悪夢の余韻。晩秋の空。潔癖症。part1
逃げられない。
いくら必死に走ろうが、いくら見つかるはずもない場所に身を隠そうが、それはまるで影のように音もなく、執拗に背後を追ってくる。
それは黒い服に身を包んだ男のようでもあり、あるいは全身を毛に覆われた大きな猿のようでもあるが、気づくと長い髪を振り乱した女のようでもあり、地を這う大蛇のようでもある。
ドアが開かず、窓も開かない。明かりを点けようとスイッチを入れても停電したように明かりは点かない。ようやく狭い場所から開けた場所へ逃げ出せても、まるで水中にいるように足が重く、上手く前へ進めない。走れど走れど前に進まず、ただ息ばかりが切れ、心臓が破裂しそうなほど早鐘を打つ。
もうダメだ。捕まる――
逃げることに限界を感じて、振り向きざま、ありったけの力で背後のそれを殴りつける。しかし今度は腕が鉛のように重く、その上、拳に上手く力が入らない。それでも、叫び声に近い声を上げながら遮二無二、拳を振り回す。
もはや肺が痛むほど息が切れ、動悸が頭の中に激しく鳴り響く。そして、その苦しさが極限を超えようというその直前――ハッと、夢から目を覚ますのだ。
教室の窓から見える晩秋の空は、高く青く澄み渡っている。
折炭高矢は、息苦しい今朝の目覚めとは無縁に晴れ渡ったその空を、頬杖つきながらぼんやりと眺め続けていた。が、重く嘆息しながら、ホテルマンのような白手袋を嵌めたその手で額を押さえる。
今朝見たあの悪夢のせいか、目を覚ました瞬間から全身が重く、疲れていた。結局、自分が何に追われていたのかはよく思い出せないが、夢の中で自分が上げた情けない叫び声はしつこく妙に耳に残っていて、それがさらに気を滅入らせる。授業への集中も、つい途切れがちになる。
「コウくん、コウくんってば……!」
ページの合間でシャープペンが横たわる白いノートを見下ろしていると、不意に隣の席から名を囁かれた。
見ると、そこに座っている小学生――のような姿をしているが、れっきとした高校一年生、十六才の少女である江里原桃華が、小動物のように円らで不安げな目でこちらを見つめている。
「なんだ、静かにしろ、小学生。授業中だぞ」
「そ、そんなの解ってるよ。そうじゃなくて――って、あ、また『小学生』って言った! 違うもん、わたしは高校生だもんっ!」
まさしく小学生のようにムキになってそう怒鳴ってから、桃華は慌てた様子で口元を押さえ、素早く姿勢を正して机に向き直る。
――なんだ、コイツ……?
椅子の座面に届くほどに長い真っ直ぐな黒髪から、その小さな耳が朱く染まりながら微かに覗いているのを見つめながら、高矢は怪訝に眉を顰める。
もしやトイレへ行きたいのに、恥ずかしくて言い出せないのだろうか。それとも、具合が悪くて保健室へ行きたいのだろうか。とも思ったが、その様子を見るにどうもそれは違うらしい。
整った形の淡い薄桃色の唇は静かに閉じられ、背筋はどこか硬いが落ち着いた様子で伸ばされている。背を逸らすようなその姿勢のために、小学生と変わりない身長とは全く不釣り合いな、栄養分が全てそこに吸い込まれてしまったかのような大きな胸が半ば暴力的にセーラー服の上着を突き上げているが、それはいつものことである。深く席に座ると床にかかとがつかないのも、同じくいつものことだ。
結局、何が言いたかったのか解らないまま、高矢は再び窓外へ目を向ける。と、
「コ、コウくん……!」
桃華が再びこちらを呼び、それからまるで目配せするように教壇へチラチラと目を向ける。その視線を追ってみると、そこから氷の矢のような眼差しがこちらへ注がれていた。
セミロングに整えられているその真っ直ぐな髪質だけは似ているが、それ以外は全く妹と似ていない、長身痩躯で鋭い目つきをした女教師――江里原かがりは、腕組みをしながら、まるでマネキンのように微動だにせずこちらを睨み下ろしている。
「もう授業終わるって……」
桃華のその囁きで目をやや上へ向けてみると、確かに時計の針は間もなく四時限目の終了時刻を指そうとしていた。
「コウくん、今日は日直でしょ。授業の終わりの挨拶しないと……」
「ん? ああ……いや、俺はもう疲れた。お前が代わりにやってくれ」
「え? か、代わりにって……」
「アンタこそ小学生みたいなこと言ってないで、さっさと挨拶しなさいよ」
桃華の後ろに座っている女子生徒――山吹竹が、眉間に深く皺を寄せながらこちらを睨んでくる。言い返すのも面倒臭く、高矢が再び頬杖をついて嘆息すると、
「江里原さん、その生徒には構わなくて結構です。申し訳ないですが、代わりに挨拶をお願いしてもよいでしょうか」
壇上から声がかかり、桃華が慌てたように返事をして立ち上がり、授業終了の挨拶をした。ちょうどその直後に鳴り響いたチャイムの音を聞きつつ、高矢は鞄から弁当を取り出して江里原よりも先に教室を後にする。
そうして、そのまま昼休みの喧噪から逃げるように校舎を出て、玄関から駐輪所のほうへと向かう路地の半ば、立ち枯れた細い木のもとにポツンと置かれているベンチの前に立つ。
が、そこへ腰かけて昼食を食べ始める前に、半ば儀式めいた準備をするのが高矢の習慣であった。
まず初めに、弁当と一緒に持って来たウェットティッシュで、自分の腰かけるその右隅三分の一を丹念に二度拭く。それから、その拭いた場所に詰め襟制服の胸ポケットから出した真っ白なハンカチを寸分の乱れもなく二枚重ねて敷き、それでようやく腰を下ろす準備は整う。
しかし、儀式はまだ続く。高矢は特になんの肩書きもないただの高校生なのだが、その両手にはウェイターかホテルマンのような礼装用の白手袋を常に嵌めている。その手で弁当の包みを開くと、その中にはもう一組の白手袋が入れられており、高矢は今嵌めている白手袋を、その新しい物へと交換する。
それでようやく儀式――もとい準備を終えて、高矢は弁当を食べ始める。白米を汚さないために、まずは白米を全て平らげてからおかずに手をつけるという個人的規則に則って黙々とそれを食べ進める。
と、玄関のほうから二人の少女がこちらへ向かってくるのが見えた。