青年と友人~とある擬態生物の調査報告~
外は、六月の雨が降っていた。縁側のある部屋。ここに閉じ篭っている僕の楽しみは、大きな窓を開け放って雨に濡れた庭を見ることだった。しっとりと湿った庭の緑がやさしく目に映る。
剪定された庭木や巧みに配置された岩たちは、天候によって様々な表情を見せてくれるものだ。後ろから襖が開く音がした。僕は相手の顔を認めると、笑顔をつくって迎える。
「やぁ、また来たね」
「まぁな」
友人であった。紺色の背広を腕にかけて、ポケットに手を突っ込んでいる。うえはチェストコートとワイシャツ姿だ。着流し姿でいる自分が少し恥ずかしい。湿った風が部屋の中に這いこんで、少しだけ火照った頬を濡らした。
「こんな日にガラス戸を開けて。寒くないのか」
「こうして、庭を見るのが好きなのさ」
かれは、僕のとなりに座って庭を眺めた。何もしゃべらない。焦りで自分の顔がさらに熱くなる。気まずくなるのが怖かったので、話を振ってみよう。
「最近、騒がしいけど何かあったのかな」
少し前の事だ。今と同じように縁側に座っていたとき、号外、と叫ぶ声のあと、石塀の向こうが騒がしくなった。近所の住人たちは、喜んでいるようで、万歳の声があちこちから聞こえたのだ。
「新聞も読まないのか。ミッドウエー沖とアリューシャンで大戦果らしい」
「へぇ。軍隊さんはすごいな」
お互い声の調子に起伏がない。中身のない会話として、無意味に言葉だけが脳内で漂った。霧雨を蓄えた松の葉から、大粒の滴が苔の上に落ちる。その水玉が砕ける音色を聞き分けられるほどの静寂が部屋を満たしていた。今度は友人が口を開く。
「体の調子はどうだ。メシはちゃんと食えてるのか」
「ご飯は美味しく食べているよ」
「そりゃ重畳」
毎回こんな会話が続く。かれは、突然に僕の部屋に現れてからと言うもの、不定期に何度もやって来るようになったのだ。白状しよう。僕は、友人の名前を知らない。言いたくない理由があるのだろうかと思ったので、訊ねたことはない。訊ねたとして、それが原因で今の関係が崩れてしまうことが怖ろしかった。
それは、かれが、初めての友人であるからだ。中身のない会話。意気投合して語り合ったことなど一度もない。他愛ない話を呟き合うひととき。その時間だけは、自分の生死を分ける「会話」というものから開放されるような気がするのだ。友人は膝を叩いて、いつになく明るい声で言った。
「なにか、やりたいことはないか。行きたい所とか」
「なにもないよ。それに、どこに行けばいいのさ?」
「それを、自分で決めるのが重要だろ」
「それなら、君の行きたい所でいいよ」
僕は、おどけた調子で言ってみた。だが、相手の瞳が落胆の色に染まったことを見逃さない。ちょっと、不真面目に過ぎたかもしれない。かれは、僕を心配して言ったということを、後になってから気がつく。口が滑りだすと今度は止まらない。自分の悪い癖が出てしまった、と自責の念に駆られた。
「まぁいいさ。ただ、そんな冗談が通じないときがくることは覚悟しておいたほうがいい」
明るく言葉を返してくれたのが、救いであった。なにを言っていいか分からず、また黙りこくってしまう。こうなってしまうと、かがり縫いにされたように口が開かなくなる。思考だけが、無駄に空回りして余計なことまで考えてしまうのだ。かれにとって、僕は何なのだろう。一般的な「友」という関係がはっきりと分からない。
どこまでが「知り合い」で、どこからが「友だち」なのだろう。さらに「親友」ともなると未知の領域である。僕は独りで思い悩み、苛立った。ふと、煙りの臭いが鼻を突く。となりを見ると、いつままにか友人が煙草をくゆらせている。思わず顔をしかめて鼻をつまむ。
「嫌いなんだ、その臭い」
友人が目を見開いた。露骨に驚きの表情を浮かべている。僕は、言ってから激しく後悔した。言うべきではなかったと。
「初耳だな」
背中に冷たいものが流れた。顔の血の気がひけるのを感じて、動悸も激しくなる。相手が友人と言えど、油断した。話し相手の行動を拒否することは、決してあってはならないことだった。
