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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

戦禍の水底

作者: 影光

昔ピクシブで投稿した作品を転載しました。

『―――堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す・・・』




 真昼時の太陽が放つ強い日ざしが照り付ける中、僕たちは広場に置かれたラジオを通して伝えられたお言葉に耳を傾け、静かに涙を流していた。


 昭和二十年八月十五日。


 その日、戦争が終わった。



 昭和十六年十二月八日に行われた真珠湾攻撃に端を発したこの大戦によって、大日本帝国と米国をはじめとする各国合わせて3650万名を超える命が戦禍の炎によって燃え尽き、更に東京、廣島、長崎をはじめとする数多もの都市が灰燼へと姿を変えた。



ー昭和二十年三月九日 東京―


「待ってましたよ、うふふふ」

 高等学校の門前で黒髪を後ろに流した容姿端麗な少女が口元に手を当てながら微笑む。

「遅れてすまない、授業が思ったより長引いちゃって・・・」

 頭を掻きながら目の前の少女もとい想い人に対して謝る。

「それで、今日は・・・確か蓮ヶ池での写生だったか?」

「はい、戦火で失われる前に、是非ともこの目で見て絵に残したいのです」

 眼を見ながらはっきりとした口調で彼女は言葉を放つ。

 今年に入ってからというもの、米軍の攻撃は日を追うごとに激しさを増しており、皇都である東京でも空襲による被害は拡大の一途をたどっており、いつ街並みが消滅してもおかしくはない。

 軍部も対空砲や戦闘機、消防団の増設などの対策を行っているが、民間から鉄の供出を求めるほどまでに資源が困窮し、さらに絶対国防圏であるサイパン島の陥落や硫黄島への米軍の侵攻など敗戦の気配が色濃くなり始めている現在、果たしてどこまで攻撃を防げるのかは甚だ疑問である。


 二人で道中の故郷を歩きながらあたりを見渡す。

 前までは多くの人が行き交う活気のある街並みだったのが、ミッドウェーでの敗戦を契機に戦局は悪化し始め、それに伴い日を追うごとに徐々に街や人々は消沈し、今では老人や戦争で親や家族を亡くした孤児たちが虚ろな目でまばらに歩いている程度である。

「みんな…いなくなっちゃったな」

「そうですね・・・」

 変わり果てた故郷の姿に二人は足を止め、力なくつぶやく。上の年齢の男の人たちは軍に徴兵され生還する見込みのない戦地へと送られ、同年代の友人たちは空襲を避けるために家族と共に地方へ疎開した。

幼いころから通っていた駄菓子屋や玩具屋は閉店し、代わりに戸口には『贅沢は敵だ』『欲しがりません勝つまでは』などの合言葉が書かれた張り紙が所狭しと並べられている。

 路地に目をやると中年の軍官と警察幹部の監督の下、残った街の人々が防火訓練と称してバケツリレーを行っていた。

「上官殿、失礼ながらこのようなことをするよりも都民を避難させた方がはるかに良いのではないのでしょうか?」

「何を言うか!アメリカごときに東京の街を焼き払えるわけがなかろう!」

「しかし、アメリカの力は我々の想像をはるかに超えています。第一このような防火訓練ごときで果たして空襲の被害を抑えられるのでしょうか!?」

「貴様!そこに直れ、そのヘタレた根性を叩き直してくれるわ!」

 若い部下の言葉に中年の軍官が激高し、持っていた棒で彼を感情の赴くままに打擲する。

 その様子に二人はとっさに目をそらし、足早にその場を後にする。


「ねえ、どうしてあなたはここから逃げないの?」

 彼女が僕に向かって静かに話しかける。

「僕にはここしか居場所がないからね。親父がサイパンで斃れてから、僕には家族はもういないし、疎開したところで僕たちはよそ者扱いだろうしね。疎開先に知り合いがいればいいんだろうけどそんな保証はどこにもないし、暮らす場所が違えば生活や環境、風習すべてが違うからな。」

