夢幻
「なあ、佳奈子ちゃん。本当に山に行くの?」
「怖いんだったら、健太くんはもう帰ってもいいですよ」
「いや、まあ怖いのもあるけどさ、鳥居の山といったら近くにあれがあるじゃん?」
「ああ、それなら大丈夫ですよ。参道を金網のところまで行って戻ってくる。それ以上でもそれ以下でもないですから」
「佳奈子ちゃんがいいって言うならいいか。というかあのことは希美に話したの?」
「話してないですよ。健太くんは?」
「俺が言えるわけないだろ」
「まあ確かに。でも時期が来たら話すつもりです。でもその時期は永遠に来ないかもしれないですけど」
「希美しだいだな」
――――
「二人ともお待たせ」
トイレを済ませてから外に出る。佳奈子と健太はもう準備ができ、外で待っていた。夜風が酒で火照った体をさましてくれる。
「では行きましょう」
役場の裏は山のふもとに沿った細長い土地で、そこに田畑が続いている。その中央に村の墓地へとつながる一本道が街灯に照らされ浮かび上がっていた。田んぼの果て、墓地の手前が鳥居の山の入り口である。
「実はね、私、村に帰ってくるのが少し怖かったの」
夜の道を行く三人を真上から満月が照らす。森も田んぼも里も蒼く優しく照らす。
「佳奈子とか健太とか、佳奈子のおじさんもおばさんも、こんな私に、あんなに良くしてくれるとは思わなかった。だって私は村を捨てたから。当たり前のように迎えてくれるとは思わなかったから……」
「なにバカなこと言ってるんだよ。だれが何と言おうと俺たちは友達だろ?」
「そうですよ。何があっても、時や場所を違えても私たちはずっと友達ですよ」
月がゆがんで光がにじむ。私にはこんな素敵でかけがえのない友達がいたんだ。
「東京はいろいろ複雑で世知辛いかもしれないけどさ、いつでも戻ってこい。俺たちはいつでも歓迎するからな。佳奈子ちゃんもそうだろ?」
「はい、もちろんです」
話をしながら歩いているうちに鳥居の山の入り口まで来ていた。今まで歩いてきた道沿いに小川が流れており、そこに参道に入るための小さな橋が架かっている。細い蛍光灯の光に、橋の手前にかけられている鎖が鈍く照らされていた。鎖の向こうの路面は落ち葉が積もり久しく人の立ち入りがないことを物語っている。
「ここから先は電気が通ってないので懐中電灯で行きます」
鎖ぐらい簡単に乗り越えられる。鎖の持つ物理的障壁の意味などほとんどない。しかし、鎖を張ること自体が入るなという意思表示であり、精神的な障壁の意味を持つ。鎖があるだけで実際に入ろうとする意志はそがれる。
鎖を乗り越え神域への結界を渡る。乾いたコンクリートから湿気た落ち葉の積もった道に入ると、すぐに闇の中から鳥居が現れた。
「この鳥居はくぐっても大丈夫なの?」
「はい。でも里から見える中腹の大鳥居はくぐってはいけません」
鳥居をくぐり参道を進む。夜の山一般の雰囲気なのか、鳥居の山特有の雰囲気なのか、あるいはその両方かはわからないが、佳奈子の言う通り厳かで恐ろしい雰囲気は感じる。
「…………」
誰も何も話さず黙々と参道を登っていく。石畳と石段であり、思ったよりもしっかりとした参道であった。木々の隙間から幽かに月明かりが漏れこんでくる。どれくらい時間がたったかはわからないが、石段の先にふと奇妙なものが見えた。
「あれです。あれが金網です」
まさに異様な光景である。参道周辺だけでなく左右の闇の果てから山の中を延々と金網と鉄条網が連なっていた。そして参道の正面には、南京錠で厳重に施錠された錆びついた鉄製の扉が立ちふさがっている。先ほどの鎖どころではなく本気で立ち入りを拒んでいるのがわかった。
その鉄の扉の向こうに、月明かりに照らされ、朽ちかけた大鳥居が夜空にかかっているのが見える。里からは見慣れた大鳥居も、真下から見ると迫力があった。
「俺、こんなに鳥居の山を登ったのは初めてだよ」
「私も……大鳥居をこんなに近くで見たのは初めて」
「ここの空気は全然違うということが分かってもらいました?」
「確かに静謐だけど場違いというか、長く居てはいけない空気ね」
先ほどから三人の会話以外の音が全く聞こえない。それなのに参道の周りから、何者かに監視されているような、様子をうかがっているような気配を感じていた。一刻も早く山を下り里に戻りたい。
