第5話 偶然の邂逅と、差しのべられた手
“空白の人形”の出現は、俺の心に重い影を落とした。夜毎ではないものの、ふとした瞬間に鏡や水面、時には磨かれた銀食器にまで、あの虚ろなアナスタシアの顔が浮かび上がり、無言の問いを投げかけてくる。そのたびに俺は言い知れぬ恐怖と焦燥に駆られ、精神は確実にすり減っていった。
(このままじゃ、本当に“アレ”に食い尽くされる……!)
ベルテ聴聞官の目もある。迂闊な行動は取れない。だが、何か手を打たなければ。
そんな八方塞がりの中、気分転換というにはあまりに切実な理由で、俺は珍しく王都の街へ出ることにした。もちろん、アナスタシアの姿で、最小限のお供だけを連れて。目的は、錬金術の素材となりそうな珍しい鉱石や薬草を扱う店を密かに探すこと。そして、何よりも工房以外の空気を吸って、少しでもこの重苦しい気分を晴らしたかった。
王都は活気に満ちていたが、今の俺にはその喧騒すらもどこか遠い世界の出来事のように感じられた。お目当ての店をいくつか回り、多少の収穫はあったものの、心の靄は晴れないままだった。
不意に、路地裏から小さな悲鳴と、何かが割れるような音が聞こえた。
(……面倒事はごめんだぞ)
そう思いつつも、俺の足は自然とそちらへ向いていた。アナスタシアの身体は、どうやらお人好しにできているらしい。
路地の奥では、身なりの良い少年が、チンピラ風の男たち数人に絡まれていた。少年は歳の頃は俺と同じくらいか、もう少し下だろうか。上質な生地の服は土埃で汚れ、必死に何かを守るように胸に抱えている。
「おい、ぼっちゃん。その綺麗な鳥かご、渡してもらおうか。中身も高値で売れそうだぜ?」
下卑た笑いを浮かべるチンピラたち。少年は怯えながらも、必死に首を横に振っている。
(……鳥かご? あんなものに、どんな価値が?)
俺は一瞬訝しんだが、次の瞬間、チンピラの一人が少年の腕を掴み、無理やり鳥かごを奪い取ろうとした。
「やめろっ!」
思わず声が出た。アナスタシアとしてのソプラノではなく、地金の青年の声に近い、鋭い響き。しまった、と思ったがもう遅い。
チンピラたちが一斉にこちらを振り返る。その目には、獲物を見つけたようなギラついた光。
「なんだぁ? 姐ちゃん。こいつの仲間か? いい度胸じゃねえか」
リーダー格らしき男が、ニヤニヤしながら近づいてくる。
まずい。お供は少し離れた場所で待たせている。アナスタシアの身体能力は、お世辞にも高いとは言えない。
だが、俺は人形師リア・フォン・シュタイナーだ。こんなチンピラ相手に、みすみすやられるわけにはいかない。俺は咄嗟に、袖に隠し持っていた小型の仕掛け――護身用に改造した、鋭い針を数本射出できる人形の腕の一部――を構えた。前世の知識と、こちらの世界の素材で作った、ささやかな武器だ。
「それ以上近づけば、どうなるか分かっているでしょうね?」
アナスタシアの高慢な口調で言い放つ。だが、声はわずかに震えていたかもしれない。
チンピラたちは一瞬怯んだが、すぐに俺がただの「か弱い貴族令嬢」だと判断したのだろう。再び下卑た笑みを浮かべて距離を詰めてくる。
万事休すか――その時だった。
「そこまでだ! 彼女に指一本でも触れてみろ。この僕が許さない!」
凛とした、それでいて力強い声が響いた。
見れば、先程の少年が、いつの間にか俺の前に立ちはだかっていた。その手には、先程守っていた鳥かご。いや、よく見るとそれはただの鳥かごではない。複雑な歯車とゼンマイが組み合わされた、精巧な機械仕掛けの――小鳥型の人形だった。
(機械人形……だと!?)
