反抗
――ごめんね、希美ちゃん。
はっと体を起こす。いつの間にか部屋の明りは消えていた。健太は相変わらず大きな寝息を立てていたが、佳奈子の姿はどこにも見えない。蓄光材で光る時計に目をやると午前零時十七分であった。
「しまった」
いつの間にか眠りに落ちてしまっていた。あまり意識していなかったが、体にたまった疲労は想像以上であったようだ。自分のあまりの迂闊さに憤りを覚える。
「佳奈子、どこにいるの?」
呼びかけても返事がない。あわてて一階に降りるが、暗く静まり返っていた。玄関を確認すると佳奈子の靴がない。
「鳥居の山か」
懐の金槌を確認して、すぐに外に飛び出した。
白銀神社の石段を駆け下り、役場と広場を横目に田園地帯に入る。夜風に逆らいながら畦道を駆け抜け、鳥居の山の参道口にたどり着いた。
息が上がり、喉の奥から血のにじむような感覚がある。何のためらいもなく鎖をまたぎ、禁忌の山に入った。参道を登ると、その横からすぐに話し声が聞こえた。切れた息を殺して、様子をうかがう。
目は闇に慣れきっており、茂みの奥に人影が見える。佳奈子らしき声も聞こえる。ひとまず間に合ったと胸をなでおろす。しかし、これからおそらく佳奈子は殺されるのだろう。
息を整えながら、耳を澄ましていると夜の森に響く話し声が聞こえてきた。
「あんた何考えてるの? 自分からルールを破ってる自覚はあるの?」
「あるわけないじゃないですか」
「じゃああれはどういうことなの?」
何の話をしているかはわからないが、楽しいおしゃべりではないだろう。
「長い目で見れば内側に置いておく方がいいですよね?」
「あんたの勝手な判断で動いているだけでしょ!」
「この程度の裁量は認められしかるべきです。それにあなたこそだいぶ私情を含んでいるのでは?」
「馬鹿なこと言わないで。あたしは村を守るために言ってるの。あんたの行動は村を危険にさらしている。このことの意味が分かる?」
「…………」
月明かりに照らされ、佳奈子と話をしていた相手が見え、息をのんだ。
「まさか、紗也香が……」
紗也香が佳奈子に詰め寄り胸倉を掴む。
「村を危険にさらした以上どうなるかわかっているよね?」
「それこそあなたの勝手な判断じゃなくて?」
「……ッ!」
胸倉を掴んでいた右手で、佳奈子の細い体が押し倒される。紗也香の背後から凶器を持った二人の男が現れる。佳奈子は死の運命を従容したかのように、騒いだり助けを求めたりせず、落ち着いていた。
佳奈子が殺される光景がフラッシュバックでよみがえる。ここで行かなくてはまた佳奈子が殺される。
「やめろおおおおお」
どう対処するか考えるよりも先に体が動き、風のように藪を飛び越える。茂みの奥にいた四人は突如として現れた五人目に、一瞬反応ができなかった。しかし、すぐに鉈と鉄パイプを構えた二人の男が立ちふさがる。
「うおおおお」
懐から金槌を取り出すが、明らかに勝ち目がない。それでもかまわず突っ込む。
男の一人が鉄パイプを振り下ろす。
よけきれない。もうだめだと目をつぶる。
ドンという衝撃が走った。が、痛みはない。
直後耳をつんざく男たちの悲鳴がした。
「うわあああ、離せええ」
目を開くと二人の男に、大きな犬のような、真黒な動物が覆いかぶさり鋭い牙で噛みついていた。
「希美……ちゃん!」
「佳奈子、助けに来たよ」
「希美、なんであんたがここに!」
紗也香は何が起こったか理解できず混乱している様子である。二人の男は何とか飛びかかってきた大型の獣から逃れたが、追われて逃げ出し、闇の彼方に消えてしまった。
男たちが逃げ出したのを見た紗也香も駈け出そうとするが、同じ黒い獣に飛びつかれ押し倒される。
「そなたの意志はしかと見届けた。ゆえにわしはそなたに力を貸したのじゃ」
黒神の声を聞いた。そして理解した。この時になって初めて黒神が頼りになると思った。
「いやああ、はなして!」
悲鳴を上げる紗也香に近づく。のしかかっていた獣は私を一瞥すると紗也香を離し、森に姿を消した。私と佳奈子、それに紗也香の三人だけが月明かりの差し込む暗い森に残された。
「はあ……はあ……」
上体を起こすが完全に腰を抜かし立ち上がれず、混乱した紗也香を見下ろす。
「どうしてこんなことを……」
紗也香のことは好きではない。いい人とも思わない。でも人殺しをするような悪人とも思えず疑問をぶつける。
「あんたはどうしていっつもいっつも私の邪魔ばかりするの!」
紗也香が絶叫する。それに言い返そうとするが口をつぐむ。
思い返してみれば紗也香とももともと佳奈子と同じように大親友であった。ささいな行き違いで今は拗れきっているが、本当はもっと昔に和解できていたのではないかと思うことがある。
「私は、ただ……」
ただみんなと仲良く楽しく過ごしたかっただけなのだ。
紗也香の側に黒くきらめくものが落ちているのが目に入った。その物体に目を疑った。
首からかける紐のちぎれた傍片の神鏡であった。
すぐに自分の首と胸を確認するが、神鏡を衣服越しに触ることができた。
その瞬間ある恐ろしい疑惑が心の内に湧いた。
「どういうこと!」
思わず大声を出す。黒神に宛てた声に紗也香は体を震わす。
「どうもなにも、こやつもわが巫女じゃ」
黒神がまた直接心に語りかけてくる。
「言ってはいなかったが、こやつもわが巫女じゃ。ゆえにここはそなたの夢であるが、こやつの夢でもある。さあ、最後の仕上げじゃ。こやつをその鎚で殺め、こやつの夢を終わらせるのじゃ」
なんだ? どういうことだ? あとは夜明けを待つだけじゃないのか。なぜ傍片の神鏡が二つある。紗也香が巫女? 何もかも意味が分からない。
「説明してよ!」
「だからあんたが――」
「お前じゃない! 最初から全部知っていたのか!」
思わず紗也香に怒鳴りつけた。私の怒声に紗也香は恐怖を覚えているように見える。
「聞かれておらんしのう。それに案ずるな。そなたこそわが神託の巫女じゃ。そなたの望む夢を見るなら、こやつの見る夢は邪魔であろう。ゆえにこやつの夢を終わらせるのじゃ」
聞かれていない? 邪魔? 終わらせる? だから殺せ? こいつは何を言っているんだ。
状況はだんだん理解できたが、なぜこんな状況に立たされているのか、私はそれに憤っていた。
「さあさあ、ここで仕留めねば逃げられ後が厄介ぞ。せっかくわしが足止めしたのじゃ。もう一度のやり直しは許さんぞ」
金槌を握る手が震える。それを見た紗也香に私の思考が伝わったのか恐怖の表情に変わる。
「希美……あんたどうしちゃったの……?」
聞いたこともないような弱弱しく震えた紗也香の声が聞こえる。
どうせ夢だ。どうせ夢だ。どうせ夢だ。だから――
自分に言い聞かせる。金槌を振り上げたとき佳奈子の声が聞こえた。
「希美ちゃん!」
その声にはっと正気に戻った。
「殺せ」
黒神の声が遠のく。こいつの言いなりになるものか。私の運命は私が決めるんだ。
「終わらせればいいんでしょ」
そう言って金槌を振り下ろす。紗也香と佳奈子の絶叫が響く。
振り下ろされた金槌は紗也香の神鏡を砕いた。