻したところでピタリと動きを止め、


「しかし、どうしてもと言うなら、桃華の病室まで連れて行ってあげてもいいですが……。あなたたちは、あの子を心配して来てくれたのですよね?」

「も、もちろんそうです。じゃあ、あの……ご迷惑をかけて申し訳ありませんが、よろしくお願いします。――ほら、アンタも頭下げるのよ」

「……お願いします」

 

 山吹に促されて高矢も小さく頭を下げると、


「いつになく腰が低いわね」


 江里原がボソリとそう言った。見ると、江里原はまるでこちらを見下ろし蔑むような笑みをその口元に浮かべている。

 

 ――コイツ、何を笑ってるんだ?

 

 高矢が眉を顰めると、


「解りました。では、一緒に病院へ行きましょう。少し、そこで待っていなさい」

 

 江里原はすぐにその妙な笑みを消し、家の中へと戻っていったのだった。

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