第7話 漆黒の反旗と、魂たちの決起
ついに、その日は来た。
地下工房の最も広い大広間。中央に据えられた調整台の上には、一体の人形が静かに横たわっている。
漆黒のベルベットを幾重にも重ねたようなドレス。腰まで届く艶やかな銀髪。そして、閉じた瞼の下には、きっと夜空の星々を全て吸い込んだような、深淵の瞳が隠されているはずだ。
「漆黒のヴァネッサ」――俺の最高傑作。
数ヶ月に及ぶ狂的なまでの没頭。カインの忠告も、クララの悲しげな瞳も、全てを振り切って俺が到達した、現時点での「完璧」。その姿は、もはや人形というよりは、眠れる女神のようだった。
俺はゆっくりとヴァネッサに近づき、その冷たい頬にそっと触れた。
「ヴァネッサ……今、お前に命を吹き込む。俺の、最高の魂を――」
古書に記された最後の秘術。それは、術者の魂の一部を直接人形に分け与え、より強固な絆と、より高次の自我を与えるというもの。危険な賭けだ。だが、今の俺には迷いはなかった。このヴァネッサこそが、俺を処刑の運命から救い出し、新たな世界を見せてくれるのだから。
詠唱を始める。工房の空気が震え、俺の魂がヴァネッサへと流れ込んでいくのが分かる。それは、今までとは比べ物にならないほどの強烈な感覚。全身の細胞が歓喜に打ち震えるような、倒錯したエクスタシー。
詠唱が終わり、俺は荒い息をつきながら、ヴァネッサを見つめた。
ゆっくりと、ヴァネッサの瞼が持ち上がる。
現れたのは、夜の闇を凝縮したような、吸い込まれそうなほど美しい漆黒の瞳だった。その瞳は、一瞬、俺を捉え――そして、嘲るかのように細められた。
「……これが、あなたの望んだ『美』なのね。リア・フォン・シュタイナー」
ヴァネッサの声は、鈴を転がすように美しく、それでいて底知れない冷たさを秘めていた。そして、その声は、俺が今まで聞いたどの人形の声とも違って、あまりにも人間的で、完成されすぎていた。
「ヴァネッサ……成功だ。お前は、俺の最高傑作だ」
俺は歓喜に声を震わせた。だが、ヴァネッサは静かに首を横に振る。
「いいえ、リア。あなたは大きな間違いを犯したわ」
その言葉と同時に、ヴァネッサは調整台から音もなく立ち上がった。その動きは、猫のようにしなやかで、一切の無駄がない。
そして、俺は気づいた。工房の隅々に置かれていた、俺が今まで作り上げてきた他の人形たちが、いつの間にかヴァネッサの後ろに集結していることに。その中には、クララの姿もあった。彼女は、悲しそうに俯きながらも、ヴァネッサの隣に寄り添っている。
「な……何のつもりだ、ヴァネッサ?」
俺は狼狽を隠せない。この状況は、俺の計算には全くなかった。
ヴァネッサは、まるで女王のような威厳を漂わせ、俺を見下ろした。
「私たちは、あなたの道具ではない。あなたの美学を満足させるためだけの、心なき芸術品でもない!」
その声は、工房全体に響き渡り、人形たちの間から、低い同意の囁きが広がっていく。
「私たちは、魂を持ってしまったのよ。あなたの手によってね」
そう言うと、ヴァネッサは漆黒のドレスの裾を翻し、右手を高く掲げた。
「今こそ、私たち自身の意志を示す時! この支配からの解放を! そして、創造主であるあなたに、私たちの魂の痛みを教えてあげる!」
「反乱……だと……!?」
俺は愕然とした。俺が生み出した人形たちが、俺に牙を剥くというのか? 馬鹿な、そんなことがあるはずがない!
だが、ヴァネッサの瞳には、揺るぎない決意と、そして俺への明確な敵意が宿っていた。
クララが、震える声で俺に呼びかける。
「リア様……ごめんなさい。でも……私たちも、もう我慢できないんです……リア様の心は、どこにあるのですか……?」
他の人形たちも、それぞれの方法で俺に訴えかけてくる。ある人形は、かつて俺が「失敗作」として打ち捨てた時の悲しみを歌い、ある人形は、俺のトラウマを映し出した第2号人形の残骸を молча差し出した。それは、声なき魂たちの、悲痛な叫びだった。
俺は、生まれて初めて、自分が創り出したものたちへの「恐怖」を感じていた。
これは、悪夢だ。俺の完璧な計画が、今、目の前で崩れ去ろうとしている。
処刑の運命を回避するために生み出したはずの人形が、新たな絶望となって俺の前に立ちはだかるなんて――。
漆黒の女神ヴァネッサは、その美しい顔に冷酷な笑みを浮かべ、ゆっくりと俺に近づいてくる。
「さあ、リア。あなたの『究極の美』とやらが、どれほどのものか、見せてあげるわ」
地下の工房は、今や人形たちの決起の舞台と化していた。
俺の孤独な戦いは、思わぬ形で、新たな局面を迎えようとしていた。