帰郷
まだまだ夢の中
列車に揺られ、いつの間にか眠りに落ちていた。特急列車の車窓は灰色の空と鈍色の紅葉の山々を遠くに映していた。
妙に鮮明に覚えている夢の内容、いつの日の出来事かと考えてみる。少女の夢を思い返してみると、未だに夢心地の錯覚を覚える。後悔はないがあの時断っておけば少し違う人生だったのかもしれないと思いを馳せてみる。しかし既に現に戻されている状況では、それさえも長く続かず、陰鬱な現状ばかりを思い出す。
「はあ……」
こんなところまで来て大学のことを考えるのはやめよう。気を紛らわせるためにペットボトルの水で渇いた喉を潤し、旧友から届いた封筒を鞄から取り出す。
「なんで今更……」
封筒の中の便箋に目を落としながら、そうつぶやいた。
『 田中 希美 様
お久しぶりです。お元気ですか。
東京での暮らしはどうですか?
たまには村に帰って東京での様子を教えてください。
よかったら今度の連休に帰ってきませんか。
おいしい料理とお酒を用意して待っています。
希美ちゃんに直接会って話したいこともあるのでぜひ戻ってきてください。
秡川 佳奈子』
祓川佳奈子とは私の同級生で幼馴染の親友あり、私の大学進学を応援してくれた数少ない人物でもある。かつての親友も大学へ進学したあとは連絡を取ることもなく、故郷とともに忘れ去られていた。
そんな佳奈子から突然封筒が届いた。かつての私なら無視したであろうが、今の私にはそれが孤独で荒んだ日常からの救いの手に思えた。連絡をしようにも携帯電話は使わなくなってから捨てたし、電話番号も分からない。だから、結局何の連絡も入れずに帰ることにした。どちらにしても佳奈子は村にいるだろうと考えたから、特に深刻には考えていなかった。
嫌われることや孤独には大学で慣れていた。だから村に帰ってもある程度は耐えられると、東京を出るときは思っていた。しかし村に近づくにつれ、何とも言えない不安も募ってきた。
気持ちは複雑ではあったが、特急列車は秋めく山々の間を否応なしに故郷へと進んでいった。
途中で特急から普通電車に乗り換え、村の麓にある町で降りた。駅や街並みに多少の懐かしさを覚えるが、六時の最終バスを逃してしまうと今日中に村へ帰れなくなるので、そそくさとバスに乗り込む。幸いにもバスには自分を知る人間は乗っていなかった、がなるべく顔を見られることがないよう一番後ろの奥に座る。
山の日没は早い。しかし駅前は少ない街灯と駅のホームの灯りだけで、東京では考えられないほど静かで、暗かった。高校生のときはこのバスに乗り、三年間通学していた。佳奈子とは駅前でたまに遊んでいたが、今から考えればこんな寂れた場所でよく飽きもせず遊べていたな、と一人苦笑する。
なんでもある都会は一見賑やかで楽しそうだが、一人では楽しめない。こんな寂れたつまらない場所であったとしも、友達と一緒ならいつまででも楽しく過ごせていた。
でも、今は一人じゃない。東京よりも冷たく暗い駅前の広場が、なぜだか少し温かい場所に思えた。
「大浅郵便局前経由、滝沢行きバス発車しまーす」
ほとんど乗客のいないバスは、さらに山奥を目指して発車した。懐かしい地名が何度もアナウンスされ、そのたびに何人か乗ったり降りたりした。気付けばバスに乗客は私一人であった。新幹線や特急を乗り継ぎ、五時間を越える旅で体に思いの外、疲労がたまっていた。眠っているのか醒めているのか、夢なのか現なのか。車窓の景色も、古いバスのエンジン音も、ひんやりした空気も、幼き夢の心地であった。
ずっと友達だと約束していたのに、東京に行ってから一度も連絡さえしなかったし、封筒をもらうまで忘れていた。佳奈子に会ったら真っ先に謝らないといけないな。
「次は、大浅郵便局前ー大浅郵便局前ー」
気付けばバスは一つ手前の停留所まで来ていた。ここまで来て村へ足を入れることに躊躇いがあった。しかしここで引き返すことは現実的ではない。それに私には佳奈子という友達がいる。そう思えば怖いものなんて何もなかった。
運賃を払いバスから降りた。秋虫たちの大合唱と川のせせらぎ、そして郵便局の裏にある養豚場からのむせかえるような臭い。山間を流れる川沿いにある狭い平地に位置する大浅村。深い山々に囲まれたこの地を、なぜ浅いと表現するのかわからない。田畑と山以外何もないこの村で私は生まれ育った。村を飛び出したときから、生まれたときから何も変わっていない。二度と帰ってくることはないと思っていたが、案外早く帰ってきてしまい苦笑する。