謝ろうとしたが、唇が小刻みに震えて声を出せない。目にも涙が湛えられて、こぼれ落ちないように目を大きく開いた。しどろもどろになりながらも、取り繕おうと口を動かす。
「申し訳ない。すこし気になるだけ――、いや違う、大丈夫だ。べつに喫してもかまわないよ」
「謝るのはこっちだ。いやぁ気付かなかったな。そうか、そうか」
恐る恐る表情を探る。怒ってはいないようだ。くわえていたものを摘んで庭に出ると、飛び石で火種をすり潰して塀の外に放ってしまった。庭から上がった友人は、僕のとなりをすり抜けると襖の方に歩いていく。
――嫌われた。僕の直感が叫ぶ。
僕は、思はず駆け寄って肘の所のワイシャツを掴んだ。友人の眉が跳ね上がり、驚いた顔をして振り向いた。
「また遊びに来てくれ」
「気が向いたらな」
ゆっくりと優しく、友人が、僕の腕を引き剥がす。背中を見せると振り向きもせずに襖を閉めた。腹底が妙に凍てついたように冷たく、心臓の音だけが聞こえる。
かれに対する振る舞いは正しかったのだろうか。さっき話したことを追想してみる。やぁ、またきたね。まぁな。こんな日にガラス戸を開けて、寒くないのか。僕は、濡れた庭が好きなのさ……。
――嫌いなんだ、その臭い。
あぁ、やはり、あれは言うべきではなかったのだ。友人にとって居心地の良い空間を演出しなくては、かれは来ることはない。僕は、顔を手で覆って後悔した。友人にとっての僕の立場など、考えたところで仕方がないではないかと。
顔が驚くほどに熱くなっている。頭を冷やそうと思い、庭に裸足で下りた。刈り上げられた髪の毛に雨粒が絡まり、足の裏からは石の冷たさが這い上がってくる。足元の平たい石に、黒焦げた煙草の灰が雨に濡れていた。
「また、きてくれるかな」
正直に言うと、友人の傍らは心地が良かった。
かれがいなくても生きてゆける。それだけの理由で、あの人と話すときには心に余裕があった。
いま世話になってる義理の両親と言葉を交わすときとは違うのだ。僕は、二人の前での言動に気をつけなければならない。嫌われれば捨てられる。その恐怖が、いつも僕を支配しているのだ。
雨が強くなってきた。これ以上、着物を濡らせば怒られるかもしれないと思い、僕は足早に縁側に上がり、懐の手拭いを引っ張り出す。ふと床に目を落とすと、床に友人の背広が散らかっていた。
* * *
私は、高価そうな木目のテーブルの上に置かれた湯呑みのお茶を口に含んでから、目の前に整然と座っている夫婦を見た。
「何度も確認しますけど、あの子は本当に――」
そこで言葉を切って、夫人のほうに目を投げた。
「十三歳の、女の子、なのですね?」
私は客間に通され、敷かれた座布団に腰を下ろしていた。先程までいた部屋よりも広々として落ち着かない。最初、ここに招かれたのは数ヶ月前であった。
ここは、伯父夫婦の家である。まだ精神科医となって間もない私は、突然の招待に戸惑いながらその家に向かった。そして、娘を診てやってほしいと頼まれたのだ。それからは、近くに通る路面電車の時刻表を暗記してしまうほど、足しげく通っているわけだ。
「髪の毛が男児のように短いですが、女の子です」
夫人は、断定的に話した。妄信とは違う決定的な確信を持っているようで、言葉に強さがある。少女の身の回りの世話をしているのはこの人であり、それ以前に同じ女性である。日常生活のなかで思い当たる所があるらしいが、詳細は口にしなかったし、私も特に追及はしなかった。世の中には、豪傑な女もいれば、華奢な男もいる。
少女のような細い体と美声を持った男児であるかもしれないのだが、性別を確かめる方法は簡単であるし、だいいち、重要な問題はほかにある。カルテ代わりに使っているノートをカバンから取り出し、パラパラとページをさかのぼる。最初のページに行き着くと、両親から訊き出したさまざまな話が記録されていた。
――最初は、聞き分けの良い子なだけだと思っていたのだが。
少女の父親である伯父の言葉だ。あの子は捨て子であり、この夫婦は義理の両親である。鉄橋下の暗がりで少女を見つけたのだ。汚らしい身なりの食い詰め孤児など珍しくない。常人であれば見て見ぬ振りをするし、現に彼女も同じ扱いを受けていた。
