旧友
――――
「ええ! 希美ちゃん、東京の大学に行くの?」
「ちょっと佳奈子、声が大きいよ」
高校からの帰りは毎日こうして二人、バスで帰っていた。冷静に考えれば乗客は少ないし、うるさいエンジン音にかき消され誰にも聞こえてないはずである。でもあえてそう言ったのは、このことを佳奈子以外の誰にも知られたくなかったからである。
「大丈夫ですよ。希美ちゃんならきっと行けます」
わざわざ声を合わせてくれた佳奈子にほほ笑む。
「でもどうしてわざわざ東京まで? 下宿になるんじゃないですか」
「私は東京でやりたいことがあるの」
「そうなんだー。希美ちゃんと離れるのはさみしいけど私応援するからね」
そう言うと佳奈子は寂しげに目線を落とした。生まれたときから佳奈子とはずっと一緒だった。しかし東京の大学への進学を決意し、考えている未来が実現すれば、佳奈子とはほとんど会うことはなくなるだろう。だからこそ佳奈子には一番初めに話しておくべきだと考えた。
「ありがとう。東京に行っても佳奈子とはずっと友達だから。たまには会いに戻るからさ」
「約束ですよ」
「うん」
笑顔ではあるがやはり寂しさは隠しきれていない。寒さが身を刺す寒空の下、そんな佳奈子を見ると罪悪感が冷たい針のように私の心も刺した。
――――
バス停は交通手段を持たない者にとって唯一の下界との窓口である。高校生の時は毎日のようにここへ向かい、ここへ帰ってきた。懐かしい景色に懐かしい情景がふとよみがえる。捨てた故郷といえども、生まれてからかなりの時間を過ごした場所である。自然と雑多な記憶や感情が湧き上がる。
「今日は希美ちゃんが帰ってくるっていうから健太くんも呼んでるんだよ」
「そうなんだ」
興味なさげに答える。いや、実際あまり興味はない。今も昔も。
私と佳奈子、そして川田健太の三人はこの小さな村では珍しく同学年である。
「久しぶりに三人そろうんだからもっと嬉しそうな顔しなよー。私も働きだしてから健太くんとはあんまり会えてないけど」
佳奈子と健太は高校を卒業した後、進学をせず働いている。健太は何をしているかわからないが、佳奈子は村役場に就職したらしい。
バス停から佳奈子の家までは、国道沿いに流れる急峻な谷川にかかる橋を越え、村の中心部を役場前の広場まで進む。その奥にある白銀神社が佳奈子の実家である。
佳奈子の秡川とは変わった名字で東京に行っても同じ名字の人間には会ったことがない。昔は意識しなかったが秡という字は神道に関する文字で、そのため神社の家系であると納得したことがある。
「村ってこんなに暗かったっけ?」
「東京モンはこれだからー」
「いや、そんなつもりじゃなくってさ。昔はまだこの時間だとお店とかあいてなかったっけ?」
「あはは。暗くなったのは本当ですよ。今はもうお客さんが来ないからって日没前から閉める店も多いんです。でもここ三年、高齢で続けられないからって閉店した店も多いの。八百屋と文具屋はなくなったけど平田さんのところのスーパーが代わりをしているって状況なの。だから買い物は今だと平田さんちか、下の町まで行くかのどっちかなの」
「人口減少は田舎の方が激しいから大変じゃない?」
「実は意外なことに大浅村の人口はほぼ横ばいなんですよ。入ってくる人はほとんどいないけど、出ていく人も少ないの」
「みなさん郷土愛がお強いようね」
そんな話をしているうちに閑散とした中心地を抜け、村役場の前まで来た。田舎にありがちな、役場だけは立派な建物である。そしてその役場から見えている石造りの鳥居が佳奈子の実家である白銀神社の入口である。
先ほどまで世界を赤く染めていた日は既に山際の下に隠れ、暗闇が湧き上がってきた。時間はまだ午後6時にもなっていないのに、村はまるで深夜のようにひっそりと静まりかえっている。東京と大浅村は時間の進み方さえ違う。違和感を覚えるが大昔からここはこうだった。
白銀神社はこの小さな村には不釣り合いなほど立派なお社である。ずっとこの村に住んでいるとこれが当たり前だと思うが、世間一般で見れば観光地になってもいいくらいである。同様に佳奈子の実家も立派な日本家屋のお屋敷である。
「あら、希美ちゃん。久しぶりねぇ。いらっしゃい」
「おばさんお久しぶりです」
「おう、希美ちゃんか! 東京はどうだい? 勉強は頑張っとるか?」
佳奈子の両親から、久しぶりに会った親戚のような歓待を受けた。実際会うのは久しぶりであるが。少し年を取った風ではあるが昔からこの二人は陽気で面白い人で、それは今も変わっていない様子である。
「東京からは長旅だったでしょ? ゆっくりしていってね」
「希美ちゃんはいつまで大浅にいるんだい?」