「ッ!ごめんなさい」

 彼のつらい境遇を思い出させてしまったことに気が付き、口に両手を当てて慌てた表情で少女が言葉を漏らす。

「いや、いいんだ。僕に限ったことではないからね」

 眼を閉じて首を振り、彼女に優しく言葉を伝える。

「ところで、君の方こそ疎開はしないのか?僕と違って家族もいるし」

「それなのですが…」

 困惑した表情で彼女は言葉を絞り出すように続ける。

「実は、明日の朝に親戚の伝を頼って家族全員で疎開する予定なのです。最近は空襲も激しくなっていますから大事になる前に避難しようと」

「そうなのか・・・」

「本当はあなたも一緒に連れて行きたかったのですが・・・私の家にも親戚にもたくわえが少なくて・・・ごめんなさい」

 震える手で胸を押さえながら彼女は言葉を絞り出す。その表情には僕に対する罪悪感と後悔の色に染まっていた。

「いや、いいんだ。とにかく生き延びてくれ」

「はい・・・」

 少女が静かに呟くと同時にお互いの全身が寂寥感に包まれる。思えば今までお互いの親やその家族たちには長い間いろいろとお世話になった。

 疎開でお互いに会えなくなるのは寂しいが、それも戦争さえ終われば再び会うことができる。例え日本が敗れたとしても、生きてさえいればすべてとは言わずともいつかは元通りには戻せるはずだ。

 そんな儚い期待を抱きながら、二人は再び目的地へと歩みを進める。




 蓮ヶ池へと続く山中を静かに歩く。相次ぐ空襲や疎開によって生気が失われつつある街とは違い、雪解けが進み、草花や木の芽が現れ始めるなど、ところかしこに生命が満ちつつあった。


「あなたは…この戦争についてどう思うの?」

 何の前触れもなしに彼女がこちらに質問をする。

「そうだな・・・・」

 辺りに人影がないことを確認しつつゆっくりと口を開く。

「正直、この戦争が正しかったのか、今はもう分からない。快進撃を続けていた最初は僕も、そして親父や周りの人たちも戦争を支持していた。でもミッドウェーで敗れてからは日を追うごとに国力は衰え、生活は困窮し、ついには親父も僕のもとから去っていった・・・。軍部の人たちは『日本には神の加護がある。絶対に敗れることはない』と言っていたけど、民間からはおろか、お寺の釣り鐘や挙句には上野の大佛様の胴体さえも戦争継続のための資源として徴収するような者たちに果たして加護があるかどうか・・・」

 眼を閉じて、静かに戦争への思いを語る。

 このまま戦争を継続したとして、果たして祖国に勝ち目はあるのか?戦争が終わるまで、あとどれくらいの人が犠牲になるのか?戦争が終結したとして果たして祖国や僕たちに未来はあるのか?

 どうしても拭いきれない一抹の不安と焦燥が胸中に宿る。



「相も変わらず、ここだけは静かですね」

 目の前の風景を双眸に収めながら彼女はつぶやく。周囲は雪解けによって土がぬかるみ始め、蓮ヶ池の水面は鮮やかな赤い空を静かに映すだけで波紋一つすらなく、見上げれば遠くからやってきた雁が己の帰りを待つものがいるであろう巣を目指し山稜へと溶けてゆく。

 日を追うごとに戦禍の傷跡が広がってゆく東京の街とは違い、まるで別世界のように穏やかな時が静かにゆっくりと流れていた。


 少女の持つ筆が静かに進んでゆく。今や贅沢品となった、古びた鉄製の絵筆を巧みに操りながら僅かにしわのある画用紙が瞬く間に鮮やかな色に染まる。

「その筆、まだ持っていたんだ」

 写生がひと段落ついたところで彼女に言葉を投げかける。

「この時勢では貴重品ですからね。それに、子供の時にあなたから貰った大切な絵筆ですし」

 感慨深そうに絵筆を見つめながら少女が静かに呟く。

 

 鋭いまなざしで画用紙を睨みながら再び筆を進める彼女を背に、後ろにある洞窟に目を向ける。

 『蓮ヶ池防空壕』そう名付けられた洞窟の入り口をマッチでカンテラに火をともしながらゆっくりと進む。

 中は無人で物資は何もなく、そればかりか人が立ち入った形跡すらない。

 洞窟もとい防空壕の床はわずかに傾斜があるのか入り口から流れ込んだ雪解け水によってひどく濡れており、ひとたび雨が降れば壕内がびしょ濡れになることが容易に想像できる。

 

―――よほどのことがない限りここには逃げない方がいいな。


 薄暗い壕を見渡しながらそう考える。

 もしここに逃げ込もうものなら数日ともしないうちに持ち込んだ食糧が底を尽き、寒さや飢えなどの苦痛に襲われるだろう。

 一応、街からは遠く離れた山中にあるので空襲に遭う可能性は限りなく低く、木の実や虫を取って食べることでかろうじて命をつなぐことは可能だろうが、一度でも大雨や台風などの災害やそれによって起きた土砂崩れに見舞われれば木の実などの食料は流されて飢え、場合によっては防空壕そのものが土砂によって埋没するという最悪の状況に陥る可能性すらある。