少年が何かを操作すると、その小鳥型の人形が翼を広げ、目にも留まらぬ速さでチンピラたちに襲いかかった。小鳥は鋭い金属音と共に回転し、チンピラたちの服を切り裂き、急所を的確に攻撃していく。その動きは、まるで熟練の剣士のようだ。
「ぐあっ!」「な、なんだこいつは!?」
チンピラたちはあっという間に打ちのめされ、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
後に残されたのは、俺と、その少年、そして肩で息をする小さな機械鳥だけだった。
少年は俺に向き直ると、優雅に一礼した。
「ご婦人、お怪我はありませんでしたか? 無礼な輩に絡まれておいででしたので、ついお節介を」
その顔立ちは、どこか中性的で、知的な光を宿したヘーゼル色の瞳が印象的だった。線の細い優男といった風貌だが、先程の度胸と、あの機械鳥の性能は並大抵のものではない。
「……助かりましたわ。あなたは?」
俺はアナスタシアの仮面を被り直し、礼を言う。
「僕はカイン・アルドリッチ。アルドリッチ伯爵家の者です。あなたは?」
(アルドリッチ伯爵家……確か、騎士団とも繋がりが深い、由緒正しい武門の家系だったはずだ)
そんな家の人間が、なぜこんな路地裏でチンピラに? そして、あの機械鳥は一体……?
「わたくしはアナスタシア・フォン・シュタイナーと申します」
「シュタイナー公爵家のご令嬢でしたか。これは失礼いたしました」
カインと名乗った少年は、少し驚いたように目を見開いたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。その笑みには裏表がないように感じられ、俺は少しだけ警戒を解いた。
「あの……先程の小鳥は、あなたがお作りになったのですか?」
どうしても気になって尋ねると、カインは少し照れたように頬を掻いた。
「ええ、まあ……趣味でして。機械仕掛けの人形を作るのが好きなのです。この子は『ブリッツ』と言います。まだ試作段階ですが」
彼はブリッツと呼んだ機械鳥を、愛おしそうに撫でている。
(趣味、だと……?)
その言葉に、俺は内心で衝撃を受けた。彼の作る機械人形は、俺が魂を宿らせようとしている人形とは方向性が違うが、その技術レベルは非常に高い。何よりも、彼の人形への接し方には、俺にはない「愛情」のようなものが感じられた。
「アナスタシア様も、何かお探し物でこのあたりに?」
カインの問いに、俺はハッとした。
「え、ええ。少し……珍しい素材を探しておりまして」
「もしよろしければ、僕がお手伝いしましょうか? この辺りの店には、少しばかり詳しいつもりです。それに、あなたのような美しい方が一人でこのような場所を歩かれるのは、いささか危険かと」
カインは、悪戯っぽく笑ってそう言った。その言葉には嫌味がなく、純粋な親切心からのものだと分かる。
(こいつなら……あるいは、何かの情報を得られるかもしれない。“空白の人形”のこと、ベルテ聴聞官のこと……いや、それはまだ早いか)
だが、彼が持つ機械人形の技術は、俺の研究にとっても参考になるかもしれない。何よりも、この王都で、初めて「同好の士」と呼べるかもしれない存在に出会えたという事実に、俺の心はわずかに高揚していた。
「……では、お言葉に甘えさせて頂いても、よろしいかしら?」
俺は、アナスタシアの顔で、ここ数ヶ月で一番自然な笑みを浮かべていたかもしれない。
これが、後に俺の数少ない理解者となり、そして共に多くの困難に立ち向かうことになる伯爵令息、カイン・アルドリッチとの、偶然にしては出来すぎた出会いだった。
孤独な悪役令嬢の運命に、ほんの少しだけ、違う色の光が差し込んだような気がした。
だが、この出会いがもたらすものが、希望だけではないことを、俺はまだ知らなかった。