だが、伯父夫婦は事情が違った。二人には、子どもがいない。ようやく妊娠した胎児も流産してしまい、二人は悲しみに暮れて日々を過ごしていたのだ。ある日、気分を紛らわすために向かった劇場からの帰り道で、あの女の子と出会ったのである。
――相手にあわせるように、言葉使いや、口調が変わるのです。
私は、この言葉の意味がすぐには理解できなかった。人間は相手によって、話し方が変わることは普通なのではないか。目上の人には丁重で、同輩には親しみを込めて粗雑になり、年下や後輩には優しくなる。それら、対応の差も十人十色であろう。ところが、そんな生易しくありふれたことではないということを、少女に会ったときに肌身で感じた。
私は、実験的に彼女を「友人」として接してみることにした。結果、少女は見事に人格を「友人」として擬態させていったのである。今年で二五歳になる私と、まるで同輩のような調子で会話する彼女はいったい何者なのだろう。
どんな人間にも、過去がある。それは、生から死まで続く人生の足跡であり、どこまで逃げても断ち切ることのできない影にも似ている。その人の経験と性格は密接に関係している。
過去での出来事が、今の人格を形作るのだ。少女がどのような生活を送ってきたのか興味が湧いたが、本人が話してくれるとは到底思えなかった。さらに、それを詮索することは、精神科医としての行為を逸しているかもしれない。だが、少女の人格を知るには、過去を分析しなければならないとも考えた。
中身のない会話を続けても進展はなく、あの子が「友人」として完成していくだけである。考え抜いた末に、知り合いの探偵に事情を話して協力してもらうことにした。
そうこうしているうちに、戦争だ開戦だと世間は騒がしくなった。だが、私は少女という擬態生物への興味は薄れることはなかった。仕事場の病院で探偵から電話がきたのは、ちょうど米軍による本土空襲のラジオ放送を聞いていたときだった。
「あまり情報は集まらなかったよ」
そう言って渡された報告書は、たしかに少なかったが少女の生い立ちを知るには十分であった。私が礼を言うと、
「こんな御時世だ。これ以上、コソコソ嗅ぎ回って特高に捕まりたくはないから、これで勘弁ね」
と、笑っていた。それから研究が始まる。空虚な会話から垣間見えた少女の心中の断片。それに彼女の過去を照らし合わせる。その成果を今日、報告しに来たはずだった。だが、この期に及んで私は躊躇している。まだ仮定の域である私的な見解を、精神科医として述べることはできないかもしれない。何より、無断で探偵に協力を依頼したということが、今になって頭をもたげていた。
「お茶、煎れ直しますね」
二杯目のお茶を入れる為に夫人は座を外した。本題から避けるように話題を逸らし続けていたが、話の種も尽きていた。
客間には、伯父と二人きりになった。思い返せば、かれは先程からの会話に一言もを口をはさんでいない。その着物姿には威厳があり、丸太のような腕を組んで双眸を閉じ、静かに瞑想している。夫人との対話を黙って聞いているだけだったが、下心を見透かされているようで冷や汗をかく思いだった。
「きみ」
「は、はい」
突然、低い声を突き付けられて、心臓が跳ね上がる。
「娘の為に、いろいろと調べまわってくれたようだね。その話をしに来たのであろう」
全身が凍りついたように、動かなくなった。
息ができない。かまわず、かれは言葉を続ける。
「あの探偵は『アカ』の疑いがある」
「えっ」
「分かったことがあるなら、話してくれ。でなければ特別高等警察の自分が、彼奴に目を瞑った甲斐がないというものだ」
公職であることは聞き及んでいたが、まさか特高だったとは。
思わず、ごくりと喉を鳴らした。特高が、社会主義活動者である「アカ」の疑いがある人物を見逃す。そんなことがあるものなのか。少しでも嫌疑があれば、すぐに行動を起こす特高が。腕組みが解かれて、いかめしい拳骨が露になる。
「わしは、取調べのプロだ。嘘なんぞ簡単に見抜ける。きみは、本音が顔に出る正直者だ。そして、あの娘は大嘘つきだ。完璧で、抜け目のない、健気な嘘つきなのだ……」