 急に寒気がし、何かから逃げるように防空壕を出ると同時に彼女がこちらに振り向き思わず目が合う。

 「えっと・・・絵はできたのか?」

 幼いころからの想い人と目が合ったことに頬をわずかに赤らませながら言葉を投げかける。

「ええ、とっても素敵な絵が描けましたわ」

 うれしそうな顔でそういいながら完成したばかりの絵を僕に見せる。とても繊細な色遣いで描かれたその風景はとても戦時中の世界とは思えないくらい美しく、切なかった。


「今日はありがとう、最後まで付き合ってくれて」

 手を後ろに回し、笑顔で彼女が話す。

「明日をもしれない世の中だからな・・・最後に君と一緒に時間が過ごせてよかったよ」

「私もよ、本当に・・・ありがとう」

 互いに感謝しあい、明日の別れを惜しむかのように見つめ合う。その目はわずかに涙でぬれていた。

 

「すっかり暗くなってしまいましたね」

 陽が落ち、吸い込まれそうな漆黒に染まりきった空を見上げながら少女が呟く。

「暗い夜道を歩くのは危険だ、防空壕で夜明けを待とう」

 そういってカンテラの明かりで足元を照らしながら防空壕の奥へと歩を進める。

 幸いというべきか、防空壕内は途中で上り坂になっており、奥までは雪解け水は行き届いてはいなかった。




 ・・・防空壕の奥で彼女と共に夜明けを待ってからどれくらいの時間がたっただろうか?

 辺りはより一層静寂を増し、洞窟内には雪解け水が流れ込む音がただただ響く。

 カンテラの火は油が切れかけたことにより消えかかっており、徐々に弱くなりつつある光が隣で寝ている少女の寝顔を儚く照らす。


―――僕もそろそろ寝るかな。


 そう思いカンテラの火を消そうとした刹那、にわかに洞窟の外が騒がしくなる。

 遠くの空から聞こえてきたその音は徐々に大きくなり、雪解け水の流れこむ音がただ響くだけだった洞窟を満たしていく。

「・・・何?この音」

 先ほどまで寝息を立てていた彼女もさすがにこの異常な音に気が付き、不安に満ちた顔をしながらゆっくりと起き上がる。


 この音、空襲警報に似ている・・・


 急速に増幅される不安と胸騒ぎにうろたえながらも明かりの消えかけたカンテラに油を注ぎ、二人で静かに洞窟を出る。刹那、二人の視界に不気味なほどに赤く染まった東京の空が映る。

「なんだ・・・これは・・・」

 とっさに懐中時計を見て時刻を確認する。

 零時十八分。夜明けにはあまりにも早すぎる時間だ。


 時間がたつにつれて空はより明るく、より紅く染め上げられていく。昼間のように明るく照らされた空をよく見ると米軍のB-29と思しき航空機がおびただしい数の群れで『何か』を大量に投下しながら東京の空を縦横無尽に飛び回り、地上では巨大な赤い龍が飛翔しているのかと見まごうほどの火災旋風が自分たちの故郷を何のためらいもなく蹂躙していた。

