萌芽の刻(とき)<4>
カスケードが動かなくなってから数時間が経った。
昼間の暖かい風も、夜ともなれば温度がぐんと下がり、時折強く吹かれると、ケリーは堪らず身震いする。
例の光りの筋は、フォレ山の方角からの一筋を最後に夕方には治まっていた。
信じがたい昼の満月は、夜になればさぞかし輝くのだろうと思われたが、まるで新月のようにひっそりと形を潜めた。
その代わり、今は満天の星が瞬いている。
カスケードが横たわる街道の石畳の上にケリーは座り込み、ひび割れた彼の藍錆色の瞳をずっと見つめていた。
彼の土塊の体躯は、時折小さな音を立てて崩れた。
その音を耳にする度にケリーは身体をびくつかせた。
触れると壊れそうで、ただ寄り添い見つめるしかできないことが酷くもどかしく思える。
土塊の身体には現実感が沸かないのに、彼の真っ白な翼だけが妙にリアルで、羽が一枚風に飛ばされていくのを目の端で追いながら、ひとつひとつの思い出が脳裏に浮かぶ。
夜風がどこからか花びらを運んできた。
その内の数枚がカスケードの頬に張り付く。
ケリーの脳裏には、うっとうしそうに風に煽られた自分の髪を抑えるカスケードの横顔が浮かび、ケリーは思わず小さく笑う。
きっと嫌だろうな、と呟き、カスケードの頬から花びらを一枚取り除いた。
ただそれだけの行為にも耐えられないのか。
カスケードの頬の一部がその衝撃で剥がれ、地面に落ちて粉々になる。
剥がれ落ちていく彼の一部を見届けると、押さえ込んでいた様々な感情が堰を切って溢れ出した。
ケリーは天を仰いで、わあわあと声を上げて泣く。
ガーデン中から昇った光りの筋の正体よりも、目の前で土塊と化したカスケードのことしか考えられない。
思考が急速に動き始める。
異国の服に身を包み、剣を携えるカスケード。
悲しげな表情で花を手向けていたカスケード。
フィデリオとのそつの無い会話の間で見せる冷たい表情。
ケリーと戦わなくて済むと言って見せた安堵の表情。
サムとルードを失った時とはまったく違う喪失感がケリーの全身を覆う。
これが終わりなんだと声を限りに叫んだ。
朝日の眩しさと人の気配でケリーは目覚めた。
取り囲むように立ち並ぶ足先から視線を上に移動させると、逆光の中からにゅうっと手が伸びてきて、ケリーを力いっぱい抱き締めてきた。
明るさに目が馴染まないケリーの手を取り、
「無事で良かった」
フィデリオが筆談でケリーの無事を喜んでいることを伝えてきた。
徐々に馴れてきたケリーの視界には、フィデリオの他に、パンディオンとマウリーン。
そしてムスカリの三神がいた。
オステオスが亡くなったことを告げられた。
カスケードから聞いていたからさほど驚いた様子も見せない。
しかし、光りの筋のことは確認しておきたかった。
「オステオスがいない今、彼の祝福で生を受けた者は、皆、あの光りの筋となって月へと運ばれました。
古い言い伝え通りに。
彼らは二度とこの地に現れることはないでしょう」
──みんな?
そうですとパンディオンが大きく頷いて見せた。
──ぼくは? ぼくはどうして平気なの?
「あなたもフィデリオも、オステオスが施した術で生まれてきたわけではないからですよ。
フィデリオは私たちが、あなたはフィデリオが育てた花だからです」
「ケリー。
俺たちはこの地を離れて別の地へ移ることに決めたんだ。
さあ、一緒に行こう」
そう言って座り込んだままでいるケリーの手をフィデリオが掴んだ。
しかしケリーはその手を振り払う。
ケリーにはここから動きたくない理由があった。
──カスケードは?
このまま放っておくなんてできないよ。
「彼は違うのです。
カスケードは元々この地にいた人。
正確にはこの地で墓守をしていた泥人形なのです。
彼が本来の土塊に戻ったということは、役目を終えたということなのでしょう。
そのまま土に帰しておあげなさい」
パンディオンは同情的な視線を土塊に向け、まるで餞の言葉のように言う。
──役目を終えた?
