第2話 歪な万華鏡と、冷徹な訪問者
「リア様、あのね、お空、飛んでみたいです」
あの日、か細い声で俺の名を呼んだ小さな人形に、「クララ」という名を与えてから一ヶ月が過ぎた。
クララは驚くほどの速さで言葉を覚え、今では俺の工房をトコトコと小さな歩幅でついて回り、無邪気に話しかけてくる。その姿は、まるで本物の幼い少女のようで、時折、こいつが俺の手で生み出された「人形」であることを忘れそうになる。
「空か。クララにはまだ翼がないからな。それに、工房は地下だ」
俺は作業台に向かいながら、そっけなく答える。次なる試作――第2号人形の設計図に集中したかった。クララは愛らしいが、俺の目的は「究極の美」を宿す人形の完成、そして処刑回避だ。感傷に浸っている暇はない。
「つばさ……リア様が、作ってくれますか?」
背中に回って、俺の腰にしがみつくようにして見上げてくるクララの瞳は、一点の曇りもない期待に満ちている。その純粋さが、時々、俺の胸をチクリと刺す。
(こいつは、俺を「創造主」として絶対的に信頼している)
だが、俺はその信頼に応える気も、そもそも「愛情」なんてものを人形に向ける気も更々なかった。俺にとって人形は、あくまで俺の才能を証明し、運命を変えるための「作品」であり「道具」なのだから。
「……気が向いたらな」
そう言って頭を撫でてやると、クララは嬉しそうに目を細めた。単純なやつめ。だが、その単純さが、今の俺には都合が良かった。
第2号人形は、クララとは全く違うコンセプトで設計した。クララが「純粋無垢な幼女」だとしたら、第2号は「儚げで繊細な舞姫」。より複雑な感情表現と、流れるような美しい動きを追求する。もちろん、魂を宿す錬金術も、さらに高度なものを施すつもりだ。
数週間後、深夜の工房。クララは隅の小さな椅子でこくりこくりと舟を漕いでいる。そして俺の目の前には、息をのむほど美しい舞姫の人形が横たわっていた。滑らかな象牙色の肌、銀糸のような髪、そして閉じた瞼の下には、きっとアメジストとは違う、深い瑠璃色の瞳が隠されているはずだ。
「今度こそ……完璧なはずだ」
俺は慎重に魔法陣を描き、古書に記された、より高度な魂の錬成術式を組み上げていく。クララの時とは比べ物にならないほどの魔力――いや、魂の力がごっそりと持っていかれる感覚。だが、それすらも快感に変わりつつあった。
詠唱が終わり、魔法陣が眩い光を放つ。工房全体が震えるほどのエネルギーが人形に注ぎ込まれていく。
そして、光が収まった瞬間――。
パチリ、と舞姫の人形が目を開いた。美しい瑠璃色の瞳。だが、その瞳にはクララのような純粋な光はなく、どこか虚ろで、底知れない闇が揺らめいていた。
「……あ……」
人形が何かを言おうとした、その時だった。
突然、人形の体がガクガクと痙攣し始めた。瞳孔が大きく見開かれ、焦点が合っていない。
「なっ……!?」
まずい、何かがおかしい。制御不能――!?
次の瞬間、工房の空気が一変した。どこからともなく冷たい風が吹き荒れ、壁や天井に、まるで万華鏡のように歪んだ幻影が映し出されたのだ。それは、暗く狭い部屋に閉じ込められているような息苦しさ、誰にも理解されない絶望感、そして……前世の俺が、病室のベッドの上で一人静かに息を引き取った時の、あのどうしようもない孤独と無力感だった。
「う……ああああああああッ!」
舞姫の人形が、甲高い叫び声を上げた。それは悲鳴であり、怒号であり、そして助けを求める魂の慟哭のようにも聞こえた。人形の体からは、まるで血のような赤黒い液体が滲み出し、美しいはずの顔を汚していく。
「リア様っ! いやぁっ!」
クララが悲鳴を上げて俺に飛びついてきた。小さな体は恐怖にガタガタと震えている。
俺はクララを抱きしめる余裕もなく、目の前の惨状に歯噛みした。
(俺のトラウマを……俺の記憶を読み取り、それに呼応して暴走したというのか!?)
魂を宿すということは、こういうリスクも伴うということか。古書には、こんな危険性までは書かれていなかったぞ!
