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さんざめく者共<4>

 春とはいうものの、ピレアの夜は透き通るほどに空気が澄み、肌に冷たかった。

 空には満天の星と三日月が浮かんでいる。

 ケリーは、時折訪れる眠れない夜を、こうして庭に出て、ぼんやりと夜空を眺めながら過ごしていた。

 夜の闇を縫うように、どこからか琴の音が聞こえてくる。静かなフィレの山に響き渡る琴の音はケリーを優しく包み込んだ。ケリーが瞼を閉じると、聞こえもしない琴の音に身を委ねているようにも見えた。ケリーの頬を撫でていく、少し湿気を含んだ夜風が琴の旋律のようで、その様は間違いなく琴の音色に聞き入っているようだ。

 風が止むと、不思議に琴の音色も止んだ。風が揺らしていたケリーの黒髪が静かに落ちる。

 ケリーが瞼を開けると、目の前に見知らぬ青年が立っていて、気付けば庭のそこここに、見たこともない人々が佇んでいた。

 琴の音がゆったりと次の曲を奏で始める。

 ケリーが眉根を寄せた。

 何故なら──。彼らの額にはあるべきものが無かったからだ。

──あなた達はだれ? 

 口をついて出たのは疑問符だった。

 このガーデンに紋章を持たない人々が存在するなど、有り得ないことだからだ。

額に紋章がないだけで、それ以外はこれといった違いは見受けられないのだが、ケリーにとって彼らは不思議な存在に他ならない。

 目の前の青年が口を開いた。ケリーがそうであることを知っていたかのように、彼の口調は緩やかだった。

「会って頂きたい方が居るのです。私たちはあなたをその方の元へお連れする為にここへ参りました。お手間は取らせません。あなたのお時間を少しばかりお与えください。夜明けまでにはここへお送り致します。なにとぞ。なにとぞ」

 青年は拝むように両手を合わせ、頭を垂れた。それに続くように庭に佇む他の人々も次々に頭を垂れていく。

 どこからか霧が入り込み、青年の足元を覆い隠し、更にはケリーの足元をも覆い隠す。ケリーは逃げる間もなくそのまま霧に包まれ、そして、庭から忽然とその姿を消した。

 琴の音は変わらず良い音色を奏でていたが、庭の霧がすべて消え入る頃には、嘘のような静寂がフォレ山に戻っていた。

 夜空の三日月が、僅かに西に傾く頃である。



 絡め取られていた両足がようやく自由になると、霧も少しずつ晴れてきた。

 その奥からは微かではあったが水音がする。

 自分が立っている場所が何処かの水辺であるらしいことはわかった。

 すべての霧が晴れると、ここまで連れて来た青年たちの姿はどこにも見えなくなっていた。

 目を凝らしていると、目の前の水面に一人の女性が姿を現した。

 女性と呼ぶには少し幼さの残る面差しが、現れた場所にあまりに似つかわしくなくて、ケリーは背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 髪は額の中央からきっちりと結い分けられていて、質素な衣服を身に纏っている割に、髪留めは随分と立派な物で、宝石類が贅沢に散りばめられていた。

 辺りを覆う霧は彼女の元から湧き上がっているもののようだ。

 私はウルマ─と彼女は言った。両手を胸の辺りで合わせ、

「あなたに逢えて嬉しい。あなたにとても逢いたかった」

 彼女を取り巻く霧が、彼女の感情に呼応するようにざわざわと色めき立つ。霧のざわめきはケリーの足元にも伝わってきた。

 彼女の──ウルマの喜びが率直に伝わる。逢えて嬉しいと喜ぶ温かな感情が、ケリーの全身を駆け巡った。五感の内、二つの機能を失った分、そういった類の感覚が優れているようだ。

 ウルマの温かい感情は、ケリーの心の奥底にあった様々な感情を呼び起こしていく。 それは自らが封印した悲しい出来事すらも、呼び起こす結果ともなった。

 狼狽するケリーに、ウルマは優しく声を掛けてきた。

「何故、悲しいかをあなたが知らないから辛いのですよ」

 抑揚の少ない彼女の言葉は更に続いた。

「例え知らなくても、皆、持っているのですもの。知らなければ辛いだけです。それの名前を教えてあげましょうか?」

 ウルマの笑顔は更に幼さを増した。

「それは愛というものです。家族を愛する。花を愛する。誰かを愛する。そして、愛するが故に失った時の悲しみは計り知れない。それを怖れた愚か者は、封印することでその悲しみから逃れようとしたのです。封印したところで──彼にはその罪の重さからまったく別の苦しみを受けることになるのに……」

 ウルマの言葉はそこで途切れた。まだ紡ごうとしていたようだったが、何故だか彼女は姿を掻き消した。先程まで居た水面にはその姿はなく、立ち上る水蒸気だけがその痕跡を残すのみだった。

──愛? サムを? ルードを? だけどおかしいんだ。似ているんだけど、なんだか違う。カスケードにも似たような感じがあるんだけど……。これは……なに?

