記憶の礎<6>
ピレアには戻らないと言ったケリーは、ウルマの池の近くにひっそりと佇む廃墟に身を隠していた。いつぞやカスケードがケリーの傷を癒したウルマの屋敷だったが、ケリーはそれを記憶していない。
偶然にその屋敷を見つけ、隠れ家にしただけである。
あれからカスケードとは何度か剣を交えた。
その最中に幾度も訪れた、月読に斬られるというぞくりとした感覚。しかし、月読がケリーの身体を貫くことも、果ては斬り捨てることもなかった。
その都度あちこちに打ち身や裂傷を負ったが、どれも致命傷には到らず、月読からの充分すぎるほどの殺気に似た強い意志を、カスケードが拒んでいるように見えた。
自惚れでなければいい、とケリーは思った。
カスケードが苦しんでいるのなら、救いたいと思う。
土塊がどうだと言うのだろう。
ケリーの中のカスケードは、いつまでも美しいままなのだ。
綺麗な指先で髪をかき上げる仕草も、翼の扱いもなにもかもが、美しく変わらない。
腕の傷を包帯で隠し、痛さに顔を歪ませながら、それでも想うのはカスケードのことばかりである。
ガーデンは、この惨事に不似合いなくらいに良い天気が続いていた。
──だけどね、カスケード。花は土がなくっちゃ綺麗な花を咲かせられないんだよ? 気付いてるのかな。
森の中はひっそりとしていて、時折山鳩が思い出したように鳴き、止まっているのかと思えた時間が、きちんと流れていることを思い出す。
カスケードを救うための具体的な方法が思い浮かんだわけでもなく、このガーデンの永遠を欠けることなく巡らせる名案を思い立ったわけでもない。
それでも、少しは前向きに考えたいとケリーは思う。
両手を広げて空に掲げてみる。指の間から木漏れ日が透けて見える。
カスケードを救う手立てはないかもしれない。でも、あるかもしれないのだ。ないかもしれないと考えるよりも、あることを信じて立ち上がろうと思うのだ。
きっとカスケードはあの端正な顔を曇らせて「土塊の俺にはわからん」などと吐き捨てるかもしれない。それでもケリーは──例え、何度も剣を交えようとも──幾度だってカスケードの前に立ちはだかって見せるのだ。
オルレカとして教育された、このガーデンの永遠の環を巡らせる使命を負わされた者の務めだと信じて──。
しかし、それはカスケードのいう「環から外れたものは除外する」という理念からではない。
カスケードは新たな変化を恐れているだけだと、ケリーは呟いた。
──共に乗り越えよう、カスケード。
愛されて育ったケリー。
愛をその身に湛えて育ったケリー。
その手で愛する者の魂を狩った辛さを乗り越えて、何かに怖れ、闇雲に剣を振るうカスケードの手を取ろうと立ち上がる。
──ウルマの言った“永遠”の意味が、少しだけ解かった気がするよ。
きらきらと音を立てながら日差しが降り注ぐ。
月読に切られた箇所はとても痛むけれど、それすら愛しいと思えてくる。生きているのだと実感する。
頬を撫で上げていく、森を渡る優しい風。
丘の上で、うっとうしそうに前髪を上げていたカスケードは、疎んじながらも風を感じていた。
だからきっとわかるはず──。
──神苑に誓って!
