さんざめく者共<2>
青紫の小さな花をたくさん付けた香草が、山裾から吹き上げてくる秋風にそよそよと揺れていた。
畑の端の方から順に刈り取られていく香草。高地を上手く利用した段々畑だ。時折聞こえてくる談笑が山深い村ののどかさを際立たせていた。
高台から伸びている細い坂道を降りてくる、幼い少女を見つけた女性が、畑の中から大声で彼女を呼び止めた。
「アントニエッタ! 買い物かい?」
アントニエッタと呼ばれた少女は懐こい笑顔をその婦人に向けると「はい! 今からお夕飯の買い物です」と肩に掛けている麻の布袋を指差して、こちらも負けじと大声で返した。
「ご苦労だねえ。──ああ、そうだ。野菜は買わなくってもいいよ。後からうちの坊主にでも持って行かすからさ」
恰幅のいいその女性はからからと笑いながら、足元で畑仕事を手伝う我が子の頭をもみくちゃにした。少年は、視線をちらりとアントニエッタに向けた後、ちぇっ、と舌打ちする。
「それじゃあ。おばさん。行って来ます」
アントニエッタは手を軽く振り、坂道を下って行った。
延々と続く段々畑を過ぎると、この長い坂道ともお別れになり、平らな道をまた数十分歩くと村の中心地とも云える拓けた場所に出る。
フォレ山脈の高地にあるピレア村は、薬草と香草を栽培し、大半の村人はそれを生計としていた。
その中でも薬草が主な農産物であった。先程の畑の香草は煎じて飲む薬草とは異なり、ガーデンでの儀式時に使用する香の原料となるものだ。栽培しているのは先程の畑だけで、後はすべて薬草を作っている。
もちろん野菜類の農作物も作っているが、これらは出荷する為の物ではなく、村民の糧として栽培していた。
すべてが互いの為に、平等に、飢えることなく日々過ごす為の知恵だった。
農作物以外の物は外から供給してもらわなければならなかった。肉に衣服に石鹸など、生活に必要な品すべてが対象で、それらは村の中心地にある、一軒しかない雑貨屋が一手に扱い、村人たちはその店で手に入れる。
アントニエッタは肉と洗濯用の石鹸を買いに降りてきていた。
彼女が住む家は段々畑の更に上。外壁を蔓性植物で覆われた煉瓦造りの家だった。こじんまりとした平屋だが敷地は結構広く、門から玄関までの間には花畑が広がっていた。今はチョコレート色とキャラメル色の二色のパンダビオラが小さな花を精一杯咲かせている。
それらの世話は当然アントニエッタがしていた。十歳とは思えないほどのしっかり者で、土いじりを苦とも思わずに花を愛で、育てていた。
ふう、と大きな溜息を漏らしながら、アントニエッタは肩に担いでいた麻袋を足元に置いた。
一塊の肉の燻製が頭を出す。腰に巻きつけていた別の袋からは洗濯石鹸がごろごろと出てくると、それらを戸棚に仕舞い込んだ。
勝手口には籐の籠いっぱいに入った馬鈴薯や人参やらが置かれている。
「おばさん、いつもありがとう」
アントニエッタは籠に向けて手を合わせた。
袖を捲り上げ、夕餉の支度へと取り掛かる。幼くてもこの家の一切合財を賄っているのだ。慣れた手つきで手際よく支度が進む。
すでに下拵えを終えていた具材を鍋に入れて煮込み、別の具材は炒めたりと、その様は熟練の賄い婦のようだ。
出来上がった料理を二人分の皿に移し変え、トレーに乗せてテーブルへと運ぶ。この家には食事部屋があるわけではなく、ロフトに上がる階段の下にテーブルが置いてあり、そこで食事をするのだ。
夕餉が整うと、アントニエッタはロフトで休んでいる同居人を呼びに行く。
壁に括りつけの階段を上がると、書棚に囲まれた中にキングサイズのベッドがあり、同居人はいつもそこで休んでいた。
幾つものクッションを背もたれにして、彼はぼんやりと夕暮れの空を眺めていた。明り取りの窓はすでにその役目を終えて、闇に変わる前の群青色の空を映していた。
彼は日がな一日こうやって空を眺めているのが落ち着くのか。いつ見ても空を見上げていた。
「ケリー? ご飯ができたよ。階下に下りて食べよう」
アントニエッタはケリーの手にそっと触れた。
ケリーはゆっくりとアントニエッタに顔を向けると、こくりと頷く。
白い寝巻き姿のままのケリーは、アントニエッタに手を引かれて階段を下りた。
胃に流し込むだけの食事。フィデリオの屋敷での夕餉とは比べ物にならない暗く沈んだ空気。
何度考えても出て来ない答え。
あのまま冷たい池の中で放っておいてくれた方が、どれほど気が安らいだか知れない。
どうしてカスケードがあそこに居たのか。
どうしてカスケードが救ってくれたのか。
出せない答えを思い、巡らす。
目の前の少女はラケナリアで出会った少女である。
彼女がその瞳から流した涙の理由が分からずに、赴いた懐かしい屋敷での惨劇。それはラケナリアでケリーが行った事実とも重なった。
少女はそのことに気付いていないのか。ケリーの世話を甲斐甲斐しくやってくれている。自分の生まれ育った村を殲滅したオルレカを、目の前の弱弱しい少年と知らずに面倒を見ているのだ。
カスケードに尋ねたくとも、彼はケリーをこの村に連れて来た日以降、一度も訪れてはいない。
