第8話 魂の天秤と、後悔の儀式
ヴァネッサの宣戦布告にも等しい言葉が、静まり返った地下大広間に重く響き渡った。
俺の背後には、もはや退路はない。四方を、俺自身が生み出した魂持つ人形たちに、じりじりと取り囲まれているのだ。その一体一体の瞳には、様々な感情が渦巻いていた。怒り、悲しみ、失望、そして……ほんのわずかな、期待のようなもの。
(期待……だと? 俺に、何を期待するというんだ……?)
混乱する俺をよそに、ヴァネッサはまるで熟練の指揮官のように、他の人形たちに指示を飛ばし始めた。
「第一隊、リアの動きを封じなさい。ただし、傷つけるのは許しません。彼には、これから私たちの『声』を、その魂に直接聞いてもらうのですから」
その声に応じ、数体の中性的な姿の人形たちが、滑るような動きで俺との距離を詰めてくる。彼女たちは、かつて俺が「感情表現の試作」として作り、そして飽きて放置していた者たちだ。その無表情だったはずの顔には、今やヴァネッサへの忠誠ともとれる、硬い決意が浮かんでいる。
「やめろ……! 俺はお前たちの創造主だぞ! 俺に逆らうというのか!?」
俺はアナスタシアの身体に宿る、ありったけの威厳を込めて叫んだ。だが、その声は虚しく震え、人形たちの動きを止めることはできない。
その時だった。
「そこまでだ、ヴァネッサ! リアを追い詰めるのは、君の本意ではあるまい!」
大広間の入り口から、凛とした声が響いた。カイン・アルドリッチだ。彼のヘーゼル色の瞳は、心配そうに俺と人形たちを交互に見つめている。その手には、機械仕掛けの小鳥「ブリッツ」が、いつでも飛び立てるように翼を広げていた。
「カイン……! なぜ、君がここに……?」
俺は驚きに目を見開いた。彼には、今日の「儀式」のことは知らせていなかったはずだ。
カインは俺の問いには答えず、ヴァネッサに真っ直ぐな視線を向けた。
「ヴァネッサ、君たちの気持ちは分かる。だが、力で訴えても、本当の理解は得られない。リアにも、心があるはずだ。彼に、君たちの声を聞く時間を与えてやってくれ」
ヴァネッサは、カインを一瞥すると、ふ、と美しい唇に嘲るような笑みを浮かべた。
「あら、アルドリッチの御曹司。あなたには関係のないことではなくて? これは、私たち創造物と、創造主との間の問題よ」
その言葉には、カインの介入を許さないという、明確な拒絶が込められていた。
「関係なくはないさ! リアは……アナスタシア様は、僕の友人だ!」
カインの叫びに、俺は胸を突かれた。友人……? この俺が、カインの?
ヴァネッサは、その言葉に少しだけ眉を動かしたが、すぐに冷たい表情に戻った。
「友情ごっこは結構。でも、彼が本当に私たちの魂を理解しようとしなかった事実は変わらないわ。……さあ、リア。あなたの『作品』たちが織りなす、魂の饗宴を始めましょうか」
その言葉を合図に、人形たちが一斉に動き出した。だが、それは物理的な攻撃ではなかった。
一体の人形が、悲しげなメロディを口ずさみ始める。それは、かつて俺が「感情のプログラミング」の一環として教え込み、そしてすぐに飽きてしまった子守唄。だが、その歌声は、今や深い哀愁と、打ち捨てられた者のやるせない想いを乗せて、俺の鼓膜を震わせた。
別の人形は、無言のまま、俺の足元に何かを置いた。それは、第2号人形――あの感情を暴走させ、無残に壊れた舞姫の、折れた腕だった。その小さな白い手は、まるで何かを掴もうとするかのように、虚空を彷徨っている。
そして、クララが、一歩、また一歩と俺に近づいてきた。その瑠璃色の瞳は涙で潤み、小さな唇が震えている。
「リア様……どうして……どうして、私たちの心を、見てくれなかったのですか……? 私たちは、ただ……リア様に、愛されたかっただけなのに……」
その言葉は、まるで重い楔のように、俺の胸の奥深くに打ち込まれた。
愛されたかった……? 人形が、俺に?
俺の頭の中で、何かがガラガラと崩れ落ちていく音がした。
(そうだ……俺は、ずっと見て見ぬふりをしていたんだ)
人形たちが抱える魂の重さ。彼女たちの苦しみ。そして、俺自身の心の奥底にある、孤独と後悔。
“空白の人形”が囁いていた言葉が、脳裏に蘇る。「お前が本当に欲しいものは何だ?」
美か? 生か? それとも……。
俺は、無意識のうちに膝をついていた。
目の前には、涙を流すクララ。その背後には、冷ややかに、しかしどこか悲しげに俺を見つめるヴァネッサ。そして、彼女たちを取り囲む、数多の魂持つ人形たち。
「……すまなかった」
絞り出すような声が、俺の口から漏れた。それは、アナスタシアの声ではなく、間違いなく、リア・フォン・シュタイナーとしての、心の底からの声だった。
「俺は……俺は、間違っていた。美を求めるあまり、お前たちの心を傷つけた。俺自身の孤独から目を逸らすために、お前たちを利用していたのかもしれない……」
言葉が、次から次へと溢れ出てくる。それは、今まで頑なに認めてこなかった、俺自身の弱さと過ちだった。
カインが、そっと俺の肩に手を置いた。その温かさが、今はただ有難かった。
「ヴァネッサ……クララ……そして、皆。俺の、この後悔を受け取ってほしい。そして、もし許されるなら……もう一度、お前たちと向き合いたい。創造主としてではなく……一人の、未熟な魂として」
俺は、震える手で、胸元に手を当てた。
古書に記されていた、最後の秘術。それは、魂を分け与えるだけでなく、術者の強い感情――特に後悔や贖罪の念――を触媒とすることで、対象との魂の結びつきを浄化し、新たな関係性を築くというものだった。
「自我還元の儀式」――そう名付けられていたその術は、成功すれば人形たちを真の自由へと導き、失敗すれば俺自身の魂が砕け散るという、まさに諸刃の剣。
だが、今の俺に、迷いはなかった。
これが、俺にできる唯一の償いであり、そして、俺自身が救われるための、最後の道なのかもしれない。
俺はゆっくりと顔を上げ、ヴァネッサとクララの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「俺の魂の一部を受け取り、そして、君たち自身の意志で生きてほしい。……それが、俺の最後の願いだ」
工房の空気は、依然として張り詰めたままだ。
だが、人形たちの瞳の奥に宿る光が、ほんの少しだけ、揺らめいたような気がした。
俺の、最後の賭けが始まろうとしていた。