ケリーが右手を突き上げると、ふわりと風が舞い上がり、その腕に絡みついたと思うと、その手には、あの不可思議な文様に剣が握られていた。
しなやかな反りを見せながら、神苑はケリーの手で明らかな意思を持つ。
それが“誰”のものであるかは、ケリーのあずかり知らぬところなのだが……。
眉根を寄せて、物憂げな顔でカスケードがガーデンの石畳を進む。おい、と無礼な声音で声を掛けられ、振り返るとフィデリオが建物の影から飛び出してきた。
まるで待ち伏せてでもいたかのような感じである。
フィデリオの血走った目が、カスケードの顔や手に不躾に向けられ、
「その傷はケリーに負わされたものなんだろう?」
そう問いかけたフィデリオの声は意外にも、怒りというよりも焦燥感が勝っている気がした。
カスケードは目を細め、わざとらしくニヤリと笑い、
「これはこれはフィデリオ。ケリーの探索はもういいのか? それとも諦めたのか?」
と嘲笑うように言う。
フィデリオは怒りで震える指をカスケードに突きつけ、
「俺の目は誤魔化せないぞ。今、ガーデンになにが起こっているのかも知っている。彼らを狩る為に」
とここでカスケードに向けていた指先を、彼の腰に納まっている月読へと向きを変え「お前がその剣を振るっていることもな」と吐き捨てた。
カスケードは、こう息巻くフィデリオを鼻であしらいながら、
「毎日毎日、そこら中の代表者共が大挙して押しかけてくれば、よほどの莫迦でなければわかるだろうな」
更にフィデリオの神経を逆撫でするような発言を繰り返した。
「タナソツームを庇っている翼人がいることもわかっているんだ。──斬る翼人がお前なら、残る翼人は──誰だ!」
カスケードは冷たく笑いながら肩を竦め「じゃあ、フィデリオだ」と彼を指差し、莫迦にしたように答えた。
「ケリーだ!」
フィデリオは歯軋りするように言い、その両の拳に力を込めた。
「ひとつ訊きたい。お前はその剣を何の為に振るう?」
カスケードは、珍しく目を逸らさずにフィデリオの眼差しに受けて立った。
ケリーのあの眼差しに比べれば、フィデリオのそれなど、今のカスケードにとって取るに足らないものだった。
ゆっくりと、カスケードが口を開く。
「俺がどんな答えを言おうと、お前は納得しないだろう。ただ、俺に斬られてしまうかもしれない自分の花が心配でならないだけだ。──違うか?」
フィデリオは、一旦は力を込めるだけに留まった拳を、怒りに任せてカスケードの顔面へと叩き付けた。
少しだけよろめいたカスケードは小さく息を吐き、血の滲んだ口の端に舌を這わせ、フィデリオを見据えた。
「前に言った筈だ。俺には愛も正義もわからんとな。それが答えだ。──得心がいったか?」
フィデリオは「はっ」と吐き捨て、
「それが本心か。では、その剣は──愛する者を守る為でもなければ、貫きたい正義の為でもないんだな。ならばお前のその愚行は、ただの殺戮に過ぎないぞ」
フィデリオが激しくカスケードを罵る。
カスケードの胸がまた軋む。
鋭利な刃物の切っ先で、じわりじわりと皮膚を突かれるその痛みは、止む気配を見せないどころか、時間を追うにつれ増していくようである。
フィデリオの言葉が胸に突き刺さる。
殺戮だと──?
争いのない、平和な国を目指してガーデンを造ったのではないのか!?
永遠の環から外れた者はいずれ災いを招く。それがわかっていて芽を摘むことのどこに咎があるというのだ。
俺が奮うこの剣に意味があるのかと問うか──?
これはけして“愛する者を守る”為ではない。我が主は“愛する者”ではないからだ。
“貫きたい正義”の為でもない。我が主はその名の下で死んでいったからだ。
俺はただ──争いたくないだけだ。
──ケリー。その方法があるというのか? この……月読を奮う以外に……。
すでに立ち去っているフィデリオの影を目で追いながら、カスケードの右手が月読へと伸びる。
カチャカチャと鍔を鳴らしている。
ケリーのいないこの場所で、月読が騒ぎ立てる。──斬り捨てた花の数が多すぎて、月読が狂い始めたのだろうか。
この剣は元々王家に仕える聖剣だったのだ。よもや花を手折るために振るわれようとは思いもしなかっただろう。
月読はいったい何を求めて鍔を鳴らしているのか。
カスケードが膝を折る。
どこか遠くから吹いてきた柔らかな風が、カスケードの黒髪をふわりと巻き上げると、彼の藍錆色の瞳が鈍い光を湛えるのを映し出した。