カスケードに会いたい。カスケードに会いたい。今すぐにでも飛んで行って、この数々の疑問をぶつけてみたかった。明日になったら来てくれるかもしれない。明日になったら……。
ケリーは、カスケード会いたさに、出された食事を飲み込んでいるに過ぎなかった。
いっそ罵ってくれたら──。ケリーが視線を向けると、目の前の少女はにっこりと微笑み返してきた。
少女の心の内が計れない。
──カスケード。カスケード。カスケード。
目を瞑り、黙々とスプーンを口に運び、ケリーは食事を味わうこともなく胃に流し込む。
アントニエッタはいつも早起きだった。それはもちろんやるべきことがたくさんあるからだが、なにより、前庭一面に咲くパンダビオラの世話はとくに熱心だった。
ラケナリアで出会った時も、その小さな手に握られていたのは月見草だった。
珍しくケリーはロフトから下りて来て、床から天井まである大きな窓の傍でアントニエッタを見つめていた。彼女はその小さな身体を屈めて、花ガラを摘み取っていた。
高地のピレアの朝はかなり冷え込み、彼女の吐く息は白い。いったい何時に起きてくるのか。部屋の暖炉はケリーが目覚めた時にはすでに点いていて、ぱちぱちと木が鳴っていた。
カーテンを握り締め、アントニエッタを飽きもせず見つめていると、その視線に気付いたのか、彼女がくるりと振り返った。窓辺にケリーの姿を認めると、赤くなった鼻の頭を擦りながら笑った。作業用の手袋に付いた花壇の土と彼女の笑顔は、今のケリーには真摯で眩しい。
ケリーは目を伏せた。
アントニエッタが笑う度にケリーは苛まれる。彼女が安らぎを与えようとすればするほどに、心は激しく動揺し、胸を掻き毟りたくなる。
アントニエッタをラケナリアから連れて来てくれとカスケードに懇願したのは、言うまでもなく、ケリー自身だった。
何故そう願ったのか。熱に浮かされていたケリーが口走ったことをカスケードが行動に移したに過ぎないが、それをそもそも口走る思いの根源がわからなかった。彼女を見れば、常にラケナリアの惨劇とフィデリオの屋敷での出来事が連動して思い起こされるのだ。
何故、敢えて自分を追い詰めるような真似をしたのか。
ケリーは苦悶の表情を浮かべ、嘔吐をつく。
それを考えようとすると身体が拒否反応を示すのだ。
ばたばたと足音を立てながら部屋の中を走り抜け、洗面台へと向かう。吐く物がないケリーの口からは黄色い吐しゃ物が溢れ出す。ぐるぐると目の前が回り、吸い込まれるように意識が遠のくと、切れた糸のように意識はぷつりと消えた。
人の話し声が微かに聞こえ始めると、それらは次第に大きくなり、ケリーの意識はそこでようやく目覚めた。口の中は自分の吐いた物で、酸味を帯びた味と嫌な臭いが充満していて強い不快感を感じる。
ケリーが寝かされていたのは、一階のあの大きな窓のすぐ傍らにあるソファだった。 いつもは静かな家の中がざわついていて、意識が戻ったばかりのケリーには状況が上手く把握できなかった。
「おや。気がついたかい。あんた、ちゃんとご飯は食べてんのかい? 青っちろい顔して。そんなだからブッ倒れちまうんだよ」
ソファの背もたれからひょっこり顔を出した女性は、ケリーの顔を覗きこみ、からからと笑った。
ケリーはただただ目を丸くするだけだった。
すると彼女の声に気付いた別の村人たちがこぞってケリーの傍らにやって来る。わらわらと、よくもまあこんなに入れたものだと思うほどの人数だ。交互に顔を覗かれ、ケリーは困惑した顔を見せた。その数の多さにラケナリアの人々の、山と詰まれた黒い塊を思い出した。
彼らもああなる以前はこうやって、笑い、話し、助け合いをして生きていたんだろう。サムもルードもそうだった。
ガーデンになど行かずにあのまま笑っていて欲しかった。
目の前の彼らのように笑って……。
だが、ケリーはオルレカの務めを果たした。そしていつかまた─その時が来たらこの人たちも斬らねばならないのか。
ケリーの身体が拒絶反応を起こす。嗚咽が止まらない。そしてそれは嘔吐へと変わり、黄色い吐しゃ物を吐き出していく。両手で覆っても指の間から溢れ出す吐しゃ物は、容赦なく磨かれた床の上までをも汚す。
──いやだ。こんな思いはもういやだ──。
幾ら吐いても少しも楽にならない。ケリーは呻き声を上げながら喚き散らす。
──ぼくの傍に来ないでくれ! あっちに行ってくれよ!
──ぼくに構わないで……。
「ああ。辛いねえ。苦しいねえ。でもあたしらが居るから大丈夫だよ? 安心おし。病気の時は心細くなるってもんだ。まったくねえ。カスケードさまも人が悪いったらありゃしないよ」
最初に声を掛けた恰幅のいい女性は、宥めるようにケリーを抱き締めた。ケリーの顔を自分の胸に埋めるようにして抱き寄せ、頭を撫でていく。
──サム……。ルード……。
ケリーの頭の中でサムとルードが交互に話しかける。大丈夫よ、私たちがついているからと。
ケリーは堰を切ったように泣き出した。自分を抱き締めてくれる人に縋りつき、なりふり構わずに泣いた。
その場に居合わせた村人たちは、優しく、ケリーの頭を撫でていく。
ケリーはまるで幼子のように彼女にしがみつき、泣き疲れ、そのまま眠りに就いた。