萌芽の刻(とき)
鉄と鉄が擦れ合う音。弾ける金属音が空中で何度も繰り返される。その合間に翼が空を切る。
振り下ろされた月読の刀身を神苑の鞘で受け、上下に激しく肩を揺らしながらケリーが懇願する。
「ぼくを斬り捨てる気がないのなら、もう終わりにしよう」
顔面を何度も掠める月読の切っ先が付けた無数の傷跡から、血が滲み、つうと頬を伝い落ちる。
反対にカスケードの身体には傷一つ付いていない。剣の腕が違うことも理由だが、何よりケリーにはカスケードを斬ろうという意思がない。
そしてカスケードには、ケリーを斬り捨てることに躊躇いもあり、それが致命傷を与えないのだ。やみくもにケリーの身体に傷を付けていくだけだった。もちろん、カスケードほど腕が立てば、ケリーを一刀両断、瞬時に斬り捨てることは可能だ。それをカスケードの内側にある何かが拒んでいるとしか思えなかった。またそれを、ケリーは敏感に感じ取っているからこそ、彼もカスケードを斬る行動を取らないのだ。
繰り返される単調な動き。
まるで剣技の練習をしているみたいで、次の太刀筋までもよくわかる。
「こんなことを繰り返してなんの意味があるの?」
カスケードの身体を突き飛ばして距離を取り、ケリーがもう一度問う。
息苦しそうにカスケードは胸を押さえ、俯くと、数メートル下の地上に散らばっている無数の花々を見た。ケリーがここへ現れる前に斬り捨てた、タナソツームの残骸だ。赤い花びらが風に飛ばされていく様は、まるで血飛沫に見えて、それらから逸らすように視線をケリーへと移す。
カスケードの呼吸が荒いのは、ケリーとの一戦のせいとばかりは言えないようだ。どこか身体の異変を感じさせる。
「繰り返す……か。確かにそれでは終わらんな。元を断てと言うことか」
月読の鍔鳴りがいっそうの激しさを見せた。まるで意思を持った何者かが鍔を鳴らせているようだ。カスケードは柄を握り締め、ケリーをなぎ払うように剣を振った。
いつものカスケードならば、振り切る前にぴたりと剣を止め、瞬時に斬り返してくるはずが、なぜだかその時はそのまま振り切る形になった。
ケリーは難なくそれをかわし、当然斬り返してくるであろう次の太刀筋に備えて下から剣を振り上げた。しかし、斬り返してくるはずの月読が戻ってこなかった。
しまったと思った時にはすでに遅く、神苑の切っ先がカスケードの左頬を掠めていき、何かを削っていった。
カスケードは緩慢な動作で自分の頬に指先をあてた。じゃりっとした乾いた砂の感触を感じると、それを一つまみ取り、指先で捏ねてみた。ぱらぱらと薄茶の乾いた土が風に吹かれて飛んでいく。
身体が崩れ始めているのだろうか。カスケードの表情が俄かに曇り、やがて強張っていった。
「カスケード!」
ケリーは、わざとではないにしろ、自分が振った剣でカスケードを傷つけてしまったことに酷く狼狽している。
カスケードの傍へやってくると、その傷に手を伸ばした。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
傷を擦り、何度も誤るケリーの手を払い、カスケードは、平気だと素っ気なく言った。
「土塊だから気にするまでもない」
平静を装うその声が少しだけ震えている。その身に終焉が近づいているのを感じ取ったのかもしれない。命に終わりがあるように、土塊にも風化という終わりがあるのだ。
先ほど、月読を扱いきれなかったのはそういうわけかと、カスケードの顔に自嘲じみた笑みが浮かぶ。
「俺は何をしていたんだろう。もっと早くにこうしていれば良かったんだ」
カスケードは地上に視線を遣ると、未だ鍔鳴りが治まらない月読に語りかける。
「環を乱していたのはウルマだった。彼女を斬ってしまえばタナソツームは現れない。彼女を斬ってしまえば──マリールーの元へやれる──」
