夢の中。炎と黒煙。白い羽。part4
敷居よりも背の低い高矢には見えなかったが、ロウが消えていった方向にあるらしい扉をじっと見つめ、
「こっちに戻ってきてるような気がするわ、逃げましょう」
再び高矢の腕を荒く掴み、来た道を引き返し始めた。扉を出て薄暗い古城の廊下へ戻ると、それとほぼ同時、ドアを蹴破ったようなけたたましい音が診察室の中に鳴り響き、続けて、まるで床が震えているように感じるほどの巨大な足音がこちらへ迫ってきた。
桃華は扉を閉じてから廊下を先へ走りながら、
「おかしいわ。なんだか、いつもと様子が違う……!」
「様子が……?」
桃華の広い歩幅に必死についていきながら、高矢はその横顔を見上げる。が、桃華がこちらに返した言葉は背後で鳴り響いた轟音に掻き消され、聞き取ることができなかった。
扉を噴き飛ばして廊下に現れたのは、ぼんやりと輪郭の定まらない、しかし確かに人の形をしたもの――先程、見かけたものとさして変わらない姿をしたロウだった。
がしかし、その全身を覆う霧は、まるで墨のように黒い。漂い散っていくその霧のためにその大きさも形も判然としないが、その足音だけは大理石を砕き割りそうなほどの強さでその存在を主張している。
子供の自分がいるからだろう、桃華は明らかに全力で走ってはいない。そのせいもあって、ロウの足音は瞬く間に背後に迫ってくる。肩越しに振り向くと、距離は既に七、八メートルほどにまで縮まっている。
「っ!」
不意に桃華が足を止め、壁にかかっていた燭台から蝋燭を掴み取り、ロウへ向かってそれを投げつけた。
蝋燭はこちらへ突進していたロウの足辺りに強く直撃する。が、それは直撃したというよりも蹴り飛ばされたといったほうが正しかった。ロウはわずかによろめいて速度を落としたものの、こちらへ驀進し続けている。
「何してるんだ! さっさと走れ!」
高矢は桃華の手を掴んで先へ走り出すが、桃華はやけにゆっくりとした速度でしか走ろうとせず、
「そんな……あれは火を見ただけで逃げるはずなのに……どうして……!」
と、再びその足を止めてロウに向き直った。高矢の前にまるで壁を作るように、その背の白い大きな羽を広げ、
「コウくん、逃げて! どこにでもいいから、早くっ!」
「に、逃げるって、お前は……!」
困惑と恐怖とで強張ったように高矢の足は動かない。そして、それは一瞬の出来事だった。こちらへ突進してきていたロウの足音が一際強くなったと思った直後、ロウはまるで重力を逆転させたかのように高い天井に貼りついた。
「なっ!?」
愕然と上を向く桃華を避けるように、ロウは勢いそのままさらに前方へ跳び、こちらを向いて着地する。黒い霧の奥にあるその目が、真正面から高矢を捉える。
「どうして……!?」
背後で桃華が困惑の声を上げるが、それはこちらのセリフだった。
何もできるはずがない。高矢がただ立ち竦んでいると、ロウがこちらへ大きく一歩踏み出した。直後、頭部のように見えた場所が上顎に、胸部のように見えていた場所が下顎となり、気づくと高矢の眼前には、サメのように鋭い牙を揃えた巨大な口が広がっていた。
高矢は咄嗟に顔を両腕で覆う。と、それと同時、両手に燃えるような熱さと痛みが走った。
手を食われた。間違いなくそう思ったが、その瞬間、まるで目の前で花火が炸裂したように瞼の裏が赤く光った。
それに驚いて目を見開いて、高矢は愕然とする。鋭い熱さと痛みは牙に手を食いちぎられた痛覚ではなく、肉の焼ける痛みであった。高矢の両手が、松明のように赤く燃え上がっていたのだった。
「っ! なっ――ぐああああああああああああああああああああああっ!」