国道ではあるが東京のような間隔で街灯はない。バスの灯りが山の向こうに消えたあとには、バス停前の黒ずんだ蛍光灯と郵便局の中の非常口を示す緑の光、川の向こうに点在する家々の光しかなかった。弱々しい人口の光とは対照的に、暗黒の天空に煌煌と輝く満月はどこまでも広がる山々と、狭い生まれ故郷を照らしだしていた。
「さてと、どうしたらいいかな」
佳奈子にも実家にも帰ってくることは伝えていない。とりあえず佳奈子に会いに行こう。佳奈子の家には何度もお世話になっているし、そもそも佳奈子が呼んだのだから二日くらい泊めてくれるだろうと、軽い気持ちで来ている。それがだめなら健太のおばあがやっている旅館に泊まればいいと考えていた。どちらにしても実家に顔を出すつもりはなかった。
国道側から橋を渡り村の中心へと向かう。橋を渡ったすぐのところにある駐在所は赤い光が灯っているだけで、中は暗く、人の気配がない。いくら事件のない平和な村だとしても午後七時前に駐在所が閉まるのは少し早すぎではないかと呆れる。
いや、そもそも村全体が妙に静かすぎる。過疎で高齢の村であっても、夕ご飯時はもう少し賑やかなはずである。玄関や窓の隙間から漏れ聞こえてくる茶の間の会話やテレビの音が少しも聞こえない。東京の喧騒に慣れ過ぎたのか、自分が大学に行っている間にさらに衰退したのか。まるで周りの家から人が消えたみたいで気味が悪い。気味は悪いが人に見られる心配がないから好都合でもあった。もし誰かに見られでもしたら佳奈子の家に着く前に実家の両親の知るところになるだろう。
村人の気配は感じられないが佳奈子だけはいるはずである。五日前に封筒を寄こしてくれたのだからいないはずがない。早く佳奈子に会いに行こう。実家の前の道を通る方が近道だが、家族に見つかると面倒なことになると考え、あえて遠回りで佳奈子の実家へ向かう。
そんなことを考えているうちに村役場や公民館がある広場が見えてきた。閉館時間を過ぎ、静まり返っているはずの公民館の前には人だかりができていた。
「なんだろう……何かの行事かな」
誰かに見つからないように遠くから様子を見る。
「ああ、葬式か」
村民の葬式はたいてい公民館で行われる。そして一度死人が出ると村中総出で葬式に駆けつける。みんな顔見知りの小さな村ならではのことだ。だからどこの家も人がいなかったのか。高齢の村では葬式は珍しい行事ではなく、かつて近所の老人が亡くなった時もとりあえず参加したこちがある。
「どこの家だろう」
誰にも見られず佳奈子の家まで行くつもりであったが葬式とあれば顔を出さないわけにはいかない。この村には寺はない。滝沢の方まで行けば寺はあるが、村民の葬式は昔から全て祓川家が担当していた。そのため佳奈子も参列しているはずである。喪服ではないが華美な服装でもないし挨拶だけでもしておこうと思い公民館へ歩を進める。この期に及んでは家族に見つかるのも仕方がないと覚悟を決めた。
公民館の入り口脇にある立札が見えた時、頭から突き抜けるような戦慄が走った。
「祓……川家……!」
佳奈子の顔が一瞬浮かぶ。でも佳奈子のわけがない。
無意識のうちに走り出す。理性的な思考とは関係なく感情が体を突き動かす。公民館の周りの人には目もくれず中に入る。
「佳奈子ちゃん、まだ若いのに……」
「まさか鳥居の山……」
すれ違う人の話し声から聞きたくない言葉が聞こえる。佳奈子であろうと、おじさん、おばさんであろうと悲しいことには変わらない。それでも佳奈子でないことだけを祈った。
公民館に入るなり参列者が私に注目する。遠慮のかけらもない冷たい視線のなかを堂々と会場へ向かう。私に関することを何か囁き合っているようだが、直接言われたわけではないので全て無視した。玄関でスリッパを履かなかったせいでリノリウムの床の冷たさがソックス越しに足裏に伝わる。
「あらぁ、希美じゃないのぉ? なんでこんなところにいるの? もう二度とあなたの顔を見ないと思っていたのに」
忘れもしない嫌味に満ちた、耳に絡みつくような声に引き留められる。
「こんばんは紗也香さん。お久しぶりです」