伯父は、少女の嘘を見抜いている。しかし、それは子ども特有の悪質なものではなかった。なぜ、怯えるように嘘をつく必要があるのか。わがままのひとつも言わない娘を可愛がっているからこそ、伯父にはその嘘が不可解であるようだ。かれは、握りこぶしを両膝に落ち着かせて、目を伏せた。
その悲痛な表情を見たとき、はっきりと理解した。目の前に座る大男が、特高として有るまじき行動に奔ったのは、ひとえに愛する娘のためであったのだ。それで、私の腹は決まった。すべて言ってしまおう。少女の過去が悲劇で塗り潰されているということは、この夫婦は想像できているであろうと思った。
夫人が座に着いてから、居住まいを正して二人に向き合った。少女との会話。人格と過去。そこから探偵を雇うまでの経緯を説明する。どのような報告が来たかの聞きますか、と夫人に問き、頷いたのを見て言葉を続ける。
「ご想像はされていると思いますが、相当の苦労をしたようです。生まれた所と、実の両親は分かりませんでしたが……」
「では、幼い頃に何があったのか、分からないではありませんか」
「あの子が捨てられたのは、一度や二度ではないということです」
瞼を閉じて、静聴していた夫が目を開いた。夫人も眉をひそめる。
「田舎で農家などを転々とし、手伝いをして食い繋いでいたようです。手伝いをしている間は、その家のお世話になっていたということなのですが」
「もの心ついたときからか」
夫を見て頷くと、かれは唸って顔をしかめる。私は重々しく口を動かした。
「ところが、貧しい家ばかりで、多くの場合、その家の主人は人売りに渡して金にしようとします。そのたびに、あの子は逃げ出して難を逃れています」
少女は何度も遊郭に売り飛ばされるという危機を、きり抜けてきたのだ。夫人は、口を右手で覆い、目を赤くしている。夫は、ただ黙って私を見ている。
「そして、この家で、初めての試みに出た」
「男装することでっ、体を売られなくて済むということですかっ」
夫人の口から、噛み付くような言葉がほとばしる。ついに目から涙をこぼして取り乱す彼女を、夫が太い腕で支えた。
「心とは存外に丈夫なものです。壊れてしまう前に、性格などを生活環境に適応させようとします。ただ、極端に強固な精神を持つ人は例外です。人間関係が悪化しても、かれらならば、ものともしないでしょう。しかし、子どもは大人の保護が必要です。独りで生きていくことなど出来ません」
続けて、ここからは私の想像ですが、と前置きをする。
「嫌われると生きていけない。他人に嫌われてわならない。その脅迫観念が、いまの彼女の人格を作ってしまった。これは心の病ではなく、自分が生きている環境に合わせて、型にはめたように心を人格を変化させざるを得なかった。幼い頃からの苦労で、誰にも人当たりがよくなるように接してきた結果、その性格自体が本人の人格になってしまって、他人に何かを要求することが全く無くなってしまった」
伯父はゆっくりと頷いて聞き、夫人は首を垂らして畳みに視線を落としていた。
かれは、仕事柄だけに様々なことを予想できてはいたのだろう、終始、落ち着き払っていた。しかし、彼女は衝撃を受けたようである。おそらく、まったく想像できていなかったのではななくて、深く考えないようにしていたのだ。二人はそれぞれ、父親なりに娘の不遇を慮り、母親なりに他念せず娘に慈愛を注いでいる。すこし間をおいて、夫人が呟くように訊ねてきた。
「普通な性格に戻って、女の子のように振舞ってくれるようにするには、どうすれば良いのでしょうか」
「それは……」
「外見を変えても、娘は女の子です。髪も伸ばして、着物も相応の物を着せてあげたいではありませんか。女性らしい生活をさせてあげたいではありませんか」
私は、夫人の言い分に、一瞬は言葉を呑んだが、意を決して話した。
「それは、利己主義です」
「なにっ」
伯父は、立ち上がって気色ばんだが、私は続ける。
「親に子の性格を決める権利はありません。自己中心的なやさしさを押し付けることは許されない」
「わが子に対してっ、男が男らしく、女が女らしくあってほしいと願うのは当然のことではないか!」
