気づいてはいけない夢。part1
「お姉――せ、先生、ちょっと相談があるんですけど、いいですか?」
職員室へと三人ぞろぞろと入っていって、机のノートパソコンで何か通販サイトめいたページを見ていた江里原に桃華が声をかけると、江里原は息を呑んだような顔でこちらを向きながらそのモニタを閉じた。
が、すぐにその目にいつもの冷たい輝きを取り戻しつつ一番後ろにいる高矢を睨み、それから桃華に視線を戻して言った。
「相談? なんでしょうか?」
「江里原先生って、夢に詳しいんですよね? 夢って言っても、あの、人が眠ってる時に見るほうの……。そのことで、ちょっと色々訊かせてほしいんです」
桃華の隣にいる山吹が言うと、江里原は周りを気にするように目を泳がせてから、同僚にこの話を訊かれたくなかったのか、解りましたとあっさり席を立った。
「それで……夢について訊きたいこととは? ちなみに、詳しいとは言っても、単なる趣味程度の知識しかありませんが」
職員室のすぐ隣にある、生徒や保護者との会談をするためにあるらしい部屋へ入ると、江里原は窓を背にしたソファに座りながら、睨むような目でこちらを見回す。
桃華は山吹と並んでその向かいに腰かけつつ、
「それでもわたしたちよりはずっと詳しいはずだから、教えてほしいの。実はね、お姉ちゃん……わたし、昔から何かに追いかけられる夢をよく見るんだけど――」
「追いかけられる夢? そんなもの、何も心配する必要はないわ。それは試験だとか、課題だとか、そういうものを気にしているあなたたちくらいの年齢の人がよく見やすい夢で、吉夢であるとも言われているわ。
まあ諸説あるけれど、そういう夢を見たくないなら、あなたが抱えている不安としっかり向き合って解決することね」
桃華の言葉を断ち切って江里原はまくし立て、『話は終わり?』という表情で二人を見やる。山吹が慌てたように口を開く。
「い、いえ、アタシたちが聞きたかったのはそういうありきたりな話じゃなくて、なんというか……もし、もしですよ? 夢の中で人を追いかけて、その人をどこかへ連れて行っちゃう幽霊なんていうのがいたとしたら、どうすればいいんだろう、っていうことを教えてほしいんです」
「幽霊……?」
面喰らったように、江里原は目を丸くして瞬きする。それを見て桃華が慌てたように、
「ご、ごめんね、お姉ちゃん。お仕事の邪魔して、こんなこと……」
「そういう話をしてほしいなら、こういうのがあるわ」
呆れて溜息をつくか、もしくは怒り出すかと思いきや、江里原はその頬に怪しげな笑みを浮かべて桃華と山吹の目を交互に見ながら、
「あなたたち、こういう話をどこかで聞いたことはない?『夢の中で、夢だと気づいてはいけない。気づいてしまったら、あっちに連れて行かれてしまう』というような話」
「あっちに連れて行かれてしまう……?」
高矢が思わず呟くと、江里原はこちらへは目を向けずに身体をやや前のめりにして、声を低めて続ける。
「私が知っているのはこういう話よ。
これは数年前、ある女子高校生が体験したと言われている話なのだけど……その人がある日、いつも通りに朝、学校へ行くと、妙に校舎の中が静かだったらしいの。
携帯電話で時間を確認すると、いつも通りの登校時間。そのはずなのに、校舎の中には全く人の気配がない。しかもその日は雨が降っていて、朝から校舎はとても薄暗かった。
だから、その人はとても気味の悪さを感じたのだけど、遅刻をしてはいけないし、教室へ向かうことにした。
その人の教室は四階にあった。二階、そして三階……その人は階段を上っていったのだけれど、
『やっぱり何かおかしい』
と足を止めた。どの階にもやはり全く人がいないし、それに明かり一つ点いていない。
もしかしたら、今日は休みなのかもしれない。その人はそう思ったけど、そんなはずはなかった。その日は平日だったし、今日が休みだという話なんて全く聞いていない。
窓の外には重い鉛色の空が広がっていて、窓が強い風に吹かれてどこかでガタガタと鳴っている……。
その人は耐えられないくらいに怖くなって、玄関へと引き返し始めた。
でも、おかしい。階段をどれだけ下りても、一階へ着かないの。自分は三階にいたはずなのに、もうとうに一階には着いているはずなのに……。
その人は窓へと駆け寄って、外を見てみた。すると、どういうわけか、地面がまるでビルから見下ろすように遠くにあった。
どうして? その人はとても驚いたのだけど、でもその時、その人はようやく気がついた。
