神慮
今まで何をしていたのか、どうしてここにいるのかもわからない。軽い健忘症に掛かったようなぼんやりした感覚だけがある。ただ、心に焦りや恐怖もなく妙に落ち着いていた。
薄暗く朽ちた屋内では燭台に炎が灯り、それらが揺らめくたびに壁に映る影が踊るように見える。
「満点はやれぬが及第点。良しとしよう」
いつの間にか燭台の奥の座敷に黒い衣を身にまとった人物が座っていた。
「目が覚めたようじゃの、わが巫女よ。ここは黒鉄神社じゃ」
黒神のその言葉であらゆることを思い出した。ふわふわした寝覚めの思考が一気に冴える。
「説明してください!」
怒りのため、思わず立ち上がり黒神に詰め寄る。
「まだあやつの夢を排したのみじゃ。もう一度夢を見て――」
「ちがう!」
神を前にしているのも忘れ、叫ぶ。しかし黒神は平然としたまま、私をまっすぐ見据えるだけだった。
「あやつのことか? 難しい話ではない。そなたが巫女になる前に、わが力を用いて夢を見ていただけじゃ」
「なんで紗也香が佳奈子を殺そうとしていたの? 紗也香はどうしてあなたの巫女だったの? なんでそれを私に教えてくれなかったの? あんたは全部知っていたんでしょ!」
整理しきれていない心情を言葉にして黒神にぶつける。それを受けてもなお黒神は表情一つ変えない。
「聞かれてもいない些末なことは話す必要もなかろう。それに実際このようにうまくことは進んでいるではないか。何が不満か、わしには理解できん」
「でも――」
「でもどうした! そなたがわが神鏡さえ手放さなければ、たとえ居眠りをしておったとしてもわが神力でどうとでもなるのじゃ。些末なことを知って何になったと申すか!」
黒神の凄まじさに気圧されそうになる。しかし、だからと言って怒りが収まるわけではない。でもなんと返してよいかわからず、行き場の失った怒りが心の内側を駆け巡る。
「……あなたは自身の巫女であった紗也香を見捨てたのですよね?」
「あやつは困った巫女じゃったからのう」
「都合が悪くなれば私も紗也香みたいに見捨てられるのですか?」
「案ずるな。そなたのような聡明な巫女は――」
「何も教えてくれないし、平気で人を裏切る。あなたのことは信じられません!」
黒神はなおも淡々として、表情一つ崩さない。その態度も気に食わなかった。
「あなたの巫女を辞めさせていただきます。あとは自分で何とかします」
首にかけてある傍片の神鏡を外し、黒神に背を向ける。
「ここでやめてもわしは構わんが、そなたを再び巫女にすることはないと思え」
本殿の出口に向かっていたが、思わず歩みを止める。
「先ほど言いかけたが、まだそなたの夢は道半ばじゃ。ここでやめれば秡川の巫女は近いうちに必ず死ぬ。巫女ではない人間の望みを叶えるほどわしはお人好しではないぞ。わしは秡川の巫女が死ぬことは全く構わん」
「私が助ける」
「そなたのような小娘に何ができる。先ほども、わが力がなければ組み伏され、お仕舞じゃ。それに言うておろう、必ず死ぬのじゃ」
黒神の言葉が何度も頭の中で繰り返される。正直言って自力ではどうにもならないことは、はじめからわかっていた。怒りも不信も感情から来るところだ。感情で動き、その結果佳奈子を死なせていいのか。そこまで考えると社殿の扉に掛けた手を引くことができなかった。
「二つ聞かせてください」
黒神に背を向けたまま問う。
「よかろう。申してみよ」
「このまま続ければ佳奈子は必ず助かるのですか?」
「何度も言っているがそなたの夢はそなた次第じゃ。じゃが、秡川の巫女の死を避けることは難しいことではない」
「もう一つ、あなたをこのまま信じてもよいのですか?」
「われらは一蓮托生じゃ。最後までしてもらわねばわしも困るのじゃ」
「どういう意味?」
「わしを信じて悪いようにはせん。良きに計らおうぞ」
黒神の言葉を反芻する。このままここから出て行っていいのだろうか。手に持った神鏡に映る自分の顔を見つめる。
そして決意した。
勢いよく黒神に振り返り、黒神をまっすぐに見つめる。
「あなたの考えがなんとなくわかるわ」
「嗤わせるな。神の深遠なる思慮を人間ごときが理解できるか」
「でもわかるの。気のせいかもしれないけど。でも、だからあんたのこと少しは信じていいと思えるの」
「ふん、さっさと夢に入るがよい」
黒神の表情が少しだけ緩んだ。手に持った傍片の神鏡を再び首に下げ、横になると、たちまち抗いがたい睡魔に襲われた。
「そうじゃのお、これからわしの言うことは独り言なので聞かんでよい」
薄れゆく意識の中で黒神の最後の言葉が遠のく。
「一人減ってあと二人。そなたと――」