記憶の礎<5>
広い敷地の中にあって、猫の額ばかりの小さな畑。比率で言えば花壇の方が断然広い。咲いては散るだけの花を、アントニエッタはとても大事にしていた。
もちろん空腹を癒してくれる畑の野菜たちとて同じではある。
ただ枯れるだけの綺麗な花。
幼いアントニエッタに深い思いがあるとも思えなかったが、刹那的な存在に思いを寄せる様を見ていると、嫌な汗がケリーの背中を伝ってくる。
ケリーは門の向こうの影に気づくと、屋敷の裏手へ回り、気づかれないように飛び立った。
ふうと大きな溜息を吐いて、アントニエッタは曲げていた腰をぐいと伸ばした。う〜んと伸びをすると、門の影からこちらを窺っている人影が見えた。コリーンだった。
アントニエッタは、不安げな様子のコリーンに、「どうかしたんですか? コリーンおばさん」と声をかけた。
コリーンは辺りを見回しながら、敷地に入ってくる。
「可笑しなコリーンおばさん。本当にどうしたの?」
アントニエッタは先ほどまで撒いていた肥料の麻袋の口を結わえながら、笑いながら言う。
「ちょいと可笑しな噂を聞いたもんだからね。それを確かめに来たってところかねえ」
コリーンはもじもじとしていて、いつもの豪快さがなかった。
「近頃、ケリーの姿を見ないだろう? いやね、あたしゃ、カスケードさまがガーデンへお連れしたんだって思ってんだよ。それがさ。あちこちの村や町に現れてるオルレカさまの一人がケリーの年恰好とそっくりでさ。村の皆が騒いでんのさ。──ここもラケナリアみたいにされるんじゃないかって。よその村や町なんかじゃ代表者が集ってガーデンへ向かったって話も聞いてるんだよ」
「それを確かめに?」
「ああ。──ねえ、アントニエッタ。ケリーはカスケードさまが一緒にガーデンへ連れて行ったんだろう? オルレカさまなんかじゃあないよねえ」
コリーンは祈るような気持ちで訊いた。
アントニエッタは彼女の顔をじっと見つめ、そしていつもの笑顔を見せた。
「そんなことあるわけないでしょ? だってケリーがピレアにいる時からオルレカさまは現れていらっしゃったもの。──安心してコリーンおばさん。ケリーはカスケードさまについて行ったの。後を追いかけてね」
そう言ったアントニエッタの顔は寂しそうで、コリーンは、
「あんたもそれじゃあ寂しいね。こんな広いお屋敷に一人残されてさあ。いつでもうちに夕飯食べに来てもいいんだよ? じゃあね。それだけ訊きたかったんだ」
アントニエッタをぎゅっと抱き締め、じゃあねと言って敷地から出て行った。
「コリーンおばさんに嘘、吐いちゃった」
ケリーがオルレカであることは、アントニエッタも承知していた。二対の翼を広げて見せて、さよならと悲しげに笑ったケリーの顔が忘れられない。
そのケリーの様子から推し量るに、もう一人のオルレカと呼ばれているのはカスケードであることも分かっていた。
ケリーの苦しみが何であるかが分かっても、それが自分の悲しみと比べられない。
どちらがより苦しんだとか、悲しんだとかいうことではないのだ。
「ケリーを苦しめていたのは私。私を悲しませたのはケリー。ただそれだけのこと。恨んでなんかいないのに……」
寂しいよ。と呟き、小さな手を目に押し当て、しゃくり上げた。
腰が抜けてしまったのか……。ケリーの背後では逃げるよう促されたのにも拘らず、数人のタナソツームたちがみっともなくしゃがみ込んでいた。
きらりと煌く月読の切っ先は、迷うこと無くケリーを指していた。
「タナソツームを庇った所で、お前の免罪符にはなりはしないぞ」
──ぼくは、そんなものが欲しくて彼らを助けているんじゃない。ぼくは、ただカスケードに人を斬って欲しくないだけなんだ。
カスケードは変わらずケリーを指したままで、
「退け」
冷たく、突き放すように言い放つ。
ケリーは両手を広げ、退かないと頑なに答えた。
「ならば神苑を抜け」
──抜かない!
