第35話 生の証明
『レイダス』
黒紫の髪に、血のように赤い瞳、抜身の刃物のような、血に飢えた野獣の狂暴性を体現したかの得ような容姿を持つ。そんな彼、レイダスという人間の名前には、家名が存在しない。
あるのは、自分で適当につけた、ただの名前だけ。
親は伊豆、顔も死ならない。なぜなら気が付いたときにはもう捨てられていたからだ。
王都の貧民街に捨てられていたレイダスは、生きるためにどんな事でもした。
盗みもやったし、たまにだが殺しもしたことがある。
けれど、どれだけ努力しても捨てられていたただの子供が、そう簡単にどん底の環境からのし上がれるわけがなかった。
事実、レイダスは何度も死にかけることになる。
ある時は食べる者が得られなくて空腹で、ある時は金品や食い物を奪おうとして殺そうとした人間に、返り討ちにあって。ある時はただの事故で、ある時は衛生環境の悪さで。
そんな月日を、ただ明日生き延びる為だけに生きる月日を過ごす。そのうちに、レイダスは自分が本当に生きてここにいる事が分からなくなっていた。
生きている実感が湧かなかったのだ。
腹はすく、怪我をすれば痛む、だがそれだけだ。
生きるために生きると言うだけでは満足できない人間だった。
ずっとそれは何かと考え、探していたが見つけられない。
だが偶然にも、そんなレイダスに答えが与えられる。
きっかけは些細な事だった。残り物のパン一つ。
同じ貧民街の人間、捨てられた境遇、レイダスと同じくらいの実力を持つ人間が、目的のために立ちはだかったのだった。
殴る、蹴る、突き飛ばす、噛みつく、叩く、踏む。
ありとあらゆる手を使って相手と競いあった。
互いに互いが気にくわない相手だった。前々から顔は知っていたが交友などない。
命を奪うつもりで戦った。全力で。
骨が折れ、血が出て、体の一部の感覚がなくなっても、止める事はしなかった。
一秒一秒が命取りになる、ケンカと言い表すのが可愛らしくなるほどの殴り合い。
そんなやり取りだと言うのに、レイダスはいつの間にか笑っていた。
この一秒はまだ生きている。次の一秒は生きているか分からないが、生きる為には決死で考えなければならない。その次はどうだろうか。そのまた次は……。
あらゆる手を突くし、実力を百パーセント以上無理やり引き出す様に殴り合って、そして最後に生きていたのはレイダスだった。
戦利品のパンを噛みちぎりながら敗者を眺めるのは、何と気分のいい時間だったことか。
そうしてレイダスは答えを手に入れた。
同等か、それに等しい力量を持つ相手と命がけのやり取りをしている瞬間だけが、レイダスに生きていいるという実感をもたらしてくれたのだ。
その内に偶然が重なり、貧民街にやって来たフェイスという人間に関わる事になった。呪術とかいうきな臭い力にたてつく人間が大勢いることに期待して、どうやって手を回したのかフェイスに身分を用意されて、学生なんてものもやった。
強い人間がいると思った。だが、結果は失望しかなかった。
どいつもこいつも腑抜けばかりでまったく、話にならなかったのだ。
それでも学校を辞めなかったのは、今はともかく未来には期待できそうな面白い人間と、因縁のある教師がいたからだ。フェイスの周囲にたまに現れる正義の騎士様もそれなりに歯ごたえを感じられたというのもある。
そんな風にして、期待した人間が上って来るのを待っていたのだが、しかしある日、まったく予想できない事が起こった。
明らかに格下と思っていた人間に、数の利があったにしても敗北してしまったのだ。
レイダスは、自分が誰かに負ける日がくるなどとは思ってみなかった。
いつかまみえる至上の敵との命のやり取りに思いをはせながら強さを磨いていた自分が、のらりくらりと仲間だのなれ合いだのに浸って生きてきた人間に負けるとは思わなかったのだ。