「うそ・・・でしょ・・・」

 想像すらしたくない、目の前で起きている事態に少女はそれ以上の言葉を失い、膝から崩れ落ちる。






 昭和二十年三月十日午前零時八分。


 その時、東京は煉獄に包まれた。


 静寂に包まれ、街に暮らす都民全員が寝静まった東京の夜空に突如としてB-29の爆音が鳴り響く。

 深川区、本所区、浅草区、日本橋区への初弾が投下されたのを皮切りに東京の街が紅蓮に包まれ、阿鼻叫喚の地獄と化す。

「空襲だ!逃げろー!」

「国民学校へ逃げるんだ!コンクリート製の建物なら大丈夫なはずだ!」

「荷物は置いていけ!命を優先するんだ!」

 大人や子供、足腰の弱い老人、幼い子供を背負った母親、まだ見ぬわが子を身ごもった妊婦・・・

 大勢の都民が着の身着のまま、空襲から助かるべく安全な場所を求めておぼつかない足取りで深夜の東京の街を必死に逃げ回る。

 暴風のような風切り音と共におびただしい数の焼夷弾が天より降り注ぎ、瞬く間に漆黒に染まっていたはずの東京の街を紅に塗りつぶしてゆく。


「ここに防空壕がある、早く避難するんだ!」

 一人の中年の男が地に開けられた穴を指を差しながら叫び、それに気づいた人々がそれに向かって殺到する。

「もう満員だ!みんなはどこか安全な場所に逃げてくれ!」

 中年の男がそう叫び木製の扉を閉めた刹那、一発の焼夷弾が防空壕の入り口の扉を貫き炸裂。壕の入り口から爆炎が吹き上がり、直後に炎にまかれた中年の男が飛び出し、しばし地をのたうち回った後にピクリとも動かなくなる。

「熱い!」

「助けてくれ!」

 壕内から耳をふさぎたくなるような大勢の避難民から発せられた苦悶の声が響く。しかし入り口から吹き上がり続ける烈火に周囲の人は近寄る事すらできず、しばらくして壕内は沈黙する。

 

 決してこれは彼らが特別不運だったわけではない。


 この日、東京の街に投下された焼夷弾の数は40万発近くにのぼり、そのうちのたった一発が命中した.。


 ただそれだけのことである。


 また、それだけでなく東京の街に設置されたいくつかの防空壕では焼夷弾によって出入り口がふさがれ、そこから発せられた熱と煙によって窒息ないし蒸し焼きになる人々が続出した。


「みろ、この景色を!これでもあんたは防火訓練が役に立つというのか!?」

 庁舎の一室で若い軍官が紅に染まる街を右手で指さしながら目の前の上官と警察幹部に激高する。

 彼らが当てにしていた消防システムは空襲が始まってわずか三十分で機能不全に陥り、二人は眼前になす術もなく広がってゆく煉獄によって塗りつぶされる東京の街に言葉を失い慌てふためき、逃げる様に退室する。

