昔話
下のほうからまたどたどたと音が近づいてきた。
「遅くなりました。たくさんお酒持ってきましたよ。希美ちゃんもまだ飲みます?」
六缶一セットのビールのパックを二つ、計十二本抱え佳奈子が戻ってきた。
「おお、俺ビール大好き」
「グラスも冷えてますよ」
さらにグラスを三つテーブルに置いた。あれ、三つ?
それを見て思わずベッドから飛び起きた。
「佳奈子ー。私はもう飲めないって」
「健太くんが来てから二次会って話じゃありませんでした?」
「そうだったっけー?」
「元気そうじゃないですか? 希美ちゃんも一緒にどうです?」
はあ、とため息をついてテーブルに向かう。実際酔い具合は少し落ち着いてきたから、飲もうと思えばまだ飲める。
二次会の佳奈子の標的は健太のようで希美はゆっくりっと落ち着いて飲むことができた。それにしても佳奈子は鬼のように酒を飲み続ける。
「ああ、佳奈子ちゃん! 俺もう無理だよ」
「ええ~、このビールは健太くんのためにとっておいたんですよぉ」
「そうだったんですかー。それではいただきます!」
健太もそろそろ限界だろうによく飲むもんだと感心した。
「それにしても佳奈子ちゃん。こんなに酒に強いとは知らなかったよ。昔のイメージだと希美が一番飲みそうだったのになー」
健太の奴め、こっちに振ってきたな。
「昔といえば健太は昔からほんとバカだったよね。神社の拝殿に忍び込んで佳奈子のおじさんにめちゃくちゃ怒られたり、アルコールランプ割って危うく学校全焼させかけたりとか……」
「あははは、そんなこともあったな。でも希美だって勉強はできたけど、その点は俺と同じでバカだったろ?」
「健太にバカと言われるのは心外よ」
「だってさ、田んぼにはまって、出られないーって大泣きしてうちのばあちゃんに引っこ抜いてもらったのは今でも爆笑ものだろ」
「あれは元はと言えば、あんたが田んぼに浸かると虫に刺されなくなるとか言ったからじゃない?」
「それに騙される時点で阿呆だろ」
「うう~」
かなり恥ずかしい思い出を持ち出してきた。健太がまた一人で笑っている。
「でも健太くんが馬鹿なのは私も同意ですよ」
「だよねだよねー。さっすが佳奈子さんわかってらっしゃる」
「入っちゃいけないっていう鳥居の山に入って魚釣りしてたのがばれて、村長さんに怒られてたし」
大浅村には二つの神社がある。一つは佳奈子の実家であり村人の信仰の中心の白銀神社。もう一つは村の西にある鳥居の山と呼ばれる山の中腹にある山の神社である。ふもとの村から見ても分かる、大きな鳥居があることからそう呼ばれている。山の神社は祟り神がおり、村人から畏怖の念で信仰されている。村の子供たちには厳として入ってはいけないと言いつけられている場所なのだ。
「鳥居の山に入ったのは俺だけじゃないのに、あのジジイ俺ばっか叱りつけやがって」
「見つかるやつが悪いんだよー。この、のろまー」
「それにしてもさ、鳥居の山ってなんで入っちゃいけないのさ」
「山の神様に祟られるからですよ」
「そう、それが意味わからないんだよ。だって俺は何度も入ってるのにぴんぴんしてるぜ」
「もう祟りは起きてるんじゃない? 主に頭に」
「たぶん上まで行ってないからだと思いますよ」
「そういえば佳奈子のところは山の神社も管理してるんだっけ?」
「うん。里にあるのは白銀神社だけど、山にあるのは黒鉄神社っていうの。神社自体は普通の建物だけれど、そこには三つの決まりがあります」
酔っぱらいの雰囲気から一気に空気が変わったような気がする。
「居るな、入るな、見るな。この三つは秡川の人間も厳守なのです。それ以外の人は山の神様の気紛れだけど、あの大鳥居をくぐるとまず間違いなくアウトかな?」
「アウトってどういう意味よ? 佳奈子ちゃん?」
「死ぬって意味です」
「佳奈子が言うと冗談にならないよ」