敗北を経験して、数えきれないくらい悪行を積み重ねたレイダスは、牢屋に入れられる事となったのだが、何がどうなってか、王宮の騎士とかいう馬鹿らしい身分の元で首輪をつけられて飼われる事になった。そしてどういうことか、レイダスは自ら甘んじてその立場に立っていた。
エルランドにかけられた「レイダスが何かを恐れている」という言葉や「本当の強さが分かる」という言葉、そして自分を倒した人間達に興味が湧いたからだ。
屈辱はある。
我慢ならなくなる時も。
だが、それでもレイダスはこの場所に居続けていた。
王宮 空中庭園
レイダスが空中庭園にある木の上でいつものように昼寝を……しようとして、しかし寝られずに考え事をしていた時、その木の下を誰かが通りかかる気配がした。
また、ステラ達が飯でも食いに訪れたのかと思ったが、どうやら違うようだった(連中は場所を変えればいいものを、たまにしつこく居座ってこの下に陣取り続けるからムカつくのだ)。
「まったくリートにも困ったものですわ、内緒にしてほしいと言っているのに、ことごとく手を借りなくていいのかなんて……、まだ無理ですわ。私だって、借りられる物なら借りていますのに。それを言うのなら貴方こそ……」
赤い髪に赤い瞳の、確かユリシアとか言う女。腕には食い物の匂いをまとわりつかせた籠がある。
なにやらその女は、この場にはいない、レイダスの監視役の女について小言の様な物をぶつぶつ吐き続けていた。
直接会話した事はないが、顔なら見た事があるしステラ達が何度も話題に出していたので覚えてしまった。
王の婚約者らしいが、そんな人間が無防備に犯罪人の近くを通るとか危機感が消滅してるとしか思えなかった。
平和ボケしているとしか思えない。レイダスの嫌いな類いの人間だ。
「おい女ぁ、誰の許可とって俺様の下を通ってんだ」
「声が聞こえましたわ。私の気のせいでなければ上から聞こえたような気がするのですけど」
さっさとどっか行けといたのだが、まるで退く気配のないその女は周囲を見回して首を傾げている。
上の気がすんなら、いつまでも横で探してんじゃねぇ。
「俺の邪魔すんじゃねぇつってんだ。とっととどっか行け女」
「まあ、失礼な言い方ですわね、私には立派なユリシアという名前がありますのよ」
「知った事じゃねぇ」
やっと上空の存在に気づいた女は、こちらを見上げてむっとした表情になる。
危険人物と王宮内で囁かれているレイダスに対して、その程度の反応だ。
危機感が無いにも程がある。
だが、ステラだのなんだのレイダスの周囲にいる女たちが特殊なのであって、普通の人間……それも貴族の女ならそんな反応を返すのが妥当だろう事はさすがにレイダスでも知っていた。
「さっさとどっか行かねぇと焼いて食っちまうぞ、おい」
なので、分かりやすくできる限り剣呑な色を乗せて喋り、相手を睨みつけるのだが、女はまるで効いていないように会話を続けてくる。眉間に皺が寄った。
何だこいつと思う。
「まあ、あなたレイダスですの?」
「だったら何だ」
まるで親しみがあるかのような声色で言葉をかけられて、こっちは怪訝な声になる。
レイダスの事を知らないのならば恐れを抱かないのも納得できるが、それならどうして親しみを抱く事になるのか全く分からない。
「貴方、こんな所で休憩していないで訓練はなさらないんですの?」
「何で俺がそんなこたぁ、しなくちゃならねぇんだよ」
「あら? でも、貴方は勇者にはなりたくありませんの?」
「あぁ?」
あまりにも突拍子のない話の飛び方をした。
本気で何を考えているのか分からなくなった女を改めて観察するのだが、まるでさっぱり理解できそうになかった。
どこからどうみても目の前にいるのは、危機感のない貴族の女にしか見えない。
剣技を磨いている様にも見えないし、腹の中に色々抱え込んでいる人間にも見えない。
「だって貴方強くなりたいのではありませんでしたの? 私は聞きましたわよ。あら、でも目の前にいる貴方は違いますのかしら……」
