三人の翼人<11>
ケリーの禊の一日は、身体を清める入浴から始まる。
ケリー付きの女官にはパンディオンの神殿の中で一番の年長者になる女性が選ばれた。ケリーがこの神殿で過ごす間の世話は、すべて彼女の仕事となる。
夜明け前に彼女はケリーの部屋へと赴き、浴場までまだ目が覚めて間もない少年を連れて行く。当然、身体を清める作業も彼女の役目なのだが─幼い頃は別としても─身体を他人に触れられることなど、ケリーにとっては初めての経験だった。
寝ぼけ眼で連れられて来た浴室の中、揺らめくランプの明かりはケリーと中年女官との激しい攻防戦を映し出していた。
女官は、オルレカの身体を清めるのは自分の役目なのだと何度も伝えようとしたが、如何せんケリーは筆談でなければ話が通じなかった。おまけに酷い人見知りを起こしていて、彼女に触れられるのが例え指先であろうとも、断固拒否する構えであるのだ。
どうして見知らぬ女性に身体を触れられなければならないのか。自分の身体くらい自分で洗えるのだ。よけいなお世話である。
しかしオルレカ付きの女官は、ケリーの状況を聞かされていないのか、尚も説明を言葉で行う。
「良いですか? 禊、と言いますのはお体もさることながら、お心も清めるものなのです。その為の一日の始まりを入浴から行うのは禊の慣わしなのですから、いい加減に諦めて大人しくなさいませ」
手を伸ばしてくる女官の手をぴしゃりと払いのけ、浴室の向こうで大人しく待っているベロニカへ向け、声ならぬ叫びならぬ奇声を上げると、忠犬はその耳をぴくりと動かし主の危機を察した。器用に浴室の扉を開け、主の下へと駆けつけると、薄絹一枚の主が泣きそうな顔で訴えているではないか。コイツをやっつけてと。
忠犬は女官と睨み合った。大切な主人を守るのは自分の使命なのだ。ベロニカは、ううと唸り臨戦態勢に入る。
女官にも負けるわけにはいかない事情があった。
ケリーの世話付きを任された以上、それはつまり禊の成功をも任されたことに他ならないのだ。これまで禊を失敗した女官の話など聞いたことがない。もし失敗したとなったら、それはとてつもない不名誉なことである。目の前に立つ美姫の如く麗しい面立ちの少年が、神苑の剣に選ばれる選ばれないはこの際どうでもいい。
禊さえ、無事終わらせることができればいいのだ。
女官はごくりと生唾を飲み込んだ。己の前に立ちはだかる大型犬と対峙し、覚悟を決めたようである。
わかりましたと女官は決意を表明し、腰を低く屈めた。
浴場から奇声が発せられ、すわ何事かと色めき立つパンディオンの神殿内。
執務室では早朝から書類に目を通していたパンディオンは、おやおやと目を細めて笑った。
ケリーは、まだ拭いきれていない水滴をぽたぽたと派手に零しながら、同じく毛を濡らしたベロニカを従え、神殿の廊下を歩いていた。
かろうじて薄絹を着てはいるが、濡れた身体にそれはあまり効果がないようで、湯で火照った薄桃色の肌が浮かび上がっている。
ひたひたと裸足で廊下を突き進むケリーの表情は、明らかに憮然としていて不機嫌だった。
同じ強引さでも、サムはもっと愛嬌があった。ケリーと同じ目線で説得してくるから最後には言うう事を聞く羽目になる。それでも嫌気が差すことはない。しかし、あの女官は違った。ケリーの気持ちなど一切無視して、まるで芋の皮むきのように淡々とこなそうとするのだ。
ぼくは芋じゃない。なあ、そうだろう?─ベロニカへ視線を向けると彼女は、きゅうんと鼻を鳴らして答えてくれた。
部屋へ戻ったケリーは、またやって来るかもしれない女官の侵入を防ぐ為に扉を厳重に施錠してやった。
ふんと鼻息荒く振り返ると、無駄に広いだけの室内が目に飛び込んできた。
天蓋付きの大きなベッドは確かに寝心地は良かった。大きな体のベロニカと一緒に寝ても少しも狭くはなかったし、それどころかよけいに広々と感じられて何度も泣きそうになったくらいだ。
唯一外界との接点であるテラスへの出入り口には、大きな錠前が取り付けられていた。
禊とは、神殿から出ることが許されないのではなくて、外気との触れ合いを許さないものなのだろう。だとするなら、あの女官も同じように禊の間はこの神殿に閉じ込められるということだ。
ケリーは少しだけ後悔した。
自分が我慢することでこの禊が滞りなく終われば、彼女の苦痛も軽減されるはずである。
閉じ込められることが苦痛でないはずがない。それが誰よりも理解できるケリーだからこその後悔だった。
それでもやっぱりべたべたと触られるのは嫌いだと思うケリーは、明日もまたやって来る入浴をどうすればいいか思案に暮れる。
ぎゅっとカーテンを握り締め、しかめっ面になる。その足元に、朝焼けの光が差し込んできた。顔を上げて外を見ると、しらじらと明けていく空が赤紫に染まっていた。
フィデリオはもう起きているだろうかと窓に縋りついて、隣りの神殿の様子を窺ってみる。フィデリオの部屋はケリーのいる場所とは反対側にある為、その様子を垣間見ることができなかった。
項垂れて溜息を吐く。
(ガーデンてつまらない場所。)
そう思いながらもう一度テラスの遠くに目を遣ると、石畳の道を横切る人影をみつけた。夜が明けたばかりだというのに、一体誰だろうとケリーは首を傾げた。
こちらに近づいてくるようで、人影の姿が少しずつはっきりとしてきた。
影が近づいてくるとテラスの手摺りが邪魔で見えなくなるものだから、ケリーは急いで一人掛け用のソファを引き摺って持ってきた。
ソファに乗るとその人影は再度姿を現した。よく見えるようにと背伸びもしてみる。
見慣れない衣服が目に飛び込んできた。もっとよく見ようと窓に張り付くと、その人影は突然止まり、ケリーのいる部屋を見上げた。
見ていたのが知れてしまったのだろうか。
とくん、と鼓動が大きく跳ねた。
ケリーは引き込まれるように彼の姿に魅入った。
初めて見る模様の上着。立派な剣を携え、背筋を伸ばしてこちらを見上げている彼の凛としたシルエットに息を呑んだ。
月下の明晰。
明け始めた赤紫の空。
残された白い月の下で彼の姿だけがくっきりと浮かび上がる。辺りの景色は皆朧げなのに、彼だけがはっきりと見えた。
何て綺麗な人なんだろうと、ケリーはうっとりとみつめる。
押し付けるように顔を近づけたせいでガラスが白く曇り、慌ててそれを拭き取ったが彼の姿はもう消えていた。
夢か幻か。
他所からの来訪者なのか。それとも神官か何かか。それにしては剣を携えているのはおかしかろう。
ケリーはあれこれと逡巡する。そのどれもがしっくりこなくて苛々することこの上ない。禊のもどかしさが一層増しただけである。
それでも退屈していたケリーは、何故だか謎めいて見えた彼の正体が知りたくて、その日から時間が許す限りテラスの前で過ごすようになった。