でも、ぼくの身体からは神苑はなくなっていないもの。
まだこの中にあるから終わってなんかいない。
フィデリオは首を振りながら、死んでいるんだよと言い聞かせるように告げ、
「ほら、見てごらん。
ケリー。
あれが彼の──本当の姿なんだ」
フィデリオはケリーの肩越しに見える、土塊を指した。
ケリーは、フィデリオに視線を一旦は残しながら、背後へとその視線を移動させた。
カスケードは、微かな風にさえも掬われるようにその姿を変えていく。
固形だった身体の端から、崩れるように小さな砂粒になり、流砂のようにさらさらと流れていく。
崩れ始めると早いもので、数秒の内にカスケードは、最早、人の姿をしていたかどうかの判別も難しいほどになる。
後に残ったのは異国の服と砂の山だった。
ケリーはカスケードだったものを何度も掬い上げた。
砂は、やはり砂のままで、いくら掬ったところで変わりはしないのに、何度も繰り返すケリーの行動に、フィデリオが堪らず止めに入る。
「無駄だから止めるんだ。
ケリー。
ここを離れて他の土地へ移るんだ」
──いやだ!
「ケリー!」
──カスケードは、自分は花のように理解できないとか言ってたけど、違う。
カスケードは自分が土塊だからとか言ってたけど──それも違う。
花は……土がなくっちゃ育たないもの!
花だけじゃ無理なんだって、土もちゃんと必要なんだって、カスケードに教えてあげたいんだ。
カスケードは必要なんだって言いたいんだ!
「もう、無理だって言ってるだろう?
ヤツは死んでるんだよ。
土に帰ったんだ。
ケリーが悲しいのはよくわかったから。
いい加減に諦めるんだ」
──諦めない!
ぜったい方法があるんだ。
カスケードはぼくと争わない為の方法を探してた。
今度はぼくがカスケードの為の方法を探すんだ……?……!
力ずくでもとフィデリオはケリーに掴みかかったが、その時である。
ケリーの動きが止まり、その視線は掌の砂の中に注がれている。
その様子にフィデリオたちも視線をケリーの掌へと向けた。
ケリーが余分な砂を払うと、そこには一粒の種が姿を現した。
ケリーが掌を皆の前に差し出すと、
「発芽しています」
マウリーンが驚いたように呟いた。
彼女が指した箇所から、白い小さな芽が頭を出していた。
僅か数ミリしかない芽だったが、しっかりと天を仰いで伸びている。
──ここに残るよ、ぼく。
ケリーがぽつりと言った。
なにを馬鹿なことをとフィデリオが呆れた声を出す。
──ぼくが育てるんだ。これ。
ケリーはもう一度フィデリオに種を見せた。
「育てるのは構わないよ。
でも、それはよその土地でも出来るだろう」
ケリーは、首を振る。
──ここじゃないとだめだと思う。
だから、ここに残って育てるんだ。
何か言いたげなフィデリオにケリーは笑顔を見せ、
──フィデリオがぼくを育ててくれたように、ぼくがこの種を育てたいんだ。
大切に育てるよ。
フィデリオがそうしてくれたように、ね?
フィデリオは言葉に詰まった。
ケリーに返す科白が見つからずに、ただ俯くしかなかった。
カスケードに突きつけるように言い放った己の言葉が蘇ったからだ。
オルレカには感情が必要であること。
それはいずれ強い意志を生むのだということ。
まさにそれが実現したではないか。
ケリーは自分の意思で、ここに残ると言っている。
変わらぬ愛を注いだ花の結晶が、今度は自分が注ぐ番なのだと言っているのだ。
「俺も残ると言ってもお前は承知しないんだろうな」
──フィデリオはぼくに甘いから……。
ぼくもきっとそれに甘えてしまうだろうから、フィデリオは残ったらだめだよ。
「それでも、一番ケリーのことを愛しているのは俺だってことは忘れないでいてくれよ」
フィデリオはケリーを力いっぱい抱き締めた。
ケリーも最後の抱擁に、身体を小さく振るわせた。
フィデリオが名残惜しそうにケリーの身体を離すと、マウリーンがカスケードの服を手渡してくれた。
綺麗に畳まれたその服を腕に抱くと、今度はムスカリが月読をその上に置いた。
微かに香るカスケードの匂いがケリーの鼻をくすぐる。
思い出したように、やっぱり一緒に残るのだとごねるフィデリオを、パンディオンが説得しながら、彼らは街道を歩いて行く。
ケリーとの距離が離れると、彼らは一旦立ち止まり、振り返った。
見送るケリーに小さく手を振った後、彼らの足元から湧き上がったつむじ風とともに姿を消した。
ケリーの前には一本の石畳の街道が、真っ直ぐフィレ山の峰に向かって伸びていた。
ケリーは歩き出した。
この街道の先にはあの丘がある。
ガーデンを見下ろす小高い丘。
急くように駆け出し、そして翼を広げる。
二対の翼は空を切り、ケリーは滑るように丘を目指した。