三人の翼人<4>
寒々しい夜空には、くっきりと月が浮かび上がっていた。少し欠けた十六夜の夜。幾つかの雲が青く浮かび上がり、ゆったりと流れていく。
芝桜の花畑にしなやかな体躯を投げ出し、青白い月光を浴びているケリーは、夜空に浮かんだ欠けゆく月を眺めていた。
この空の下の、ケリーの知らない場所にあるだろうガーデン。大好きなフィデリオが仕事をしている場所。
見渡す限りの広大な土地は、すべてフィデリオのもので、永遠に出られることのない檻だと思っていた。
自由に出入り出来る日がくる。
フィデリオの言葉が、ふと思い出された。自然とケリーの頬が緩む。
その時がくれば、フィデリオと一緒にガーデンへも行けるだろう。そうしたら、今以上に、もっとたくさんの時間をフィデリオと過ごせるのだ。
心臓が、跳ね上がるように何度も強く鼓動を打つ。期待に胸が弾むとは、まさにこういう事を言うのだろう。
膝を抱えなおす。湖から吹き上げてくる柔らかな春の風が、ケリーの頬を撫で上げていく。──ふふふ。嫌だ、笑っちゃう。
早くその日がくればいい。
ケリーは堪え切れない笑みを満面に浮かべながら、その小さな紅い唇から洩れ聞かせながら願った。
ざざざと…。一陣の風が吹きぬけた。
サムにきちんと結われていたケリーの髪が、漆黒の闇に溶け込むように風に攫われる。
ざざざ────。
葉風は疾風のようにケリーを襲い、小さな花や葉先を引きちぎりながら通り過ぎていった。
嘘のように風が止み、辺りは柔らかな月光と、湖から吹き上げる風だけになった。
しん、と静まり返る湖畔。
風で乱された髪を撫でつけながら、ケリーは口吻を尖らせた。
「うん、もう。ひどい風だなあ」
おや? と思った。口にしたはずの言葉が耳に聞こえない。独り言だったかしら、とケリーは首を傾いだ。
さして気にも留めずに立ち上がった。そろそろ戻らないとサムが煩い。身代わりに置いてきた羽根枕も、そうそう長い時間は誤魔化しきれないはずだから。
さて。裾に付いた草や土を払った。
まただ。
ケリーの耳には何も聞こえない。パンパンと勢いをつけて裾を払っているのに、何も聞こえないとはどういうことだろう。
辺りを見回した。風は相変わらず吹きつけていて、湖面もざわついている。足元の草原はそれに葉先を靡かせて、たわんでいる。
耳に手を当ててみた。指先の体温がじわりと耳朶に感じられるが、やはり音はしない。
足元の葉に手を伸ばし、引きちぎってみた。ちぎれた葉は湖からの風に飛ばされ、すぐさま遥か向こうに消えていく。
これは一体……。
世界から音が消えて無くなってしまったのだろうか。
ケリーは辺りをぐるりと見回した。中空の月から降り注ぐ柔らかい光りも、湖面の煌きも、ざわめく草の様子も。何ひとつ変わっていないはずなのに。
音だけが抜けているのだ。
おかしいのは世界なのか? それとも自分だけ?
ケリーは激しくなっていく鼓動を懸命に抑え、転がるようにして駆け出した。
胸から溢れ出しそうな恐怖感と闘いながら、月に照らされた夜道をひたすら走った。
じゃりじゃりと鳴っているはずの足元。吐く息は白く見えるのに、自分の息遣いが聞こえない。こんなに激しく呼吸しているのに、何も聞こえてこないのだ。
おかしいのは誰。世界か。自分か。
「フィデリオ。フィデリオ。フィデリオ!」
口を大きく開けて叫んだつもりでも、やはり自分の耳には届かない。
ようやく辿り着いた屋敷のドアを、必死に叩く。この音はサムたちに聞こえているだろうか。もしも、世界から音が失われたのならば、永遠に気づいてはもらえないではないか。
永遠に、このドアを叩き続けなければならないのか。ケリーの思考は、恐怖の為にすでに破綻していた。
ドアが開けられたのにも気づかず、中に倒れ込むまで手を振り上げていた。
誰かに抱え上げられ、ようやく正気に戻ったケリーは、世界から音が失われてしまったのだと訴えた。
サムは酷く驚いた顔でこちらを見つめている。
ケリーは耳に手を当て、音が無くなったのだと叫んだ。
サムはルードへと顔を向け、首を傾げながらなにか喋っている。
悠長にも取れるその様が、恐怖で思考を囚われているケリーをヒステリックにさせた。
「ぼくにも理解るように喋ってよ!」
サムとルードは落ち着くようにと言っているが、音の無い世界にいるケリーは怯えも酷く、なにも通じない。
「ルード。ケリーさまのこの様子はいったい?」
「まったく見当もつかないわ。フィデリオさまはガーデンだし。とにかく落ち着いていただくしかないものね。着替えはいいから、このままベッドまで運びましょう」
ルードは、わあわあと喚き散らすだけのケリーの背中を軽く叩いてやり、落ち着かせようと試みる。
ケリーは、幼子のようにいやいやと首を振りながらルードに縋りついた。
寝室に運ばれて、ベッドへ横になったものの、しばらくは興奮状態が続いた。
サムとルードはケリーの手を握り締め、汗で張り付いた髪を梳いてやる。
泣いて、しゃくり上げ、疲れたケリーは二人の手をぎゅっと握り締めたまま、眠りに就いた。