『もしかして、これは夢なんじゃないだろうか?』
そうか、夢か。そう気づいて、その人はホッと安心した。夢なら大丈夫、と。
すると、その時、一つ上の階から小さな足音が聞こえてきた。
コツ、コツ……と、その足音の主はゆっくりと歩いて、ふと立ち止まったと思うと、ガラリと音を立てて教室の扉を開けた。それから二、三秒、しんと静かになって、今度は扉を閉めたらしい音がすると、またコツ、コツ……とヒールのような足音が聞こえてくる。
その人はその足音をなんとなく不気味に感じて、下の階へとそっと下りた。すると、聞こえていた足音がふと止んだ。でも、少し経つと、コツ、コツ……という足音が、また一つ上の階から聞こえてくる。そして、誰かを捜しているように教室の扉を開けては閉めている。
これは夢のはず。そう自分に言い聞かせても気味が悪くて、その人は必死に階段を下りた。でも、どれだけ階段を下りてもやはり一階にはつかないし、コツ、コツ……という足音が、必ず一つ上の階から聞こえてくる。
まだ一階には着かないのだろうか。そう気になって、その人は窓の見える場所へ向かってみた。すると、窓の外は霧に覆われたように真っ白で、何も見えなかった。どうやら空を覆っていた雲の中へ入るまで、地面から離れてしまったらしい。
『これ以上、下の階へ向かうのはマズい気がする』
そう感じたその人は、決意した。何と出会うかも解らない恐怖を押し殺して、階段を上へ向かってみたの。するとね……突然、今まで自分がいた階から声が聞こえたそうよ。
『もう少しだったのに』
と。」
「…………」
「…………」
桃華と山吹は、まるで凍りついたように身動きしない。怪談が苦手な高矢もまた正直、背筋が寒くなってしまっていたが、二人がいる手前、そんな顔をするわけにもいかず、
「それで、そのありがちな怪談がなんだって言うんだ」
と、どうにか平然を装いながら江里原を見下ろす。江里原はそんな高矢の胸の裡を見透かしたように薄ら笑いを浮かべ、
「夢は死の世界に繋がっていて、そこには人間を死へと連れて行こうとする『何か』がいる。そして、夢は下の階層へ向かえば向かうほど死の世界に近づいていく、ということです。
だから、生きている人間だけが持っているものである『意識』を夢の中で露わにしてはいけないし、なるべく階段を下りてはいけない。まあ、あなたの言う通り、ありがちで、くだらない怪談です」
と言うが、桃華や山吹、そして高矢もまたその『くだらない話』を一笑に付すことはできなかった。単なる怪談だと笑うには、その忠告があまりに的確だったからである。
しかし、桃華は夢の中で意識を持ちたくて持っているわけではないし、あのロウ――Xから逃げるためには、やむを得ず下へ向かわねばならない時というのが必ずある。だから、その忠告は『現場を知らない』ものとも言えたが、江里原に文句を言ったところでしょうがない。
高矢は頭を切り換え、もう一つの問題へと話を移した。
「ところで、この学校で女子の意識不明者が複数出ているというのは本当か」
「なぜあなたにそのようなことを教えなければならないのですか?」
と、江里原は思い出したように教師の表情へと戻ってこちらを睨む。
「もしかしたら、桃華もそうなってしまうかもしれないんです」
白い手でギュッとスカートを握りながら、山吹が口を開く。
「さっきは『もしも』の話をしましたけど、実際、この学校で今の怪談みたいな噂が広まってます。もし、眠りから目を覚まさなくなって学校を休んでる女子がいるっていうのが本当なら、つまりはその噂も本当ってことで、夢で変なのにつきまとわれてる桃華もいつか同じようなことになるんじゃないかって……」
「ありえません。夢は夢、現実は現実。小学生ではあるまいし、何を幼稚なことを……」
江里原は思わずと言った様子で鼻で笑う。が、
「違うよ、わたしたちは小学生なんかじゃ……」
桃華が俯いて呟くと、しまったというように表情を強張らせ、
「ご、ごめんなさい、別にあなたへの悪口として言ったわけではないのよ。私はただ、一般的な話として……」
狼狽えながらそう言い繕って、それから小さく嘆息した。心の中で決意を固めるように一拍置いてから、
「……これを私から聞いたということは絶対に秘密にすること、そう約束をしてくれるなら教えます」
と、桃華と山吹の目をじっと見つめ、それから脅すような鋭い眼差しを高矢へ向ける。
「はい、約束します」
桃華が背筋を硬くしながら頷くと、江里原はまだどこか躊躇った様子ながらも重く口を開いた。