#03
「ささ、どうぞどうぞ、音無サン! いつまで立ったままなノ? そこ座ってネー」
「ハ、ハイ!」
甲高い声の犬飼に、進められるまま四郎の隣のパイプ椅子に腰をかける凛々子。これだけ近い距離に男を感じることが、生涯でも殆どなかった凛々子は、極度の緊張で手汗が滲み出てきているのを自覚した。ハッハッハッと呼吸が浅く早くなる。ある意味、犬飼よりも犬らしい仕草をしている凛々子の目の前にお茶がコトンと置かれた。
「はいお茶どうぞー、あ、美之頭サンもお代わりいる? あ、いらない? じゃあちょーっと話を進めようカ」
犬飼は四郎と凛々子の机を挟んだ反対側の椅子へと腰をかけつつ二人を見た。実際、凛々子を目のあたりにしてしまえば、もしかしたら美之頭四郎というこの男性と知り合いかもという淡い期待は吹き飛んでしまっている。
美男と野獣。
その言葉がしっくりとくるほどに対称的な二人の容姿。みてるこちらが可哀想になってくるほどの、男慣れしていない凛々子の挙動不信さを考えれば二人が知り合いということなどは絶対にないと断言できた。
その反面、この二人が知り合いではないと困ることもある。
犬飼が調べたところ、四郎の身分証は偽造ではない。住民基本台帳にもしっかりと登録されている。
これが偽造ならば話は早かった。関係各所に連絡して犬飼は犬飼の仕事をすればいいだけなのだから。
だが、身分証が本物となれば話は別である。既に音無凛々子のことも調べはついているが、こちらも四郎と同じ住所に住んでいるのに間違いはない。
犬飼は見た目や言葉遣いとは裏腹に、その実いかにして己の責任を軽くするか、と言うことだけに腐心していた。
来年で定年だ。退職金で家のローンを完済し、閉経済みとはいえ夫との行為も未だに現役なこの中年警官は定年後には愛する夫と仲睦まじく老後を過ごしたいという夢があった。
定年間近のこの時期にあまり問題を抱え込みたくないという考えは、人なら誰しも持つものなのかもしれない。
「えーっと、そうだネー、音無サンはずっとその住所に住んでるノ?」
「ハイ!」
「美之頭サンのことは、見たことある? 知り合いカナ?」
「ハイ!」
「音無サン仕事は何してる人? 結婚はしてるノ?」
「ハイ!」
犬飼が何を聞いても元気のいい返事しかしない凛々子。形式的な質問であり、実は凛々子の年齢、職業、結婚の有無程度の情報など既に調べはついている。
ついてはいるが、何事にも建前というものがあり、本人から聞いたことにしておかないとそれはそれで色々と問題がある。コンプライアンスは何も民間企業のみが推し進めているわけではないのだ。
「あー、もう一度聞くけど仕事は何してるノ?」
「ハイ!」
四郎という男が肩に触れそうなほど近くに座っている事実。それは凛々子から思考という名の壁を奪うには十分だった。
「あの……音無サン話きいてる?」
「ハイ!」
絶対に聞いていないな。
四郎と犬飼は目を合わせ頷きあった。
犬飼は更に深く考える。
四郎の処遇をどうするべきか。見た目は犬でも中身は狸。
そんな犬飼の出した結論は結局、
「音無サンちに美之頭サン泊めれる?」
「ハイ!」
全て民間人にぶん投げることだった。
四郎はギョッとし、隣の凛々子を見る。サラサラの銀髪のストレートヘアー、大きな赤い瞳にスラリと通った鼻筋。ぷっくらとした桜色の唇。褐色のシミひとつない肌は、緊張からかうっすらと赤みを帯びている。
四郎が今まで見たことのないほどの美人だ。フンガフンガと鼻息も荒く、だいぶ挙動不審な点を差し引いてもこれほどの美人にお目にかかるようなことはなかった。
そんな美人の家に急に泊まれなどと無茶ぶりされても狼狽えてしまう。四郎の動揺などわかっているかのように犬飼が口を開く。
「美之頭サンはどうカナ? 一応住所同じなんだし、ま、ちょーっと一晩音無サンちに泊めてもらって明日市役所に「ハイ!」行っていろいろ確認してみるってのは。あ、もちろん美之頭サンがヤじゃなければダヨ? 無理にとは「ハイ!」……ゴメン、音無サンちょーーーっと黙っててくれるかな?」
「ハイ……」
途端にシュンとする凛々子を横目に捉えながら、四郎は自分の考えをまとめる。
よくわからないこの世界で適当なところで一晩過ごすには不安がある。街の様式こそ一緒ではあるものの、そこに住まう人種はホモサピエンスとはいえない人外ばかり。
それならば、凛々子の家に泊まらせてもらい、凛々子からこの世界のことを色々と教えてもらうのもいいだろう。何よりも、早くこの疲れきった身体をどこかで休めたい。つまるところ四郎に選択肢など残されていないのだ。
だからあと必要なのは確認。四郎は凛々子の目をまっすぐ見つめ問いかけた。
「私はそれで問題ないんですが音無さんはそれでいいんですか?」
「ハイ!」
