覚醒
がたん、という振動で無理やり現実に引き戻された。車窓から差し込む、半分沈みかけた夕日が目に飛び込み反射的に目を閉じる。鼻を衝く排気ガスと、エンジンオイルの混ざった微かな臭いはこのバスの特徴的な臭いである。
「次はー大浅郵便局前ー。大浅郵便局前ー。お降りのお客様は降車釦をお押しください」
「もうこんなところまで来たのか」
降車釦を押し、伸びをする。いつの間にか眠っていたらしい。ここまで新幹線、特急電車や普通電車を乗り継ぎ五時間以上もかけてきたのだ。旅慣れしていない体には相当の疲労がたまっている。バスの最後列の席から車窓を眺める。懐かしい景色が次々と後ろへ流れていく。三年ぶりに戻る故郷はどうなっているのか。
「佳奈子は元気かな……」
そうつぶやいたところ、首に違和感を覚えた。
「なんだこれ」
アクセサリーなんかつけた覚えはないが、首から何かを下げていた。何かと思い、紐を引き上げたところ飾紐のついた小さな黒い鏡であった。
そこですべてを思い出す。
「今度は抜かりないようじゃの」
鏡を見て思わず叫びそうになった。鏡面には自身の顔ではなく、あの晩、山の神社で出会った神が映っていた。
「……はい、なんとか」
話しかけるが周りに乗客はいないし、最後列のため騒音で運転手まで聞こえることはないだろう。
「そなたにわが術について、いくつか説明をしておこう」
降車は次の停留所だがしばらく時間がある。すでに二度目だがよくわからないことが多すぎる。
「ここはそなたの夢じゃ」
「夢?」
居眠りした後の頭の痛みも、バスの振動やエンジン音、そこから見える景色。目の前の奇妙な鏡以外、夢とは思えず現実そのものである。
「そなたはこれから何をなすのじゃ」
「何って佳奈子に会いに……あ、そうか」
「そうじゃ。そうしてそなたの望むように事を運ぶのじゃ。そして夢を現に変えるのじゃ」
「でもどうすれば……」
「先ほど見たであろう。秡川の巫女が殺されるのを。それを防げばよいではないか。今はまだ夕の六時半ば。先ほどの夢では夜半ごろじゃったから、六時間ほど猶予があるのう」
そうか、佳奈子が殺される前の時間に戻したということか。
「だから、それをどうすればいいのかわからないの……。そうか、佳奈子を鳥居の山から遠ざければ」
「それは、すすめられんのう」
鏡の中の神が怪訝な顔をする。
「元を断たねばならぬ。あの場で下手人を押さえよ」
「それこそどうすれば……」
「今回はわしがついておる。そなたが動けば、わしが助けようぞ」
鏡の中の神は自信満々な表情である。だが、気がかりなこともあった。
「なぜ私に力を貸してくださるのですか?」
「それはそなたがわが巫女であるからに決まっておろう」
さも当然のように答える。それでも釈然としないが、頼ってもいいような気がしてきた。それに、いまはこの神様に頼る以外他はなさそうだ。
「もう一つ、この鏡についてじゃが……これは傍片の神鏡というわが神器じゃ」
直径十センチ程度の黒い鏡には、首から下げるための紐が通してある。裏面には何やら模様があり、まるで歴史の教科書に出てきた古代の銅鏡のような形である。色は黒く、何かの金属でできているようだ。
「これは夢の道標であり、わが力の源でもある。わしは黒鉄神社から出られるぬので、これを通してそなたを助けよう」
まるで携帯電話だ。携帯は捨てたが、改めて便利なものであると思った。
「もう一度言おう。ここはわが力で作り出した夢である。夢という字は二つの意味を持つ。一つは夜に見る幻想。もう一つは自身の望みじゃ」
バスは村の手前のトンネルを抜けた。もう間もなく村に着く。
「そなたに気を付けてもらいたいことが二つある。一つはわが力を失えばたちまち夢から覚める。すなわちこの神鏡を砕かれればお仕舞じゃ」
がたんとバスが揺れる。落とさないよう鏡を身に寄せる。
「もう一つは、夜明けまでに首尾よくことを済ませ、そなたの望むように現を夢に変えるのじゃ。」
「夜明けまでに?」
「いかにも。ここは夢と現の入り混じる世界。そして夢が終わり、現が始まるのが夜明けじゃ。わが力が及ぶのは一夜の夢の間のみ」
「だから夜明けまでということ?」
「そなたは聡明でよい。人が夢を見るのは夜の間じゃろう。すなわち夜明けは夢も終いというわけじゃ」
「案外不便なのね」
「われらは道理のなかで生きておる。夜が明けても人間が眠っているのは道理に反する」
「今はそういう人間もいるわ。それに私はこの夢自体が道理に反していると思うけど」
「夢とはそなたの望みと言ったはずじゃ。望み通りになって、なぜ道理に反する。むしろ道理の通りではないか」
「それってつまり夢に逃げるということ? 現実では何も変わらないじゃないですか」
「ん? なにを申しておるのじゃ? 現だと思えばここはもう現じゃ。そもそも夢と現の違いは何だと心得る」
「それは……」
「そなたの思う現が夢でないと考える拠り所は。夢が現でないと考えるのは?」
黒神の問いかけに、言葉が詰まる。
「そのような問いはそもそも馬鹿らしいものじゃ。現と思う場所こそが現じゃ」
納得したわけではないが反論も反証もできない。自分の生きている世界が夢でないと言い切れないのはその通りだ。何より現実と遜色ないこの世界を黒神は夢だと言い張っている。
「胡蝶の夢ね」
「ようやく心得たか、わが神託の巫女よ。聡明なる巫女で助かるわ」
日差しはないがまだ空は明るい。しかし日さえ沈めばもう夜である。大浅村の夜は長い。
「次こそは首尾よくやるのだぞ」