 ケリーの問いかけもまた、掻き消すように霧が発生し、辺りを覆い尽くし、そしてケリーの姿もまた水辺から消えた。



 ケリーは、村人が実しやかに語るその話を、俄かには信じられなかった。

「プラージュのアロカシアにオルレカさまが現れたらしい」

「プラージュといえば、この間の花狩りの時に村人全員が花園に送られた、ラケナリアがあったな。あそこは一体どうなってんだ?」

「何にしても。今は花狩りの季節じゃないってのになあ。ガーデンの神々はどうなすったんだろう。カスケードさまも、ちーっともお顔を見せには来てくださらないしな」

「ああ、そうだ。カスケードさまが来て下すったらお聞きするんだがな」

 そう言って彼はケリーの顔を見つめた。ケリーはぎくりとし、咄嗟に作り笑顔を見せた。

 村人の噂話に耳を欹てていたのがバレてしまったのかと思ったのだ。

 もちろんケリーの耳は音を拾うことはないのだから、彼らの話を漏らさず聞こうとしていたならば、相当な真剣な面持ちで彼らの顔を、口元を凝視していたに違いない。

「ケリーだってこんなに心待ちにしておいでなのになあ」

──あ、そういうことか……。心待ち……。そうだね。逢いたいな。カスケードに。

「ほらほら! 男のお喋りはそこまでにして、いい加減仕事に戻って来たらどうだい?」

 女衆の声に、男達は慌てて残りの茶を喉に流し込み、重い腰を上げた。

 彼らは、季節外れのオルレカの出現にさして不安を覚えている風でもなかった。彼らにとってオルレカの出現は至極当然のことなのだから、いちいち深い思慮を巡らす必要はどこにもないのである。

 ただ……。本来のオルレカであるケリーを除いて、だ。

──オルレカっていったい? 俺はここにいるのに。誰が狩りを行っているっていうんだ? じゃあ、俺は? 俺は……なに──?

 雨五月の、初夏の爽やかな風が頬を撫でていくのに、ケリーの心は晴れない。それどころか、例えようのない不安と胸騒ぎが、ざわざわとケリーの胸を押し潰さんとしているようだった。

「ケリーさま」

 空になったケリーのカップをテーブルの端に寄せ、声を掛けたのは、霧の晩に現れた紋章のない青年だった。

──タナソツーム。

「はい。そう呼んで頂いても構わないのですが、ウルマさまから頂戴した名前がありますので、そちらで呼んで頂ければ喜びます」

 タナソツームと呼ばれて応えた彼は、静かな笑みを湛えながら、ケリーのカップに二杯目の紅茶を注ぎ入れた。

「私の名前は、カリナタム=アルバと申します。アルバと、お呼びください」

──上手い具合に潜り込んだものだね。その偽の紋章もウルマって人がやったの?

「いいえ。これは私共がやっていることです。ウルマさまはご存知ありません」

──へえ。言いなりって訳でもないんだ。

 ケリーの目には、彼らの紋章は空々しく映る。輝くでもなく、褪せるでもなく、ただそこに描かれているだけの図柄に過ぎなかった。

「言いなりだなどと、それは酷い誤解です。私共はそれぞれが、それぞれの意志で動いているのです。確かにウルマさまの手足となって働ける喜びはございますが、それはけして命じられているものではないのです」