「じゃあ申し訳ないですがお世話「ハイ!」になります……」
「二人とも気をつけて帰ってネー。音無サン、手出しちゃダメだからネ」
交番の出入口まで二人を見送る犬飼。彼女が帰りがけに掛けた言葉は凛々子へのものではあったが、四郎には"凛々子が美人だからって手を出すなよ"と別の解釈をされてしまった。
その凛々子は何をしているかというと。
ギッシギッシと擬音が聞こえそうなほどに、関節を曲げずに歩き、車まで四郎をエスコートしようとしていた。
右手と右足が同時に出ている。
「ど、どうじょ!」
凛々子が甲斐甲斐しく助手席のドアを開ける。
日本ではここ最近になってようやくジェントルファーストが根付きはじめ、様々な雑誌やテレビで特集を組まれている。それを真似しようとしたようだ。
「あ、ありがとうございます……」
助手席に乗り込む四郎。フンスコー!(鼻息を吸い込む音)とともにドアが閉められる。いうまでもなく四郎が助手席に腰をかけるまえに凛々子が残り香を嗅ごうとした音だったが、幸いにして四郎には気づかれていない。
お世話になった犬飼に、四郎は軽く会釈をし、車は走りだした。
★
(い、家に、私の家に男がくる……)
車内は無言。四郎も凛々子もお互いを意識してしまい話すべき言葉が見つからずにいた。
(エロ本は片付けたかしら! ああああ、パンツとか脱ぎっぱなしだった! 布団とかどうしよう! シーツのシミもそのままだし……でも男性をソファーで寝かせるのもの女としてどうなの! 臭い消し、臭い消しとかあったっけ!)
初めて男を家に上げる凛々子の思考はぐるぐると渦を巻くようにまとまらない。
「あの、音無さん。実は色々お伺いしたいことがあるんですが」
「ひゃい! なんでひょうか!」
「変なこと聞くようですが、ここって地球……なんですよね?」
何をバカなことを。とは凛々子は思わなかった。
四郎の質問にたいし愚直に返答する。
「そ、そうです! 太陽系第三惑星地球です!」
「やっぱり……そうなんですよね」
四郎の憂いを帯びたため息を聴き、なぜだか少しだけ冷静さを取り戻した凛々子は不思議と胸が締め付けられるような感覚に陥った。
そんな雰囲気もすぐ終わる。車で5分程度の距離。自宅までの道のりは早かった。
「ちゅ、つ、着きました!」
四郎にしてみれば、昨日までは自宅アパートがあった場所であり、数時間前に一度来た場所でもある凛々子の自宅。
凛々子にとっては、学園長に就任した際に建てた新築戸建て。まだ見ぬ愛する夫と住むための凛々子の城である。
そんな夢、己の醜い容姿から半分は諦めてはいたものの、それでも、と思い建築した将来の愛の巣(予定)。
「美、美、美之頭さん! 10分……、いや5分でいいのでお時間をくれませんか!」
「え、ああ、はい。もちろんです。お邪魔しているのはこちらですし、どうぞごゆっくり」
「ありがとうございます! すぐに! すぐに戻りますので!」
車の中に四郎を残し、バタバタと慌ただしく家の中に入っていく凛々子だった。
「やっぱり脱ぎっぱなし! ああ、食器とかも洗ってない! エ、エ、エ、エロ本どうしよう!! 雌臭くないかしら、窓開けなきゃ!」
女の一人暮らしなんてズボラなものである。せめてリビングに散乱しているものだけでも片付けなければとても男性を上げれるような環境ではない。
バタバタと動き、とりあえずの体裁だけは整えていく。いかがわしい本やいかがわしい玩具は2階のクローゼットへと押し込み、洗っていない食器類を洗う時間もないためビニール袋に詰め、これまた2階のクローゼットに。
セコセコと動き、なんとか男をあげても問題なさそうな状態になったのは15分ほど経過してからのことだった。
「美、美、美之頭さん! おまたせしてすいません!」
車へと戻り、四郎に準備ができたことを伝えに向かう。
―――すかー……。
だが、四郎は助手席でスヤスヤと寝息を立てていた。元々の疲れに加え、車の揺れが心地よく眠気を誘ったのだろう。
そんな無防備な体勢だったからこそ、初めて四郎の顔をマジマジと見た凛々子。
ほぼ無いような短い睫毛、小さな瞳、低い鼻にへの字に曲がった口元。
元の世界では平々凡々な四郎の顔ではある。決してかっこよくはないが極端なブサイクでもない。
だがこの世界の住民からしてみれば、
(綺麗……)
まるで絵画の中にだけ出てくるような美しさに見えるのだった。
「あっ……」
思わず声が出た。
凛々子は胸の高鳴りが抑えきれない。だが、このまま起こさないわけにもいかない。しかしもっと見ていたい。でもでもこのまま起こさないわけにもいかない。されど起こすのも勿体無い。
結局凛々子が決心し、四郎を起こしたのはこれより30分後になった。
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