「冗談なんかじゃないですよ。だから鳥居の手前には金網と鉄条網を張り巡らせているし、参道は鎖で入れないようにしてあります」
「あー、墓場前の鎖でしょ? 俺、鎖は乗り越えたことあるよ」
「私も鎖は知ってるけど、鉄条網まで敷いてあるとは知らなかった。それにくろがね? て名前もあったんだ」
昔から家族や近所の大人から入るなと言われていたけど祟りで死ぬっていうのは正直言って眉唾である。
「でもさ、それって子供が山で迷子になったり事故にあったりするのを防ぐためのよくある戒めの一つなんじゃないの?」
「それがね、村の古文書を見てみると案外迷信でもなさそうなの」
「佳奈子ちゃん、なんで古文書なんか見てるのさ」
「私、村役場の中でも特に仕事が少ない民俗資料室の配属で、職務中かなり暇だから蔵書を読んでるの。と言ってもこれも仕事の一つなんですけど」
「お役人様は忙しそうで何より。俺の村民税を返してくれよ」
「それで、迷信じゃないっていう根拠は?」
「まずは村の昔話から――」
むかし、むかし、大浅村に白銀神社も黒鉄神社もなかったころ、今の鳥居の山から人喰い鬼が下りてきて村人を山に攫っていきました。その当時村にあったお寺のお坊さんが怪異を鎮めるため山に向かいました。しかしそのお坊さんも二度と戻ってはきませんでした。多くの村人が犠牲になり、当時の村の長は村を放棄しようと考えていました。
そんなある日の夜、村の長の夢枕に二柱の神様が立ちました。曰く、伊勢の国より神官を迎え吾らを祀れ、と。翌朝目を覚ました長は、すぐさまこの地を治めるお殿様のところへ向かい、神官を迎え入れてはくれないかと相談をしました。領民が鬼に苦しめられていることを不憫に思ったお殿様は、すぐに伊勢の国に遣いを送り、神官を連れてきてくれました。伊勢から来た神官は里に白銀神社を建て村を守り、山に黒鉄神社を建て悪鬼魍魎を鎮めました。以来山から人喰いが下りてくることなく平和になりました。
「で、それのどこに迷信じゃない要素があるの」
「まず、お坊さんが妖怪に立ち向かったってあるけど、うちの村にはお寺はないですよね? その寺の跡がうちの裏の山にあるの」
「へー、それで」
健太がつまらなさそうな顔で佳奈子に問う。私も期待していたほどではなかったので、少し白けた。
「それに当時犠牲になった人の記録が全部載っている文章があったの。それでこの伝説は今からおよそ三百五十年前の江戸時代の慶安年間に起きた出来事だと分かりました。ちょうど白銀神社の建立も慶安年間というのが何よりの裏付けだと思います。そして、本当にこの慶安年間に大勢の人が亡くなっているのなら慶安と書かれている墓石が普通より多いはずですよね? だから村の墓の古い墓石を調べたの」
「で、どうだったの?」
「記録に載っている人のほとんどが墓石に刻まれていました」
「すごいじゃん。確かにその時代に多くの村人が亡くなる出来事があったのは事実のようね。でもだからと言って迷信じゃないと言えるわけじゃないでしょ? 妖怪は往往にして疫病や自然災害、犯罪者や見慣れない動物を喩えたもの。そこらへんはどうなの?」
「さすが希美ちゃんです。それだけだとまだ迷信の域から出ません。それで今度は金網と鉄条網が敷かれるようになった経緯を調べました」
「たしかに、金網と鉄条網は最初の伝説からはかなり最近の出来事だしね」
「そう、今度は太平洋戦争の直後の昭和二十三年当時の村長、守山長次郎の日記、あと当時の新聞記事の切り抜きにこんな記事があったの」
そう言って、机からファイルを取り出し、古文書のコピーを取り出した。
『 九月廿日 月曜
早朝、鳥居山参道入口ニテ前日ヨリ行方知レズノ薮中ノ里中玉枝ノ亡骸ヲ林田喜助他二名ノ農夫ガ見ツケル。着物ハ無ク、眼球、耳、頬、舌、乳房、腹、臀部、腿、脹脛ヲ喰イ千切ラレタル姿ナリ。玉枝ハ山ノ神ニ魅入ラレタルナリ。警察晩マデ忙シクシタリ。 』