 ケリーは空々しい彼の科白を聞き流しながら、一瞥をくれ、ごちそうさま。紅茶、美味しかったよ、と礼を言って席を立ち、畑仕事の仲間に混じった。

 気になることは多いが、村人と過ごす畑仕事はとても楽しく、僅かばかりでも安らかな時を過ごせることをケリーは優先したかったのだ。

 タナソツーム──アルバ達に監視されていることは否めないが、彼らは危害を加えるわけでもなく、その真意が読めない今は、村人の一人として接する以外はなかった。



「あの噂が気になるの?」

 眠れずに、ごそごそと寝返りを何度も打つケリーに、アントニエッタは訊ねた。

 ケリーは動きを止め、しばらくしてから、こくりと頷いた。ようよう起き出すと、ベッドを下りる。

 アントニエッタは横になったままケリーを見つめていたが、なにも言わずにブランケットを肩まで上げ、瞳を閉じた。

 ケリーが心の奥で苦しんでいるのはわかってはいたが、それはケリー自身の問題だからと、アントニエッタは幼いながらも、そう割り切っていた。

 庭に出ると、空に浮かぶ月が煌煌と辺りを照らしていた。

 青白く浮かび上がる自分の両手を空に掲げた。指の間から覗く満月を眺めていると、黒い影が突然にそれを覆い隠した。ケリーは、雲ではないその黒い影を、じっと眼を凝らし、見つめた。

 一対の翼が月光の中を黒く、くっきりと浮かび上がる。その右手には刀らしき物が握り締められている。

 ケリーの額の紋章が、ゆっくりと、力強く脈を打ち始める。

 翼が……。刀が……。

 ケリーの神経が空に向けられているその時に、屋敷の物陰から転がるようにして誰かが飛び出してきた。ケリーは驚きの余り全身が総毛だつ。

 今度はその黒い影に、ケリーの視線と神経が注がれた。影が激しい息遣いを見せながら、ケリーの方を見上げた。

 月明かりに照らし出されたそれは、見知った顔だった。

──アルバ……。

 なぜここに、と言葉を続けようとしたその瞬間、先程まで空に浮かんでいたはずのもう一方の影が、ケリーとアルバの間に割って入る形で飛び降りてきた。

 空から舞い降りてきた影は、ケリーに背を向けていたが、ここまで至近距離になれば、もはやそれが誰であるかは一目瞭然だった。

 アルバと対峙しているその姿は紛れもなくオルレカのそれのようだったが、ケリーの思考がそれを拒む。

 剣を持つ右手が振り上げられた。

 月光が切っ先を照らし、光が瞬く。

 影の肩越しに見えるアルバの表情は、固く強張り、わなわなと奮える唇が、離れた場所にいるケリーにさえ見て取れた。

「わ、私を、ころ、殺す……のです……ね」

 震える唇を懸命に動かし、アルバが言った。しかし影は身じろぎ一つしない。

 ケリーにはわかっていた。影はその剣を躊躇すること無く振り下ろすだろうと。しかし止めずにはいられない。

 目の前で、もう誰も消えて欲しくはなかった。小さな……小さな光の粒子となって空へと昇っていく様を見たくなかったのだ。

 駆け出すケリーと振り下ろされる剣。最早どちらが早いかは考えるべくもない。

 ケリーの目の前で、先程まで人型をしていたアルバが、ぱさりという乾いた音を立てて地面へと散った。

 膝から崩れ折れるケリーの前に、放射状に白い小さな花を付けた一輪の花が散っていた。

──ど……どうして。花の形を残したままここにある?

 光の粒子となってガーデンへと飛んでいくはずだった。しかしアルバは、花芯の姿を残したままその場に散っている。

 アルバを拾い上げ、影を見上げた。

 夜空を移動した月が、影の顔を照らし出していた。

 逢いたくて─。逢いたくて仕様がなくて──。でもその気持ちの正体がわからない。ケリーの胸を締め付ける人物。

 カスケードはケリーに一瞥をくれた。

 酷く懐かしい藍錆色の瞳。一文字に結ばれた唇は固く閉じられたままで開くこと無く、カスケードはその面を、ふいとケリーから背けた。

 踵を返したカスケードの上着が、ケリーの目の前で翻る。鼻をくすぐる香の香りは間違いようもなくカスケードのもので、月明かりに照らされた端正な面立ちも、風に煽られて舞う黒髪も、それをうっとうしそうに押さえる仕草も、なにもかもがカスケードだった。

 そして、一輪の花を手折ったのもまた、カスケードであることも事実だった。

 何故、アルバを斬ったのか。ケリーはその理由を聞きたかった。何の理由もなく、カスケードが斬るはずがなく、ましてオルレカとしてそこに立っている理由も問い質したかった。

 オルレカは自分なのだから──。

 しかし、カスケードは一言も語らない。ケリーの伸ばした手を振り切るように、カスケードは飛び立った。

 ケリーの手は空を彷徨い、水面に浮かぶ月を掴もうとしているような、虚しい空気が流れていく。


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