「ふざけるな・・・ふざけるな!」

 救えたはずの目の前で失われてゆく大量の命と、この惨状に何かをするでもなく逃げ去った上官達の姿に怒りがこみ上げ、机を何度もたたき若い軍官が叫ぶ。

 しかしその叫びもむなしく、いまもなお彼の目の前で守るべき大勢の人々の生命がとめどなく投下される焼夷弾によって消されてゆく。


 多くの商店街がならぶ主通りを大勢の男女が悲鳴をとどろかせながら逃げ惑う。

 すぐ後ろには深夜の空を昼間のように照らさんばかりに燃え盛る炎が迫っていた。

「おい!何やってるんだ、早く荷車をどかせ!」

「これはうちの財産なんだ!これを置いて逃げられるか!」

 主通りの先で大量の商売道具を積んだ荷車と恰幅の良い老人が道を塞ぎ、大勢の避難民の足が止まる。

 それに人々が激高し老人と荷車を排除しようと彼に襲い掛かり、絶叫する。

「ふざけるな、そんなもんいいからさっさとそこをど――――――」

 刹那、彼らの頭上をBー29が縦一列に飛び、無慈悲に大量の焼夷弾を投下してゆく。

 投下された焼夷弾は空中で炸裂、とっさに空を見上げた人々の顔を焼夷弾の破片が穿ち、中に入れられたガソリンと放たれた炎が人々でごった返した主通りを一瞬で焼き尽くす。 


「おかあさん、おかあさん!どこ、どこにいるの!?」

 焼け落ちる家屋を横目に人々が逃げる中、一人の少年が木製の機関車のおもちゃを片手に母親を探して彷徨う。

 一方で母親も少年と少し離れた位置で我が子を探して叫ぶ。しかしその声は逃げ惑う人々の声と次々と崩れて行く建物の音にかき消され届かない。

「坊や、ここは危ない、早くにげないと!」

 一人の若い女性が少年に声をかけ避難を促す。

「でも、お母さんが・・・」

「大丈夫、お母さんは既に安全な場所にいるから、ね。お姉さんと一緒に逃げましょう」

 そう優しく声をかけると少年は静かにうなずく。

 直後、焼夷弾が少し離れたところで着弾し衝撃と共に二人がわずかばかり飛ばされる。

「大丈夫!?けがはない!?」

「うん、でもおかあさんから買ってもらったおもちゃが・・・」

「そんなのは後でいくらでもお母さんが買ってくれるわ。さ、はやく」

 少年と若い女性が去り、しばらくして少年の母親がやってくる。

「これは・・・あの子の…!」

 地面に落ちている壊れた木製の機関車をみて彼女は動揺する。

 震える手で我が子のおもちゃを拾い辺りを見回す。が、見えるのは焼け落ちる家屋と大人たちの骸ばかりで我が子と思しき子供の死体はどこにも見当たらない。

「あの子なら大丈夫、きっと大丈夫・・・」

 自分に言い聞かせるようにつぶやくと静かに立ち上がり、周囲の人たちと同じように避難をはじめる。


「隅田川を渡るんだ!はやく!」

 消防団の男が焼ける家屋の屋根に立ちながら避難民に対して言葉を放つ。

「ここから隅田川に近い橋といえば…言問橋だ!」

 群衆の中の一人の男が叫び、それに誘導されるように全員が脱出路を求めて言問橋へと向かう。

 直後に家屋が焼け崩れて消防団の男が墜落するも、それを気に留める者は誰一人としていなかった。


「高射砲、撃て!」

 軍官が指揮棒を振り下ろし、言葉を放つと同時に空に向かって次々と砲撃が行われる。

 この日の東京の空を護っていた主力高射砲は八十八式七センチ野戦高射砲と九十九式八センチ高射砲の二種類。この二つの砲はそれぞれ最大射角9,100m、10000mであり、本来ならば高度8000m以上の高高度で任務を遂行するB-29相手には力不足ではあったが、この時は空爆の命中率を上げるために高度1500mから2400mで飛行しており、その機体をとらえることが容易になっていた。

「一機撃墜!」

 空中で爆発四散する敵機の姿にわずかながらに兵士たちから歓声が響くが、相手の数は300を優に超えており、また空襲への対応が完全に遅れたこともあって何一つとして状況は変わらない。

「弾が尽きた!誰か、弾をくれ!」

 装填手が弾切れに気付き、声をとどろかせて予備弾薬を求める。しかし願い空しく運送用のトラックは爆撃によってすべてが破壊されており、人力で運ぼうにも補給路は既に炎と瓦礫によって遮断されていた。

「だめです、弾薬の補給ができません!これ以上は…撃てません!」

 声を絞り出してほかの兵士が上官に最悪の事態を伝える。

「・・・仕方ない、総員近くの防空壕に退避!」

 唇をかみしめながら上官が指示を下すと同時に生き残った兵士が付近の防空壕に退避する。

 直後、高射砲陣地である代々木公園に大量の焼夷弾が炸裂し、猛火に包まれる。

 

「おい、そこをどいてくれ!橋を渡らせてくれ!」

 言問橋の上で大勢の人々がひしめき合いながら叫ぶ。

 浅草方面の人々が対岸へ逃げ場を求めて言問橋を渡ろうと殺到し、対岸の向島・本所区の人々も同じく浅草方面へ逃げ場を求めて殺到。両者が橋の中央でぶつかり合い、進むことも引くこともできない状態となっていた。

「もう駄目だ、川へ飛び込め!」

 容赦なく迫る火の手に恐怖した人々が欄干を乗り越え隅田川へと飛び降りる。

 直後に焼夷弾や火災旋風が橋の両端に襲い掛かり、人伝ってたちまちのうちに引火してゆく。

 燃え盛る橋から逃げるように次々と人々が隅田川へ飛び降りるも、3月初旬の冷たい川によって瞬く間に体温を奪われ、冷たい骸と化す。

 たとえ凍死を免れても水面に浮かんだ、焼夷弾に内蔵されたガソリンなどの油によって引火し数多もの命が悲鳴と共に焼き尽くされてゆく。

 

 やがて空襲は止み、空は再び静寂を取り戻す。

 人々は安堵し、被害の受けていない中央部へとぞろぞろと集まっていった。






 


 しかし、それは新たなる殺戮劇の始まりに過ぎなかった・・・

 


 人々が集まり、安堵していたところを再び大量の爆撃機が轟音と共に襲来、大量の焼夷弾を家や家族を失った人々の頭上に投下し、炎によって昼間のように明るくなった区域にいる人々をまるで狩りでもするかのように搭載された機関銃で冷徹に薙ぎ払ってゆく。