舞姫の人形は、まるで自らの苦しみに耐えかねるように、作業台の上で激しくのたうち回り、やがてバキリ、ゴトリ、と鈍い音を立てて関節が外れ、美しい体が無残に壊れていく。そして、最後に「助ケテ……」という囁きにも似た声を残して、完全に動きを止めた。
工房に、再び静寂が戻る。だが、それは先程までの創造の緊張感に満ちた静寂ではなく、死と破壊が支配する、重苦しい沈黙だった。床には赤黒い液体が飛び散り、壊れた人形の残骸が痛々しく転がっている。まるで凄惨な事件現場だ。
「……失敗、か」
俺は冷静に呟き、壊れた人形のデータを記録し始める。この失敗は、次に繋げるための貴重なデータだ。だが、腕の中で震えるクララの体温が、やけに生々しく感じられた。クララの怯えた瞳が、俺の顔をじっと見つめている。そこには、以前のような純粋な信頼ではなく、得体の知れないものを見るような、微かな恐れと……不信の色が浮かんでいた。
***
悪夢のような一夜から数日後。俺は壊れた第2号人形の残骸を片付け、クララの精神的なケア(という名の機嫌取り)をしつつ、次なる構想を練っていた。あの失敗は確かに痛かったが、同時に新たな発見もあった。人形は、制作者の深層心理を反映する……ならば、それを逆手に取ることも可能かもしれない。
そんなある昼下がり、不意に来訪者があった。
執事が血相を変えて俺の部屋に飛び込んできたのだ。アナスタシアは普段、自室に引きこもって本を読んでいることが多い(ということになっている)。
「お、お嬢様! きゅ、宮廷より、聴聞官様が……! アナスタシアお嬢様に、至急お目通りたいと……!」
(聴聞官だと……?)
胸騒ぎがした。聴聞官といえば、王国の司法を司り、特に重大事件の捜査や貴族の不正を糾弾する役職だ。平穏に暮らす(つもりの)俺に、何のようなのだろう。
客間に通されると、そこには長身痩躯の男が一人、窓の外を眺めて立っていた。年の頃は三十代半ばだろうか。仕立ての良い黒い礼装に身を包み、手には一冊の革表紙の手帳を持っている。俺が入ってきたことに気づくと、ゆっくりとこちらに振り返った。
鋭い、という言葉では生ぬるい。まるでこちらの魂の奥底まで見透かすような、冷たく知的なアイスブルーの瞳。整っているがどこか人間味の薄い顔立ちは、まるで精巧な彫刻のようだ。
「シュタイナー公爵令嬢、アナスタシア様でいらっしゃいますね。突然の訪問、失礼いたします。私は宮廷聴聞官、ベルテ・フォン・ミューレンと申します」
彼の声は、その瞳と同じように冷たく、感情の起伏を感じさせない。
「ごきげんよう、ミューレン聴聞官。わたくしに、何かご用でしょうか」
俺はアナスタシアとして完璧な淑女の笑みを浮かべ、カーテシーをしてみせる。内心では、警報がガンガン鳴り響いていた。こいつは、ヤバい。
ベルテは表情一つ変えず、手帳をパラリとめくった。
「単刀直入に伺います、アナスタシア様。近頃、王都近郊で若い女性の連続失踪事件が多発していることはご存じですかな?」
(連続失踪事件……? 初耳だ。だが、なぜそれを俺に?)
「痛ましい事件ですわね。ですが、それがわたくしと何の関係が?」
「お嬢様は、ご趣味で人形を作られているとか。それも、まるで生きているかのように精巧な人形を、秘密の工房で、夜な夜な……」
ベルテの言葉は、静かだが、確実に俺の核心に迫ってきていた。どこから情報を……!?
「ただの趣味ですわ。何か問題でも?」
「その『趣味』が、今回の事件と何らかの関連があるとはお考えになりませんか? 例えば……その精巧な人形を作るために、何か特殊な『素材』をお使いになっている、とか」
ベルテの目が、俺の紫水晶の瞳を射抜くように見つめる。
(こいつ……まさか、俺の錬金術のことまで掴んでいるのか!?)
背中に冷たい汗が流れるのを感じながらも、俺はアナスタシアの仮面を剥がさなかった。
「聴聞官様。いくらなんでも、それは憶測が過ぎるのではなくて? シュタイナー家の者に対し、あまりに無礼な物言いではございませんか」
努めて冷静に、そして貴族令嬢としての威圧感を込めて言い返す。
だが、ベルテは全く動じない。
「憶測、で終われば良いのですがな。失踪した女性たちの中には、お嬢様と背格好の似た者も複数含まれております。……これは単なる偶然でしょうか?」
彼はそう言うと、ふ、と初めて微かに口元を歪めた。それは、笑みというよりは、獲物を見つけた捕食者のような、不気味な表情だった。
「アナスタシア様、あなたの工房を、一度拝見させて頂くわけにはいきませんか?」
その言葉は、もはや詰問だった。
俺の心臓が、ドクン、ドクンと嫌な音を立て始める。工房には、クララがいる。そして何より、錬金術の痕跡が……。
絶体絶命。
俺は、この冷徹な聴聞官の追及を、どう切り抜けるべきか――。
アナスタシアの美しい顔の下で、青年の脳がフル回転を始めていた。