日没
「ねえ、ねえってば。希美ちゃん? 私の話ちゃんと聞いてますかー?」
遠く懐かしい声にふと意識が戻った。しかし気分は最悪だ。まるで怖い夢を見た後や、取り返しのつかない失敗をした後のように胸が圧迫されていて呼吸も浅い。
「まあ長旅だったから、お疲れかもしれないですね」
木々の間から白や黄、橙の光が注ぎ込んでくる。呼吸はすぐに整ったが胸の嫌な圧迫感はまだ取れない。
「何の話だっけ?」
反射的にそう言った後、いろいろの疑問が出てくる。ここはどこ、今は何時で、何の話をしていたんだ。今まで誰と話していたんだっけ。たった今この世界が作られたような気もするし、永遠とも思えるほどの過去からこうしていたような気もする。
「本当にお疲れさんですね。今居眠りしていたでしょ?」
からかったような冗談めかした口調でそう言った。どうやら彼女が言うように、ほんの少し居眠りをしていたようだ。そんなに長く眠っていたつもりはないが、腰かけていたバス停のベンチは固く背中が痛い。
「どうしたの? 顔色悪いですよ?」
そう言って笑う彼女の顔や声色には今にも壊れてしまいそうな儚さと達観とも諦観とも言えない何かがあったような気がした。
そう、彼女は私の幼馴染で今となっては唯一の友人の秡川佳奈子だ。
「ううん、大丈夫」
佳奈子の顔から笑みが消え、心配そうな目つきでこちらをのぞき込んでくる。肩まで伸びた黒髪が夕日に照らされ白く輝いて見えた。
「様子が変だと思ったけど、怖い夢でも見たの?」
「だいじょうぶ!」
わざとらしく明るく振舞いベンチから立ち上がる。考えうる限り一番の華麗なポーズを決めようとするが、背中と腰の痛みは想像以上で、思わずうずくまってしまう。
「ううー」
「もう、大丈夫ですか」
「ごめん、調子に乗った」
いまだうずくまったままの私の手を取ってくれる。佳奈子からはほのかに、どこか懐かしい甘い香りが漂う。ふと見上げると淡い色の服に身を包んだ細い体躯の佳奈子が暗くなりつつある夕焼け空に輝いて見えた。
「そういえば、さっきまで何の話してたんだっけ?」
「いろいろ。昔話とか。それよりも今日の夜はどうするの? 実家には帰れるの?」
実家にはもう戻れないし戻るつもりもない。村を捨てる時家族との縁も、帰るべき家も捨てたのだ。
「うちに泊まっていったら? うちなら希美ちゃんの事情も分かってるし。昔やったお泊り会みたいな感じでさ」
国道に面したバス停からは山の斜面沿いにある大浅村を見渡すことができる。今日最後の斜陽の日差しが山を、村を、そして二人を赤く染める。もうじき夜になり全てが黒く塗りつぶされる。東京にはない圧倒的な原初の暗闇。東京と比べると山に囲まれた大浅村の日没は早く暁も遅い。
長い、長い夜がはじまる。
私、田中希美は家族を捨て、村を捨て、東京の大学に進学した。
日々惰眠を貪り、向上心がなく変革を嫌う村人たち。古い慣習に凝り固まり封建時代の昔から時の止まったような村。そして何よりも閉ざされた故郷で死ぬまで何の起伏もない人生を送ること。それがなにより嫌だった。
だからいつの頃からか、私は高校を卒業したあと東京の大学に進学することを夢見て、それに人生を賭けていた。テレビの画面に映し出される煌びやかな場所は、同じ日本のはずなのに、別の世界のような遠いものに思えた。いつしか、そこに行けば自分の人生を自分で決めることができる。運命は自分で変えることができる。そう夢を見ていた。
家族や近所の反対を押し切り、最終的には絶縁のような形になり、故郷を飛び出した。テレビ画面の向こう側でしか見たことのない夢に見た生活が実現すると信じていた。
しかし些細なことから大学の友人と対立し、次第に孤立していった。気付いてみれば忌み嫌っていた村に住んでいた時よりも身も心も荒んでいた。夢も憧れも全て幻想だったと気付いたとき、自分の人生や存在の無意味さを突きつられ、ひどく絶望した。
そんなとき、かつての故郷の大浅村から便りが届いた。忘れかけていた、かつての友人の秡川佳奈子からだった。便箋の中身は特別なものではなく、近況報告とたまの帰省を促すありふれたものであった。でもそんなありふれた温かさが、冷え切った私の心にしみたのだ。