「あー、もう、お父さんもお母さんも! とりあえず部屋に案内するから質問はあと!」
佳奈子の両親からの質問攻めをうまくかわし、佳奈子の部屋に逃れる。
「うちの両親、希美ちゃんが帰ってくるって聞いてからずっとうきうきでさ。ごめんね」
「いいよ、こんなに歓迎されるとは思ってなかったから。むしろちょっとうれしいくらい」
そう言ってお互い顔を見合わせ笑いあった。こんな純粋に笑えたのは久しぶりだった。
その後の晩御飯は大宴会だった。佳奈子の両親の手作り料理と、いいお酒をたくさん楽しんだ。
「ごちそうさまです……ああ、もうお酒はそんなに飲めませんって」
「希美ちゃんお酒弱いんですかぁー? まだワインがありますよぉ」
佳奈子はお酒が入るとかなり面倒くさい。
「まって佳奈子! まだお酒が入ってるのにワインは入れないで! っていうかこれお猪口だよ!」
「ほぅらぐいっといっちゃってください! ワインの次はまた日本酒ですよー」
「もうムリー」
思わず外に逃げ出す。しかしその後も宴会は続き、かなりのアルコールを摂ることとなった。
「佳奈子ぉ、飲みすぎちゃったよー」
「役場の飲み会はあれくらいが普通ですよ? 大学の飲み会って、もっとこうウエーイ、ヒャッハーみたいな感じで飲みまくってるんじゃないんですか?」
「偏見よ。すべてのアメリカ人が太っていてホットドックとコーラ持ってハハハーってやっているわけじゃないの」
「希美ちゃん、アメリカ行ったことあるの?」
「ないけど、そんなものでしょ。たぶん」
そう言って勝手に佳奈子のベッドに倒れこんだ。かろうじて意識は失わなかった。やらかして翌日秡川家の皆様に土下座をしなくて済みそうだ。
「そういえば健太はいつ来るの?」
「旅館のお仕事を手伝ってから来るって言ってたけど……。もうすぐ来るんじゃないんですか?」
仰向けのまま眼だけ動かす。壁にかかっている時計は午後九時三十分を回ったところだ。あんなに飲んでまだこんな時間かと思う。そんなことを考えていると、ちょうど玄関チャイムが鳴った。
「ほら健太くんが来たよ」
下の方でどたどたと音がし、それがだんだんと近づいてくる。
「こんばんは。おお、マジで希美来てるじゃん! 久しぶりー」
やはり眼だけ動かして健太を捉える。
「あぁ、久しぶり」
「健太くんこんばんは」
「って酒くせー。どんだけ飲んだんだよ!」
「まあまあね」
「そんなに飲んでないですよ。それよりも座ったらどうです?」
「おじゃましまーす」
こうして三人だけの同窓会が始まった。
「いやあ、こうして三人集まって話すのなんて、中学校の卒業式以来じゃないか?」
「私と希美ちゃんは高校も一緒だったんですけど、健太くんは違ったもんね」
「で、高校卒業したと思ったら、今度は希美は東京に行っちまうしな。俺は村に戻ってきたってのに」
「たしかに高校卒業してからは私と健太くんはよく合うようになりましたよね」
「そうそう、なんてったって佳奈子ちゃんはお役人様だもんな。希美は東京の大学で将来は学者か官僚か、それとも流行の外資系企業で世界を股にかけるのか? 同窓生は出世頭で誇らしいな」
そういって一人で笑い出す。
「健太くんもお酒飲みます? まだたくさんありますよ」
「じゃあ少しいただこうかな?」
「じゃあ下からビール取ってきますね」
そう言って佳奈子は部屋から出ていった。私と健太の二人だけが残される。
「そういえば――」
「希美は――」
会話が宙でぶつかり行き場を失いお互い口をつぐむ。少し気まずい。
「希美からどうぞ」
「ありがとう。あんた高校の時と比べると変わったね」
「高校? ああ、あの時は若気の至りってやつだよ」
「あら? もうおじさんみたいだね?」
健太は金髪でピアスを開けた、いわゆるやんちゃな高校生であった。それが今だと髪は黒く短く、服装も落ち着いた雰囲気であった。おじさんとは言ったが大人にはなったと思う。
「まだ煙草は吸ってるの?」
「いや、もう煙草もパチンコもやめたよ」
「もう大人なんだから堂々と吸えるのに?」
「村には煙草は売ってないんだ。煙草を買うためだけに、わざわざ下の町まで行くのは馬鹿らしいだろ?」
「私にとっては未成年の煙草の方が馬鹿馬鹿しいわ」
皮肉なもんだ。高校生の時は大人のふりをして煙草を吸うが、いざ大人になるとやめてしまう。本当に馬鹿馬鹿しい。
「あんたやっぱダサいわ」
「どういう意味だよ」
健太の問いには答えない。再び静寂と緊張が部屋を包む。希美は仰向けのまま天井を見つめる。
「あんたさっきなんか言いかけなかった?」
「ああ、希美は東京でどうしてるのかなって?」
「まあまあよ」
「希美はまた村に戻ってくるのか?」
「さあね」
健太はもう何も言わなかった。先ほどよりも気まずい沈黙が場を満たす。