思わず叫び声を上げる。すると、まるでその声に驚いたかのようにロウは退き、呆気ないほど一目散に逃げていった。
「コウくん!」
呆然としたように立ち尽くしていた桃華が、ふと我に返ったように高矢の名を叫んだ。それから、燃え上がる炎を恐れることもなく高矢の両手を掴み、自らの胸へとそれを強く抱き寄せる。
「っ……!」
桃華はその顔を苦悶に歪め、小さく呻き声を上げる。それを見て、高矢は慌てて手を引き抜こうとするが、桃華は大人の力で頑なに高矢の両手を抱き締め続け、そのまま押し潰すようにして炎を消し去った。
桃華も高矢も、しばしそのまま動くことができなかった。声さえ出すこともできないまま呆然として、互いに無言で目を合わせた。
が、やがて高矢は桃華の胸から両手を抜き取り、熱さや痛みが全て嘘だったように傷ひとつない、いつも通りの手――ケロイドに覆われた手を見下ろしたが、ロウが逃げ去っていった方向をハッと見やる。しかし、そこにはもうその気配さえもなく、燭台の炎に照らされる廊下がどこまでも伸びているだけだった。
「あれは……さっきのロウは一体なんなんだ?」
「わたしにも解らない……。けれど、いつも夢の中でわたしを追ってくるの」
「いつも?」
「毎日ではないけど……最近は多いような気がするわ」
「それで、俺をここに呼んだのか」
こちらと同じく、自身の身体に微かな火傷もないことに困惑したように両手と胸を見下ろしていた桃華が、ゆるやかに立ち上がりながら、
「ええ……だけど、こんなはずじゃなかったの。あれは確かにいつも私を追ってくるけど、いつもはもっと静かに、そっと忍び寄ってくるだけなの。だけど、今は明らかに違ったわ。というか、あれは今、あなたを食べようと……。あんな行動、わたしはこれまで一度も見たことがなかった……」
「どういうことだ? なぜ俺を……?」
「解らないわ。ごめんなさい、少し時間を貰えないかしら。少しだけ頭を整理させて……」
「じゃあ、さっきの炎はなんなんだ? 俺の手が急に燃え始めた、あれは一体……?」
「あれはきっと、あなたの中に眠り続けていた感覚ではないかしら。憶測だけれど……焼きつけられた感覚を、身体はきっと忘れないのよ。例え夢の中であっても……」
「お前は……お前は、俺がこういうことができると解っていて、それで『冒険』なんて嘘をついて俺をここに呼んだのか? 俺がいれば、自分の身を守れるから」
「ち、違うわ、それは絶対に違う」
弾かれたような勢いで桃華は顔を上げ、しかしすぐに苦しげに顔を伏せた。
「わたしはただ、あなたに傍にいてほしくて……。あなたがいてくれれば、わたしは何も怖くないから……」
チッ、と高矢は舌打ちして桃華から顔を背け、
「そんなの知ったことか。お前の面倒ごとに俺を巻き込むな。お前なんかのために、どうして俺がこんな危険な目に遭わされなきゃいけないんだ」
「……ごめんなさい」
「さっさと俺をここから出せ! 俺はお前の身代わりじゃねえ!」
「大丈夫よ。たぶん、もうすぐ朝だから……」
桃華は口元に寂しげな微笑を浮かべ、手を伸ばして高矢の手をそっと握った。
「こうして触れ合っていれば、どちらかが目覚めた時、一緒に目を覚ますことができるの。……本当にごめんね、コウくん。こんな痛い目に遭わせて……」
高矢の手を両手でさすりながら、桃華は今にも泣き出しそうに声を震わせる。
しかし、高矢はその顔を一瞥さえしなかった。怒りのためだけではない、まだ胸を押し潰し続けている恐怖のためもあって、高矢はただとにかく一刻も早くこの場所を、桃華の傍を離れたかったのだった。