 さらにこれだけでは終わらず、国民学校、庁舎など鉄筋コンクリートでできた、大勢の人々が避難しているであろう施設にも爆撃を加えた。

 それらの建物は瞬く間に燃え上がり、さながらプラスチックのおもちゃのように大勢の避難民と共に炎の中へと溶けていった。


 防空壕に閉じ込められ窒息する者、緩やかな死を良しとせずにガラス片で自らの喉を切り裂く者、我が子をかばって建物の崩落に巻き込まれる者、米兵への恨みを口にしながら焼死する者、家族で抱き合って励まし合いながら業火に包まれる者…


 東京の街はありとあらゆる死で埋め尽くされていった。





―――三月十日午前九時 東京 下町跡


「なんだよ・・・これ・・・」

 目の前に広がる光景に僕たち二人は青ざめ、言葉を失う。

 自分たちが長い時を過ごしてきた街は建物ひとつ残らず灰燼と化し、いたるところに『人の型をした炭』が転がっていた。

「うう・・・水を…水をくれ…」

 足元から呻き声が聞こえ、立ち止まって声の主へ顔をむけ、言葉を失う。

 その顔は男女の区別がつかないほどに完全に焼けただれ、全身血まみれになりながらはいずり、残った右手を軸に上半身を起こそうとしていた。

「すまない、水は…持っていないんだ」

 その答えを聞くとその人はわずかにうめいた後、落ちていたガラス片を震える手でつかみ、自らの喉笛を一切の躊躇なく裂く。

 眼の前で無残にも消えた命に彼女はとっさに目を閉じ、しばし硬直する。

「大丈夫か!?」

「・・・うん…大丈夫…ありがとう」 

 憔悴した様子の彼女を気にかけながら、故郷だった場所を重い足取りで歩く。

 いたるところから発せられる脳髄まで突き刺さるような異臭に鼻を抑えながら、何とかこらえる。

「あんたら…無事だったのか!?」

 防災頭巾をかぶった見知った老婆がこちらを見るや否や駆け寄る。

「ああ、たまたま蓮ヶ池にいて助かった。それよりも聞かせてくれ、一体何が起こったんだ!?」

「アメリカが…街を焼き払いおった…」

 震える声で老婆は街が壊滅したいきさつを説明する。


 深夜に大量のB-29が襲来してきて街におびただしい量の焼夷弾を投下していったこと。

 

 始めに街の外周を焼き払い、被害のない中央部に人々が移動した時を見計らって再び空襲、殲滅したこと。


 国民学校を始めとする民間人の避難場所でさえも容赦なく焼き尽くし、そこに逃げ込んだ大勢の人々が窒息ないし蒸し焼きにされたこと。


「そんなことって・・・」

 老婆から聞かされた米軍による非人道な内容に彼女は両手で口を押さえて絶句する。

「そんなの・・・戦争じゃない!ただの虐殺だ!」

 激高し、老婆に向かって言葉を放つ。老婆はうつむき、何も言わずに静かに背を向けて去ってゆく。


 彼女と共に再び廃墟の街をあるく。

 道中には親子とみられる焼死体が転がっており、子を背負って逃げていたのか母親と思しき者の背中は焦げていなかった。

 焼失を免れた公園に目をやると火葬が間に合わないのか、埋葬するための大穴が掘られ、そのそばには多くの遺体が一列に並べられており、近くを流れる川では水死者の引き揚げ作業が続けられていた。


 歩けども歩けども広がり続ける残酷な光景に二人とも吐き気を催すが何とかこらえ、実家があった場所を目指す。


「嫌・・・私の家が…家族が…」

 視界に映る変わり果てた住処に少女は動揺し、慌てて駆ける。中にあった財物はすべて燃え尽きており、家族たちが避難しているはずの庭の防空壕からは強烈な異臭が放たれる。

「お父さん…お母さん…みんな…いなくなっちゃった・・・はは・・あははは・・・」

 虚ろな瞳で乾いた笑い声をあげながら、少女は膝から崩れ落ちる。

 目の前の残酷な光景に心が完全に壊れ、変わり果てた彼女の姿に静かに強く目を閉じ顔をそらす。





 その一か月後、家も家族も失った僕は死に場所を求めて軍に志願し、基地へと配属された。一方彼女は生き残った人々とわずかな物資と食料と共に空襲が来ないであろう蓮ヶ池の洞窟もとい防空壕に避難した。