「お二人が!」
伯父が言い終えない内に、それを上回る声量で叫んだ。夫人は黙って私を見ていたが、その顔には怒気が含まれている。
「お二人が、女の子らしくしろ、と言えばどうなりますか」
「そりゃあ、娘は素直に――、……!」
「そうです。あの子は従順に擬態しますよ」
「擬態……」
その、人間的ではない言葉に力が抜けたのか、大男はがっくりと膝を折った。かれも、理解したのだ。なんでも素直で聞き分けの良い少女は、夫婦が、女の子に戻ってほしい、と言えば、すぐにでも言うとおりにするであろう。だが、それは、
「それも擬態に過ぎません。あの子が望んで女性に戻ることが肝要なのです。何も強要せず、お前はうちの大切な娘だ、と言うことを言葉ではなく、行動で教えてあげて安心させてあげるしか方法はありません」
夫婦が、私の話に耳を傾けてることを確認して、畳みかけるように自論を展開する。
「怒らずに聞いて頂きたい。たしかに、普通の子であれば、らしくあれ、と言うような躾けは大切だとは思います。しかし、あの子は普通の環境で育っていないのです。これまでのことは、あの子なりに最善の選択をしてきたと言うことは先程もお話ししました。強要は毒です。一度歪んでしまった心を解きほぐすには時間がかかります。男のふりをして、人格を変化させる、あの性格こそ本性」
座布団を払いのけて跪き、両の拳を畳み突き立て、平伏した。
「どうか、ありのままの娘さんを可愛がってあげてください。おふたりの優しさを理解すれば、あの子の凍てついた人間性は必ず融けます。それまで、どうか、ただ見守ってあげてください」
頭を畳みに擦り付けていると、二人の足音が近づく。肩にごつい手が触ったかと思うと、まず伯父の声が振ってきた。
「青いな。きみは」
「そこまでする必要は、ないのではないですか」
身体を起こすと、夫婦は微笑を湛えていた。
「友人としても、お願いしているのです。それに、希望はあります」
そう言うと、ポケットの中から煙草の箱を取り出した。二人は訝しげにそれを見つめる。
「初めて、わがままを言ったのです。この臭いが嫌いだ、と」
その場の三人とも明るい顔つきになったが、「それは、きみの無配慮が問題ではないのかね」と、伯父が言うと、思わず笑みがこぼれた。
客間を辞して玄関に向かう途中、あの、「友人」の部屋の前で立ち止まった。そして、「ここで、結構です」と言うと、夫婦は訳知り顔で頷いて家の奥に戻っていった。二人が見えなくなってから襖をノックした。いつもは、無遠慮に開けるのだが、今は違った。「入るぞ」と言ってから開くと、待ち受けていたように、私の背広を持って立ち竦んでいる。
「わかってるよ。忘れ物だろ。これ」
背広を友人の手から渡される。見ると、綺麗に折りたたまれている。塵ひとつ付いていない。
「そうそう、これこれ」
背広に手を通していると、彼女は、おずおずと口を開いた。
「あの、暇なときでいいから、いつでもおいでよ」
「こう見えて、結構、忙しいんだ」
私が言うと、さっきと同じように、背広の肘の所を掴んでくる。さすがに可哀想になってきた。演じると言うのも大変なものだ。彼女の腕を握ると、今度は放さなかった。女性の手を握るときのように優しくすると、彼女の方が手を放した。
「申し訳ない。困らせたらいけないね」
「ばか、そのなかでいつも暇を作って来てるんだ」
花が咲くように明るくなった顔を見て安心した私は、踵を返して廊下に出ようとした、が、またそれは阻まれた。今度は腰に抱きついてきたのである。さすがに、これには驚いた。彼女も我にかえると、すぐに離れて、顔を赤くして取り繕う。
「……あはは。申し訳ない。おかしいな。男同士でこんなこと」
「……またな」
私は、それだけ言って、やっと部屋を出た。外に出ると、雨は止んでいた。暗記した路面電車の時刻表を脳内で広げる。もう時間がない。私は、水溜まりを蹴って走り出した。ふと、さっきの友人の顔が思い浮かぶ。悲しい顔、喜んだ顔、赤い顔。
「……なんだ。立派な女の子じゃあないか」
なぜか、私は、つぎに少女に会うのが、待ち遠しく思えた。