「簡単にまとめると里中玉枝という人が鳥居の山のふもとの、墓地の前の道で惨たらしく殺されていたと書いてます」
「うえー、えげつねぇー。俺グロい話は苦手なんよ」
「新聞にもこの玉枝が亡くなったという記事がありました。そしてこの翌年の村予算に黒鉄神社の周りに鉄条網を敷く予算が計上されていますし、村議会議事録にも祟りを避けるために立ち入りを物理的に規制した方がよいという趣旨の発言がいくつも出ていました」
「その玉枝さんの事件はどうなったの?」
「警察の資料も、当時は自治体警察だからあるかもしれないと思ったけど、県警本部ができたときに全部持っていかれてしまったみたいです。新聞記事の方を追ってみたけど続報はありませんでした」
「自治体警察ってなんぞ?」
「当時は村が警察を運営していました。それを自治体警察といいます」
「へー、佳奈子ちゃんは物知りだね」
「うーん、なんか引っかかるなあ。なぜ当時の村人は玉枝さんの事件を祟りと結びつけたのか、それでなぜ鉄条網が敷かれるようにまでなったのか。そして、なにより、そもそも山の神は村を守るための存在なのに、なぜ村人を惨たらしく殺すようになったのか」
宵は深まり酔は浅くなる。大人たちは昔からこの話題は避けてきていたため、漠然としたことしか知らなかった。前のめりの知的好奇心が脳を満たしていく。
「神には荒魂と和魂という二面性があります。和魂は人々に様々な恵みをもたらす一方、荒魂は人々に災厄をもたらします。おそらく元は村の神様は同一の存在だったのだろうけど、荒魂と和魂はそれぞれ独立した存在になったのだと思います。神道ではあまり珍しいことではないのですけれど。それで山の神の方が荒魂で、さらに山の悪鬼と融合して祟り神になった。だからその神域を侵す者に祟りをなすようになったのだと思います」
「それで、玉枝さんとの関係はどうだったの?」
「そこまではわかりません。村のお年寄りに話を聞いてみましたが、誰も詳しく教えてはくれませんでした。でも何かしらかの理由で鳥居の山に入り祟りにあったという話だと思います」
「そういえば俺たちが子供の時も鳥居の山の祟りってあったよな?」
「あ! 平河さんのところの娘さんの事故が祟りじゃないかって言われてたの思い出した」
「それも祟りの可能性はあります。私も小さかったのと、誰も教えてくれないので詳しくはわからないのですけど」
「まあ、実際に人が死ぬ事件があったから、山に入ることを禁じているというわけね」
「実を言うと玉枝の事件の前から山には入ってはいけないという話はあったみたいですけど、出自はわかりませんでした」
「それでも、鳥居をくぐると死ぬということの証明にはならないわ」
「そうか、俺はもう十分納得したけど。山には危ない神様がいる。間違いないだろ」
「じゃあ今から山に行ってみます?」
佳奈子の提案に思わず固まった。まだ信じていないとはいえ実際に行くというのは躊躇いがあった。
「いやでも暗いし、お酒も入ってるしさ、行くとしても明日じゃない?」
「あれー。健太くん、まさか怖くなっちゃったんですか?」
佳奈子がくすくすと笑う。幽霊の類は信じていないが夜の墓場や誰もいない学校、廃病院の雰囲気は本能的な拒否感がある。夜の村やその雰囲気は好きであるが、夜の山は別である。
「参道は私たちが使うから整備されています。それに私がいれば金網まではたぶん大丈夫ですよ。禁足地にて神の気配を感じ取ることができます。空気が里とは全く違うことを分かってもらえると思いますよ」
「まあ、季節外れの肝試しと考えれば面白いかもね。鉄条網も見てみたいし」
「わかった。俺も行くよ。女の子だけで夜の山に行かせるわけにはいかねえし……」
「じゃあ決まりですね。うちの親が眠ってから行きましょう」
入るなといわれていた山に入れる。鎖の手前から見上げることしかできなかった参道に足を踏み入れられる。恐怖より好奇心の方が上回った。