「大鳥居の手前まで行ってみます?」
佳奈子は肩に下げた鞄から鍵束を取り出しそう言った。
「この扉の鍵です」
「ちょっと佳奈子! 冗談はよしてよ。もう帰ろうよ」
「さすがに俺もこの扉の先はパスしとくよ。金網が見れただけでお腹一杯。空気も厭というほど味わったしさ」
お互い様子を見合い、しばらく沈黙が包む。
「じゃあ帰りましょう。もう夜も遅いですし」
思わず胸をなでおろす。この扉の先に進むと本当に戻れないような、一方通行の常世への境界のような気がしていた。
普通よりも速い足取りで参道を下る。往路よりもかなり早く橋のところまで戻れそうだ。下の鳥居が見えたところでふと先頭を行く佳奈子が足を止めた。
「佳奈子、どうし――」
「静かに! 誰かいる」
細めた声だが厳しい口調で私の発言を遮る。緩みかけた緊張が再び締まる。
参道から外れた山の中に懐中電灯の光が見え、何と言っているかはわからないが複数人の話し声が聞こえる。こんな時間にこんな場所で何をしているのか。
「私が様子を見に行きます。希美ちゃん、このかばんを持っていて。健太くんもここで少し待ってて」
「俺も行くよ。やばい奴だったらどうするのさ?」
「村の人だったら、健太くんがいると話がややこしくなります。もしトラブルが起きれば他の人を呼んできて」
「待って佳奈子。危ないから行かない方がいいよ」
先程の鉄の扉の前とは違う嫌な予感がしていた。なぜかここで佳奈子を行かせない方がよいと思った。
「大丈夫ですよ、希美ちゃん。この山は私たち秡川が管理しているのですから」
鞄を肩から外し、私をまっすぐに見つめる。
「はい、このかばんをお願いね。すぐに戻ってくるから」
そう言うと、佳奈子は私たちをすり抜け、人影の方へ向かってしまった。
私は健太と、じっと参道から佳奈子の様子を見つめていた。開けた場所のようで月明かりが怪しい人影を照らしていた。人相までは見えないが三・四人はいるようだ。
「あなた……こんな場……」
佳奈子の声が遠くに微かに聞こえる
「なんで……いるの? 村の……忘れた……?」
会話に耳を澄ますが何を言っているのかわからない。
「それよりも……はどうするつも……」
「今……を話すべき……」
相変わらず話の中身は聞こえないが、厳しい話になっているのは遠くで聴いていても分かった。
それは突然で、あっという間だった。遠くの人影に動きがあった。数人が佳奈子を取り囲んで押さえつけた。
まずいと思ったがもう遅かった。一瞬きらりと光った黒い塊が佳奈子めがけて振り下ろされ、鈍く重い音が、静かな森に響いた。
「佳奈子!」
そう叫ばずにはいられなかった。まったく訳が分からないが、何が起こったのかだけは理解できた。
「おい、あれまずいんじゃないのか? とりあえず里まで戻ろうぜ」
健太の声からも焦りが伝わる。先ほどの叫び声に気づいたのか数人がこちらにやって来るのが分かった。
「おい、希美! 行くぞ! あいつらに捕まっちまうぞ!」
そばにいる健太の声が遠くに聞こえる。藪をかき分け人影がどんどん近づく。
「おい、希美、何ぼさっと座ってるんだ? 早く立てよ!」
細めた声だが強い口調でそう言う。私の腕を掴み持ち上げようとする。
そんな中、私は夢から覚めたように極めて冷静であった。何をするべきか、全てわかっていた。
「なんで逃げないんだよ? あいつらに捕まるぞ!」
腕を引かれる力は一層強くなるが、健太の声は遠くに聞こえていた。
「ああああ。俺は先に行くぞ! 希美も必ず来い!」
堪らず健太は駆け出した。私はただ、健太の後姿を見送った。
佳奈子から預かった鞄から先ほどの鍵束と、首にかける紐のついた、黒く小さい鏡を取り出した。
「なんでこうなるまで忘れていたんだろう……」
鏡を首に下げ、立ち上がると参道を駆け登った。
「もう一度。今度こそ」
月明かりの仄暗い参道を駆け抜ける。追手の気配はない。鍵束で鉄の扉を開き、大鳥居をくぐり、黒鉄神社の本殿までたどり着いた。
境内は石畳が敷かれ、山の中とは思えないほど開かれた場所であった。
何のためらいもなく本殿の扉に据えられた南京錠を外し、扉を開け放つ。
「もう一度よ。何度でもやってやる」
闇に閉ざされた社殿の中にそう言い放ち、一歩を踏み出した。