振り返ると葬儀に似つかわしくない非常識に華美な服装と、半笑いの顔でこちらを見つめる若い女が近付いてきた。
「もお、そんなに畏まらなくてもいいのよぉ。私たち幼馴染じゃない? 昔みたいに話したらどうなの?」
守山紗也香は二つ年上の幼馴染である。守山家は旧庄屋であり、紗也香の祖父は大浅村の村長を務めている。守山家は政治的にも経済的にもこの村の有力者だ。紗也香とは私が中学生の時以来確執があり、この村で誰よりも、両親以上に会いたくなかった人物である。
「私は急いでるので――」
「この村では急ぐようなことなんてなんにもないわ。東京ではあるまいし」
私の言葉を遮るように紗也香は言い放つ。
「佳奈子が自殺したって話は知ってる?」
「自殺……したんですか。佳奈子が? 嘘でしょ? ねえ!」
紗也香の話が信じられなかった。まさか自殺なんてありえない。つい五日前に私に帰ってくるよう手紙を出したのだ。その佳奈子が自殺なんてありえない。
紗也香は私の反応が予想外だったのか驚いた様子である。
「あら、知らなかったの――」
「今は黙っていてくれませんか」
いろいろな感情が混ざり自分でもよく分からなくなっていた。悲しいことだけは理解できたが、それでも涙は出なかった。そして親友の死に涙の一つさえ流せない自分に嫌悪した。
そのあとのことはよく覚えていない。紗也香をどうかわしたのか、どうやってここまで来たのかも。気が付いたら公民館の裏手の植え込みの陰でうずくまっていた。
「ああ……佳奈子ぉ……」
なんで佳奈子は死んでしまったのだろう。なんでもっと早く佳奈子に会いに行こうと思わなかったのだろう。
「うわ! 誰かと思ったら希美か!」
顔を上げると植え込みの向こうに喪服の男がいた。
「…………」
「俺だよ、川田健太だよ。……希美……だよな?」
「……そうよ」
髪は黒く短く、何よりいつも制服をだらしなく着崩していたのに、今は喪服をきちんと着ている。記憶にある川田健太とは真逆の人間を川田健太と認めるのに少し時間がかかった。
「やっぱり希美も帰ってきていたのか。それよりどうしたんだ、こんなところで? 佳奈子のことは聞いたか?」
「……うん」
「そうか……。俺も昨日聞いたばっかで驚いたんだ」
「佳奈子、本当に自殺したの?」
「自殺? 誰がそんなこと言ってたんだ?」
「え、自殺じゃないの? さっき紗也香が……」
「いや、事故って聞いてるぞ。俺は。理由はわからんが一人で鳥居の山に行って事故にあったと」
鳥居の山? 事故? 何を言っているんだろう? 紗也香の言っていた自殺とはなんなんだ。
「斎場では見かけなかったけど佳奈子には会いに行ってきたか?」
「……ううん」
「じゃあ行ってやれ。そのためにわざわざ村まで戻ってきたんだろ?」
ちがう、と思ったが健太は何も知らないだろうと思い口をつぐむ。本来なら佳奈子との旧交を温めるつもりだったのだ。それが永遠にかなわず最期の別れをすることになるとは夢にも思っていなかった。むしろこれは夢なのではないかと思うほど現実感がつかめていなかった。
再度正面から公民館に入る。もう式も終わりかけで先ほどと比べると人はまばらになっていた。式場は一階のホールらしい。ホール手前の受付机にいる佳奈子のおばさんと目が合った。
「希美ちゃん……。あなたも来てくれたのね」
目を腫らし憔悴しきった姿の佳奈子のおばさんは記憶にある、若々しく元気で陽気な姿とはまるで違った。
「心からお悔やみ申し上げます……」
「あなたも来てくれて佳奈子もきっと喜んでるわ……」
ホールに入ると正面の遺影の中に佳奈子の笑顔があった。遠い記憶にある笑顔と寸分も違わない笑顔である。
「佳奈子……」
思わずそうつぶやく。
焼香の列はもうなく、まっすぐ正面に向かう。そこに佳奈子のおじさんがいた。やはりおばさん同様憔悴しきって別人のようである。
「希美ちゃんか……来てくれたのか」
「このたびは心からお悔やみ申し上げます」
そう言い焼香を済ます。
「佳奈子の、顔を見てもいいですか」
そう言うとおじさんの顔が少し困惑するのが見て取れた。
「……すまない。それはできないんだ……。希美ちゃんの記憶の中の佳奈子のままで留めておいてくれ」
「……はい」
すぐ横には純白の布が被せられた棺があるが蓋は閉じられていた。おじさんの言葉がどういう意味なのかはよくわからなかったが、詳しく聞こうとは思わなかった