確かにそうだ。
レイダス強くなりたかった。いや、なりたい。
だが、だからと言って勇者になりたいとまでは思わない。
「どうしてならないんですの?」
「面倒事なんざうざってぇだろうが」
普段なら近づいてくる人間は適当に脅して遠ざけるのだが、そうしてしまえば女が一体何を考えているのは分からなくなってしまう。
仕方なしにレイダスは会話を続ける事を選んだ。
「あら、そんな事を気にする人でしたの。関係ないとか言って力だけ得てから逃げ出ししそうな方だと思っていましたのに」
それが可能ならな。
できるものならとっくにそうしている。
なってしまったが最後、そこらの組織に追いかけまわされたあげく、したくもない相手と延々と戦う羽目になるだけだ。
勇者などになったら、世界中の人間がうっとしくなるだろう。
そんな事態はレイダスの望むところではない。
どうでもいい連中や弱い人間に煩わされるのはごめんだ。
歓迎するのは強い人間だけ。
第一、レイダスみたいな人間が勇者などという大層なものになれるはずがないだろうに。
「そうですの、まあいいですわ。ところでこれを……。私が作ったものなのですけれど……」
女は手に持っていた籠をごそごそと漁る。
風に乗って上空に漂ってきた匂いが、レイダスの鼻を刺激した。
記憶の中にだけ存在するその匂いに、信じられない思いを抱いてそれから一瞬後、思わず木から飛び降りていた。
レイダスは目の前の女が差し出したそれを手に取る。
弁当箱だった。蓋を開ければより濃い、はっきりとした匂いが分かった。
貧民街では昔、身寄りのないガキ共にいつも残飯を分け与えている女がいた。
漂ってくる匂いは、そいつが作った料理の匂いと同じだった。
施しを受けるなど冗談ではないと思っていたレイダスだ。正面から漁りに行くことはなかったが、他の子供から何度か奪い取って食った事はあって、その匂いを覚えていたのだ。
美味かった。
口には出さなかったし、そんな機会も相手もいなかったが、それだけは掛け値なしに言える味だった。
それはあの頃、命のやり取り以外のもので唯一、レイダスに生を実感させるものでもあった。
だが、その味は、作り主である人間が病に倒れた事で再現する者がいなくなったはずだったが。
「ニーナ・ユレムさんのレシピを手に入れる事が出来ましたので、再現に手を尽くしましたの。その様子なら、上手くいったようですわね」
ああ、確かそんな名前だった。思い出した。
「よろしければお召し上がりになって、感想をくださいな」
「何のつもりだ、女」
「どうというつもりはありませんわ、料理を作る趣味があるなら誰かに食べてほしいと思うのが普通でしょう? 生憎と今日は知り合いに恵まれなかったので……」
弁当箱の中身に鼻を近づけるが、警戒心は杞憂で毒物の匂いなどはしなかった。
大人しく食堂を利用するような性格はしていないので、食事は他の人間〈主にステラから奪うか〉誰が気を利かせたか知らないが部屋に届けに来たものをつまむだけだった。
もとから多く食べる方ではなかったが、それでも人間なので多く動いた日には、腹がすく事がある。
「……」
大して知りもしない人間の作った食い物に手を伸ばすなど今までなら考えられない事だったが、その日はつい手を伸ばしていた。
「まあ、食べていただけるんですのね。お味はどうなんですの?」
「砂糖の量が違ぇ」
匂いでは誤魔化せない些細な違いを口に出せば、女が神妙な顔になり考え事に埋没し始めた。
「……やはり、もう少し改良が必要みたいですわね。また作ってきますので、その時は食べていただきたいと思いますわ?」
その言葉にレイダスは、思わず木の上で待っている自分を想像してしまった。
顔をしかめる。
どこかの誰かが胃袋を掴まれると人間は弱いとかぬかしていたが、レイダスはそうかもしれないと一瞬思ってしまった。