第1話 目覚めた悪夢と、禁書庫の囁き
ひやり、と冷たい感触が首筋を撫でた。
ぞくりとした悪寒と共に、俺――リア・フォン・シュタイナーは、見慣れない豪華すぎる天蓋付きベッドの上で目を覚ました。絹のシーツは肌触りが良すぎて落ち着かないし、ふわりと鼻孔をくすぐる高価そうな花の香りは、どうにも俺の趣味じゃない。
(また、この夢か……いや、夢じゃない)
ぼんやり霞がかっていた意識が急速に覚醒していく。同時に、脳裏に焼き付いて離れない光景がフラッシュバックした。
断頭台、嘲笑う群衆、そして、美しくも冷酷な王子が言い放った「悪役令嬢アナスタシア・フォン・シュタイナーよ、その罪、万死に値する!」という言葉――。
そう、俺は、前世でプレイしていた乙女ゲーム『クリスタル・ラビリンス』の悪役令嬢、アナスタシアに転生してしまった、ただのしがない人形師だった青年だ。
信じられるか?こんなメルヘンチックなフリル満載のネグリジェを着て、サラサラの金髪プラチナブロンドを肩に流しているのが、中身は二十歳そこそこの男なんだぜ?
「はぁ……」
思わず、アナスタシアの可憐な唇から、おっさんみたいな深いため息が漏れた。
鏡台に映る自分の姿は、我ながら見惚れるほどの美少女だ。透き通るような白い肌、大きな紫水晶の瞳、長い睫毛。まさに「傾国の悪役令嬢」ってやつだ。だが、その完璧な美貌も、処刑運命を知っている俺にとっては、単なる死刑宣告のカウントダウンタイマーにしか見えなかった。
ゲームのシナリオ通りなら、アナスタシアはヒロインを虐め抜いた罪で、十八歳の誕生日に断頭台送り。今の俺は……確か十六歳。あと二年もない。
(冗談じゃない。あんな無様な死に方、二度とごめんだ)
前世の俺は、病気であっけなく死んだ。だが今度は、自分の手で運命をねじ伏せてやる。
そのためには……そうだ、俺にはアレがある。
ベッドから音もなく抜け出し、ひんやりとした石造りの廊下を素足で進む。この広大なシュタイナー公爵邸は、まるで迷宮のようだ。だが、アナスタシアの記憶と、俺自身の勘が、ある場所へと導いていた。
それは、父であるシュタイナー公爵でさえ存在を忘れかけているような、屋敷の最奥にある古い書庫。通称「禁書庫」。
「ここか……」
重々しい樫の扉には、何重にも埃が積もっている。鍵はかかっていない。まるで、俺が来るのを待っていたかのように。
軋む音を立てて扉を開くと、黴と古い紙の匂いがむわりと鼻をついた。薄暗い書庫の中、月明かりだけが頼りだ。
(あったはずだ。この世界の法則を歪めるほどの、禁断の知識が……)
アナスタシアの記憶の片隅に、朧げながら残っていた情報。それは、シュタイナー家が代々密かに受け継いできたという「曰く付きの古書」の存在。確か、錬金術に関するものだったはずだ。
俺は前世で人形師だった。ただの人形じゃない。まるで生きているかのような、魂が宿っているかのような人形を作ることに、生涯を捧げていた。もし、この世界の錬金術が、俺の知識と技術と結びつけば……あるいは。
棚から棚へと、背表紙を指でなぞっていく。どれもこれも難解そうな魔術書や歴史書ばかり。焦りが胸を締め付ける。
その時、ふと指先に、他とは違うざらりとした感触があった。
引き抜いたのは、黒革の表紙に不気味な銀のエンブレムが刻まれた、分厚い一冊の本。タイトルはない。
息を詰めてページをめくる。そこには、古びたインクで、見たこともない複雑な魔法陣や、この世のものとは思えない素材のリスト、そして――「魂ヲ器ニ封ジル秘法」という文字が、おどろおどろしく記されていた。
「……これだッ!」
思わず声が漏れた。全身の血が沸騰するような興奮。これさえあれば、あるいは。
俺は処刑を回避できるかもしれない。いや、それ以上のものを創り出せるかもしれない。
俺が追い求めてきた「究極の美」、魂を持つ人形を、この手で――!
その瞬間、俺の紫水晶の瞳の奥に、アナスタシアの美貌にはそぐわない、暗く、そして狂的な光が宿ったのを、俺自身は気づいていなかった。
***
それから数日、俺は寝食も忘れて禁書庫の古書を読み解き、同時に屋敷の地下にある、今は使われていない古い工房に籠もった。アナスタASIAの記憶では、ここは曾祖父が趣味で使っていた彫金工房だったらしい。好都合だ。
工房の作業台には、作りかけの少女型の人形が横たわっている。大きさは50センチほど。陶器のような滑らかな肌、亜麻色の髪はまだ仮留めだが、顔立ちは我ながら愛らしく仕上げたつもりだ。これは、俺がアナスタシアに転生してから、密かに製作していたものだ。まだ魂は入っていない、ただの美しい「モノ」。
(……だが、今夜、お前は生まれ変わる)
古書に記された秘法は、恐ろしく複雑で、危険なものだった。必要な素材も、普通の人間なら卒倒しそうなものばかり。幸い、シュタイナー公爵家の財力と、アナスタASIAの立場を利用すれば、いくつかは調達できた。あとは、俺の技術と……覚悟だけだ。
窓の外は、新月。闇が世界を支配する夜。これ以上ないほど、禁断の儀式にふさわしい。
工房に魔法陣を描き、燭台に妖しく揺れる炎を灯す。必要な素材を配置し、人形を魔法陣の中央に静かに寝かせた。
「始めようか」
アナスタシアの美しいソプラノではなく、低く、確信に満ちた青年の声が工房に響いた。
古書に記された呪文を詠唱する。一言紡ぐごとに、空気が重くなっていくのを感じる。体中の魔力……いや、魂そのものが吸い上げられていくような感覚。だが、不思議と不快感はなかった。むしろ、満たされていくような、倒錯した喜びさえ覚える。
どれくらいの時間が経っただろう。詠唱が最後のフレーズに差し掛かった時、魔法陣が淡い光を放ち始めた。光は人形に集束していく。
ドキリ、と心臓が大きく鳴った。成功するのか? それとも、禁忌に触れた罰として、俺はここで消滅するのか?
光が収まった。工房は、元の静寂を取り戻す。
ただ、先程までとは何かが決定的に違っていた。
魔法陣の中の人形。その胸が、ほんの僅かに、上下しているような気がした。
俺は息を殺して、人形に近づいた。
ガラス玉のようだった瞳に、まるで深淵を覗き込んだかのような、微かな光が宿っている。
そして――ゆっくりと、その小さな唇が動いた。
「……り、あ……さま……?」
か細く、掠れた、だが確かに「声」だった。
俺の名を呼んだ。
生まれたての雛鳥のような、純粋で、どこか心許ない響き。
俺は、言葉を失って、その場に立ち尽くした。
歓喜? 驚愕? それとも恐怖?
いや、そのどれもが混ざり合った、名状しがたい感情が胸の奥から突き上げてきた。
悪役令嬢アナスタシアの身体の中で、人形師だった青年の魂が、確かに震えた。
処刑運命なんて、クソくらえだ。
俺は生きる。そして、創り出す。
この小さな魂と共に、俺だけの「究極の美」を。
その美しき人形の瞳は、ただひたすらに俺を見つめていた。
これが、俺と、魂を持つ最初の人形「クララ」との、運命の始まりだった。