悔の夢
夜は好きだ。
ひんやりとした清澄な空気。夏は蛙の、秋は虫たちの鳴き声。漆黒の稜線と濃藍の空。そして何より、同じ村のはずなのに昼とは全く違う景色になる。出歩く人もなく、まるで世界には私一人だけになったような孤独な高揚感がある。これらの小さな非日常が楽しく、また好きなのだ。とはいっても夜更けに理由なく外を出歩くことは滅多にしない。でも今晩は出歩く理由があるのだ。
役場前広場が見えてきた。山奥の辺鄙な村なのに役場だけは重厚な煉瓦造りの立派な建物で、横浜や神戸にあっても遜色ないと思う。ふもとの町の市役所より小ぶりではあるが、大浅村の方が断然立派である。その広場に人影が見えた。
「おーい、紗也香ちゃん。待たせてごめんね」
街灯を背にして逆光のため表情はよく見えないが、紗也香は何も答えない。
「紗也香ちゃんが高校行ってから、こうして会うのも減っちゃったよね」
手を振って駆け寄る。こちらの声は聞こえているはずなのに何の反応も示さない。
「紗也香ちゃん? どうしたの」
普段は明るく活発な紗也香だが、今は黙ったままで無表情で見つめているだけであった。
「あのさ、希美。相談があるんだけど」
「どうしたの」
しばし沈黙が場を包む。紗也香は何か言おうとしているようだが言葉がなかなか出ないようである。
「希美はさ、健太くんと付き合ってるらしいけど本当なの?」
「え……うん。そうだけど」
一瞬、紗也香がなぜそのようなことを知っているのか驚いたが、知っていてもおかしくはない。村人の最大の娯楽は他人の噂話である。健太の告白を受けて一か月も経ったのだ。紗也香の耳に届いていない方が不自然である。
「それで相談なんだけど、希美、健太くんと別れてくれない?」
「は……?」
「だから、健太くんと別れてって」
「なんで?」
理由を尋ねたが直後に見当がついた。去年の秋、紗也香がまだ中三で村の学校にいたとき、健太のことで相談を受けたことを思い出した。その後どうなったかはよくわからないが、それは去年のことである。紗也香はふもとの町の高校へ進学したため、もう終わったことであると思っていた。
「なんでって? 希美は私が健太くんのことが好きなのは知ってたでしょ?」
「でもそれは去年の話だし、もう町の高校に行ったし――」
「だから何? 希美は私のことを知っていながら裏切ったんだよ」
「そんなつもりはない」
「じゃあ別れてよ」
不覚だった。紗也香の目から見れば確かに背信行為だ。だからと言ってこんな理由で別れるなんてとてもできない。
「ごめん。でもそれはできない」
紗也香は無言で睨み付けてくる。しかし、どうすればよいかわからなかった。
「あっそ。わかった。あんたはそんなやつなんだね」
「え……?」
「あんたマジ最低だね」
「ごめん。別に紗也香ちゃんを裏切ろうなんて――」
「もういい。もう私に話しかけてこないで」
嫌な汗がじわりと滲む。何か言わなければいけないが、何と言えばよいかわからず黙り込んでしまう。
「絶対許さない。あんた、もうこの村にいられなくさせてやる」
紗也香はそれだけ吐き捨てると早足で帰ってしまった。紗也香自身にどれほどの影響力があるかわからないが、紗也香の守山家は村の有力者である。なまじ冗談には聞こえなかった。私の胸には罪悪感と後悔と焦り、今まで感じたことがない感覚が渦巻き、呆然と立ち尽くすだけだった。
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