「争う気がないのなら、俺もお前を斬る理由はない。そこを退けろ。俺が用のあるのは後ろで腰を抜かしている奴らだけだ」
──斬らせないって言ってるだろ? もう止めてよ。紋章があっても無くてもいいじゃないか。彼らだって同じ花だ。
「生憎だが俺には花の気持ちとやらは理解出来ないんでな。……俺は花じゃない。ただの土塊なんだよ。これ見よがしに花の気持ち云々語られても、気分が悪くなるだけだ」
──土塊……?
カスケードの口から語られたのは、自分は土塊だということだった。
ガーデンに存在するものすべてが、花芯を魂に持つと教わってきたケリーの胸に衝撃が走る。
オステオスの祝福をその額に掲げ、ガーデンに存在するものすべては花の筈である。
その中に土塊が……?
ケリーの一瞬の隙をついたカスケードは、彼の背後で蹲るタナソツームを容赦なく斬り捨てていく。
永遠に繰り返し巡るひとつの環──。
ウルマは馬鹿げていると言って笑った。
その時点で彼女が正気だったかどうかは定かではないが、それが本当だとしたら、オルレカとして教え込まれたものすべてが脆く崩れ去ってしまう。
オルレカが繋いでいる筈の魂の環。
馬鹿げていると笑うウルマと、自分は土塊だと告げるカスケード。
安穏と次の再生を待つ為に花園へと送ったのに、込み上げる激しい喪失感の答えがこれだということなのか。
涙を流したアントニエッタと自分自身は、もしや同義の存在だったのではないか。
信じていたものが壊れる瞬間とはあっけなく訪れるものだった。
「感情があるというものは厄介だな、ケリー?」
そう突き放すように言ったカスケードだったが、胸の奥が軋むように痛み始める。
古傷が痛むように──。
思い出したくない過去の記憶が蘇ってくる。
わからないものだらけの日々。それらを教え、諭してくれるものの消失。
土塊であっても考えた。
考えて──考えて──考え抜いた。
──それでも……。それでもぼくはカスケードを止める!
ケリーの瞳は誰かを彷彿とさせる。
似ても似つかない。むしろ風貌が似ているのはマリールーではなかったか。しかしマリールーの瞳とケリーのそれはあまりに違う。
その違いがわからない。
また長い年月をかけて考え続けなければならないのだろうか?
「それはお前の意志か?」
ケリーは、カスケードを真っ直ぐな視線で見据えている。
カスケードの苦手な瞳だ。大切な人を思い出してしまうからだ。彼が言っていた謎の半分も解けていないのに。
だから、つい目を逸らしてしまう。
「俺と争う──ということなんだな」
ケリーはカスケードの前に進み、彼の頬を鷲掴みにすると強引に顔を自分に向けさせた。
──目を逸らしたらぼくの言ってることがわからないよ。ちゃんとぼくを見て。
ケリーの瞳に映り込んでいるのは、情けない顔をした自身だった。ケリーの意志の強い瞳に見つめられれば、否が応でも自分が土塊であることを教え込まれているようで、反動で胸がささくれ立つようだった。
──カスケード。ぼくは争いたいんじゃない。争わない方法がきっとあるって思うんだ。だから、手遅れになる前にカスケードを止めたい。……お願いだから、タナソツームを狩るのを止めて。タナソツームがいても永遠は得られる筈だよ? その方法を探そうよ。
「無理だ」
カスケードは喘ぐように呟いた。
「環を巡らすにはオステオスの祝福が不可欠だからだ。それ以外はその環から外れてしまう。均衡が保たれなくなれば、いずれ大きな争いが起きる。だからその前に手を打つ」
カスケードはケリーを突き飛ばし、
「これが争わない唯一の方法だ」
鍔を鳴らし続けていた月読を鞘に収め、翼を広げた。
飛び立ったカスケードの後姿に、
──ほかにも方法はある筈だよ!
ケリーが叫ぶ。
カスケードの剣の前に無残に散ったタナソツームを拾い上げ、ケリーは涙を拭った。