「カスケード?」
心配そうに見上げているケリーの顔へ視線を戻す。左右色の違う瞳が自分を凝視している。透きとおる山吹色、山の息吹のような深緑に映りこむ己の姿。
「月読はなぜ……ケリーに対して鍔を鳴らした……?」
その答えだというのだろうか。カスケードの左頬が崩れた。崩れたその奥は空洞になっている。詰め物すらない空っぽの身体だ。ただ暗い闇だけが顔を覗かせている。
「神苑は何もしないでいい。月読がすべてを解決させる。そしてガーデンは元に戻り、これまでと変わることのない時間が流れる。ケリーはその世界で命の環を繋げばいい。それが神苑の役目だ……ケリー」
カスケードは翼を大きく羽ばたかせた。その風圧をケリーは両腕で遮りながら、距離を取っていくカスケードの姿を目で追った。
「つつがなくガーデンの環を廻らせることがお前の仕事だ。その為にもウルマは排除すべきなんだ。心配しなくていい。それは俺がやる──!」
見失いかけたカスケードを十数メートル先でみつけた。月読を鞘に収めながら、カスケードらしからぬ大声で叫んでいた。
ケリーは慌ててカスケードを追うが、後少しというところでカスケードが加速をしてまた距離が離れる。
誰も傷つかない方法を一緒に探そうとケリーは叫ぶ。しかし、発音が上手く出来ない、まして読唇術の効果がある距離にカスケードがいない。ケリーの叫びは虚しく宙を駆けるだけだった。
カスケードの言葉も当然ケリーにはわからない。
力なく首を横に振りながら、カスケードは呟く。
「ケリーは鍵だったんだ。ガーデンの終天と、そして──過去の遺物(俺)の終焉の──鍵……」
カスケードは胸を押さえて宙で蹲る。心配し、近寄るケリーを右手で制止すると、厳しい表情で恫喝した。
音は聞こえずとも、カスケードの制止する手とその表情で、近づくなと言われていることをケリーは覚るが構わず進む。手の届くところにカスケードがいる。
その肩に触れて自分を見るよう促す。
自分を見てもらわなければ、言いたいことが何一つ伝わらないのだから。
「誰も傷つけない方法を探そう? ウルマを斬るとか言わないで。ぼくがきちんと役目を果たせば、ガーデンの環は巡るから……」
顔を上向かせてこちらを見据えているカスケードの藍錆色の瞳は、暗く澱んでいる。
「誰も傷つけない方法などありはしない。すでに俺はこの手で何度も花を散らしているからな。それに──オルレカをひとり斬り捨てている。だから俺は──いつでもお前を斬り捨てられるということだ」
沈んだ藍錆色の瞳が鈍く光り始め、カスケードの右手がゆっくりと月読へと伸びていく。
すらりと抜かれた月読は、まるでカスケードの思い詰めた心が映し出されたように、その刀身もまた鈍く澱んでいた。
歪んだ光を放ちながら、月読は弧を描くように下から上へと振り抜けていく。僅かに左に逸れた切っ先が、ケリーの前髪をひと房切り落としただけだった。
その振動で、カスケードの頬の傷がまた広がった。ぱらぱらと乾いた土が落ちていく。
躊躇わずに剣を振り抜いたカスケードに、ケリーは強い衝撃を受けていた。カスケードはけして本気で月読を向けたりはしないと信じていたからだ。今のは確かに逸れはしたが、狙いがケリーの眉間であったことは確かだった。それが殊更ショックなのだ。
動けずにいるケリーを、鞘に収めた月読で突いた。ケリーの身体はぐらりと揺らいで体勢を崩したが、落下まではしなかった。
「お前はよけいなことを考えず、ひたすら永遠に環を廻らせていればいい。争いのない、決められた運命の中で──」
ただひとつ残念なことは、主の術が発動する前に終わりが訪れてしまったことだ。その願いを叶えることが無理ならば、せめて彼が嫌った争いがない世界のために、その一端を自分が担えればいい。
カスケードは、ウルマの池に向かい、飛び立った。