萌芽の刻(とき)<5>
真っ赤なベゴニヤの花が一面に咲いていた。
視線を少し横に向けると、草丈の高いオーニソガリムの白い花とフェアリーテールのグリーンが風に靡いている。
丘の上を這うように咲き乱れているのは濃淡のピンクの花びらを煌かせている、パレットフラワーだ。
草むらにごろりと横になり、見上げた空は抜けるように青く、雲はゆったりと流れていく。
誰もいなくなってしまったガーデンで、一人きりで花の世話を始めたケリーが、ようやく迎えた念願の春だった。
なにもかもが変わってしまった。
そしていろいろなことを知った。
この地には、この地独特の季節の流れがあるということだ。
環を乱すことなく廻り続ける永遠の環が、どれだけ理想的であったことかもよくわかった。
それは幾度となく季節に裏切られ続けて身に沁みて気づいたことだ。
だからこそ、ようやく訪れたこの暖かな春の季節がとても悦ばしい。
一粒しかなかったベゴニヤの種は、なぜだか不思議なことに増え始め、その育ち振りから開花の心配をケリーにさせたが、それすらも跳ね除け、立派な蕾をあちらこちらに付け、とうとう今日の満開となった。
一斉に咲いたベゴニヤの花に、ケリーの胸は期待で躍る。
同時に不安も襲ってくる。
なにか足りないものはなかっただろうか。
与えすぎたものはなかっただろうかと、今となっては虚しい杞憂ばかりである。
やはり様子を見にいくべきだったろうか。
それとも今日一日ここで待ちぼうけを食らうべきか。
どうあっても無駄な考えを思い浮かべてしまうようだ。
溜息をひとつ吐いて目を閉じると、 すうっと影がかかる。
雲が太陽を隠してしまったのだろうか。
ケリーは目を閉じたまま、そんなことを思った。
こつん、と固いものがケリーの頭に当たる。
ケリーはゆっくりと目を開けた。
影になっていたのは覗き込んでいる誰かのせいだった。
目の端には見覚えのある金糸銀糸の帯が、丘を駆ける風に揺れている。
ケリーは跳ね起きた。
異国の服の青年は、剣を腰に携え、
「術が発動するのに五百年近くもかかってしまった」
ケリーは言葉の意味が分からず、小首を傾げた。
しかし彼は構わず言葉を紡ぐ。
「今なら、あなたの言った意味がわかります。
一介の土塊の兵士を作ったのではなく、ひとりの友人として私を作ったのだということを。
あなたの心がわかります。
それだけのものを得た。
今なら呼べる。
我が主ではなく、友人として。
あなたの名を呼ぶことが出来る。
──我が友、エクセイシア」
青年は腕を伸ばし、ケリーをその懐中に収めた。
ケリーは窮屈そうに青年の顔へと手を伸ばし、その頬に宛がった。
──ぼくはケリーだよ。
青年はケリーの口唇を見つめ、わかっていると言って笑い、
「誰かに聞いて欲しかっただけだ」
そう呟くと、ケリーの肩に顔を埋め、大きく深呼吸をした。
カスケードの背中に翼はもう無かった。
自分の翼は健在だと自慢するケリーに、カスケードは柔らかな笑みを向ける。
それを見たケリーは少し面映い気がして俯いた。
カスケードが、いろんな話を聞かせてやろうと言った。
ケリーも訊きたいことは山ほどあるものだから、大袈裟に喜んで見せた。
沈む太陽を丘の上から眺め、昇る月を眺め、カスケードは古い御伽噺のような話を語り始める。
ケリーも早く聞かせたかった。
カスケードが必要なこと。
花と土との話。
それなのに、饒舌に語るカスケードを見ていると、もうそんな話は必要ではなくなったのではないかとも思う。
思ったとおり、カスケードの笑顔はとても素敵で、見とれずにはいられない。
月明かりに照らされたオーニソガリムとフェアリーテールが風にそよぐのを眺めながら、ケリーの胸は込み上げてくるこそばゆい感情を口にしたくてうずうずしていた。
「昔話はつまらないか?」
ケリーの様子に気付いたカスケードが訊く。
ケリーは慌てて首を振り、
──そんなことないよ。
ただ、ぼくもカスケードに言いたいことがあって、うずうずしていたんだ。
「俺に言いたいこと?」
ケリーは上目遣いに頷いた。
「それなら先にそれを聞こう。
俺の昔話はまだまだ続くからな」
ケリーははにかみながら、
──カスケードが愛しいなって思ったんだ。
「愛しい?
俺をか?」
ケリーは何度も頷いた。
──愛しくて愛しくて、胸が破裂しちゃいそうだ。
思ったとおり、カスケードの笑った顔は綺麗だし……。
「相変わらずお前の基準は綺麗ってところなんだな」
カスケードは声を出して笑った。
いいじゃないかとケリーは拗ねてそっぽを向く。
「まあ、いいさ。
お前とはこれからもずっと一緒にいるんだからな。
お前が好きだと思えるものを俺が持っているのなら、それだけでいい」
カスケードは、ケリーの視線が向いていないのを見計らって呟いた。
「花の魂は美しいのだろう?」
カスケードはもう胸が痛まない。
主の植えた術という種子が萌芽し、時を得てようやく心を解するようになった。
土塊ではないと胸を張って言える。
水に触れて、冷たいと言おう。
風を感じて心地よいと目を閉じよう。
日差しを浴びて微睡もう。
花を見て美しいものだと告白しよう。
丘を駆け上がる夜風がケリーの髪を吹き上げる。
最後に見たときには肩までしかなかった彼の髪は、もう腰まで届くほどに伸びている。
それだけの時間をかけて彼は注いでくれたのだ。
土塊だった頃に否定していたもの。
フィデリオと対立していたもの。
胸に溢れてくるそれが、主、いやエクセイシアとケリーが注いでくれたものと同一であることを感じていた。
ガーデンの跡地に、流民が住み着くようになったのは、カスケードが花の魂を持って生まれたおよそ五十年後のことである。
それでも変わらずに、この地に花は咲き乱れていて、人々の目を和ませていた。
彼らが住まう街を見下ろすその丘の上に、幾年月過ぎようとも姿形を変えない美しい二人が住んでいることを、流民は知らない。
一人は二対の翼を持った光彩陸離の如き少年と、清廉な匂いを漂わせる、剣を携えた青年である。
“それはいずれ強い意志を生むと信じている。
だから俺は愛を注ぐんだ”
この広い青空の下。
どこか遠い地で、フィデリオは変わらない愛を──ケリーに注いだものと同じものを──きっと注いでいるに違いない。
白い羽根が丘を舞う。