プロローグ
山には入ってはいけないと、幼いころから言われている。
祖父母、両親、近所の大人たち、皆が口をそろえ、そう言う。山には怖い神様が住んでいて勝手に入った人間を食べてしまうんだって。だからこの村の子供たちは山には入らない。
たまに大人の目を盗んでは山に入る子たちがいるが、すぐに大人たちの知るところとなり、こっぴどく叱られる。山に入らなくても、他にいくらでも遊びがある。だからそのうち子供たちは山に入らなくなる。だから誰も山の神と会うことはないのだ。
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爽やかな眩しい朝日が、どこまでも続く山々を輝かせる。雲一つない澄み渡った空から、秋の清澄な空気を風が運んで来る。
農作業着に身を包んだ真っ黒に日焼けした老齢の男は白い軽トラックを転がし、いつも通り自分の田に向かう。彼のおじいさんのおじいさん、ずっと祖先から耕している土地だ。彼自身も幼いころからここで農作業の手伝いをしてきた。田から見える煉瓦造りの村役場や北の山沿いに建つ大きな農業用資材庫は幼いころにはなかったものだが、いつの間にかそれも見慣れた風景の一部になっていた。
収穫直前の黄金色の稲穂の海を前にして彼は満足していた。災害がなくてよかった、とかこれからの収穫の手順とかを考えているとき、ふと畦道に落ちている異様なものが目についた。
「なんだ、あれ」
独り言をつぶやいて近づく。それは片方しかない女物の靴だった。毎日この場所に来るがこんなものを見るのは初めてだ。それにここは部外者が来るようなところではない。彼の田んぼに来るには村から一本しか道はなく、その先には村の墓地と、入ってはいけない山の入り口があるだけで、行き止まりになっている。
怪訝に思い、墓地の方へと目を遣る。そこにはさらに異様な光景があった。
「なんなんだ」
道の真ん中には引き裂かれた真っ白い布が落ちていた。近づいてみてみるとそれはスカートのようである。そしてすぐそばには先ほど見つけたのと同じ靴が落ちていた。
背筋にいやな汗が流れる。このスカートには見覚えがあった。さらに曲がりくねった道を墓地の方へと向かうと、今度は道の真ん中に鳥や動物たちが群がり蠢いていた。
ぞっとするほどいやな予感がする。最悪の想像が思考を染める。意を決し道路沿いの石を投げ、ぐちゃぐちゃと汚らしい音を立てている動物たちを追い払う。動物たちの立ち去った後には、真っ赤な塊が残された。
「ひいぃッ」
彼は思わず腰を抜かす。わずかに残った真っ白な服と肌は、赤黒く穢され、かろうじて人間だったということが判別できた。動物の死骸は見慣れていたが、こればかりは耐えられなかった。
彼女が臓物を晒していた場所、そこは入ることを禁じられていた山の入り口だった。