 三月十日の東京大空襲では8万を超える人命が失われ、26万を超える家屋が焼かれた。


 しかしこれは始まりにすぎず、翌月の四月十三日、そのまた翌月の五月二十四日、二十五日に総仕上げとして爆撃が行われ、東京市街地の半分以上が焼き払われた。


 また惨劇は東京だけにとどまらず名古屋、大阪、京都、神戸、横浜などの大都市にも及び、それらを破壊したのちは地方の小、中都市にも空爆や艦砲射撃が開始された。


 さらに東京大空襲から十六日後の三月二十六日に硫黄島が陥落し、同日に沖縄地上戦が勃発。


 四月七日には沖縄へ向かった戦艦大和が坊の岬でアメリカ軍の猛攻撃によって撃破され、帝国の誇りと共に冷たい海の底へと沈んでいった。


 四月三十日には同盟国であるドイツ帝国の総統が自決し、翌五月初旬に連合国に降伏。これにより第二次世界大戦は大日本帝国と全世界が対峙する構図になる。


 そして六月二十三日に沖縄守備隊の壊滅をもって沖縄における日本軍の組織的な戦闘が終了し、これにより連合軍は日本本土への上陸を目指すこととなる。


 七月になるころには国内の石油在庫はほぼ底をつき、七月二十六日には米英中の各首相の名において日本政府に降伏を求めるポツダム宣言が発表されるも帝国はこれを黙殺。


 この対応を受けて連合国は八月六日に廣島、九日に長崎に原子爆弾を投下し数十万名もの人々が都市とともに消滅。


 さらに追い打ちをかけるように八日にソ連が日ソ中立条約を破棄し宣戦布告。同盟国の満州国へと侵攻を開始する。


 そしてついに八月十四日に日本政府はポツダム宣言を受諾。翌十五日の玉音放送の実施をもって全国民に敗戦が伝えられた。


 その後、翌十六日に日本軍全部隊に対して戦闘行為の停止を命令。占守島など一部の地域では自衛を目的とした小規模な戦闘が行われたが程なくして武装解除された。


 翌月九月二日。東京湾に停泊した戦艦ミズーリの甲板上で各国の代表が見守る中で降伏文書に調印され、ここに六年にわたって行われた第二次世界大戦、そして太平洋戦争は終結した。




 軍の上官から『永久休暇』を与えられた僕は、彼女が避難しているであろう蓮ヶ池の防空壕へと続く道を息を切らしながら走り抜ける。

 『戦争が終わった、これからは安心して一緒に暮らせる。』そう伝えるために焼け焦げた森の中をただひたすら走る。

 蓮ヶ池の防空壕の入り口が視界に入り、しばし足を止めて呼吸を整え、ギラギラと照らす太陽を背にしながら防空壕の入り口に体を近づける。その時だった。


「ッ!なんだ、この臭いは…!?」

 防空壕もとい洞窟から放たれる強烈な異臭に思わずむせ返り、鼻を抑える。

 同時に言いようのない不安と焦りが体中を支配し、何かに突き動かされるようにその正体を確かめるべく足を進める。

 洞窟内は雨にでも降られたのか水浸しになっており、自分の足音が静かに響くだけで生命の気配は微塵も感じられない。

 不意に、足にやわらかい何かが当たり、それを確認しようと目線を下に向け、言葉を失う。

 そこにあったのはやせ細り、穏やかな顔のまま冷たい骸と化した・・・彼女だった。

 

「うそ・・・だろ・・・!?」

 少女の亡骸を抱きかかえながら、悲鳴にも似た声でしきりに彼女の名前を呼ぶ。

 しかしそれに対する反応はなく、ただ彼の声だけが洞窟内に空しく響く。

 ふと、そばに落ちていた濡れた日記帳に目が行く。そこには彼女がここに避難してからのことが淡々と、無機質に記録されていた。

 

 三月一三日。街の生き残りと一緒に蓮ヶ池防空壕へ避難した。

 三月二十七日。食料を集めるために狩りに行くことになった。

 四月十四日。わずかな食料をめぐって大人たちが喧嘩した。

 五月二日。カエルが一匹やってきたのでみんなで分け合って食べた。

 

 一部が濡れて読めなくなっているものの、日を追うごとに洞窟内の生活は困窮し、また以前見せてもらった色彩豊かな風景画とは違い最低限の内容しかない日記の書き方から彼女はすでに心を失っていたことがうかがい知れる。

 さらにページをめくり、日付を進める。日を追うごとに日記の内容は陰鬱なものになり、そして最後にはこう書かれていた。

 

 ―――ここに来た人たちはみんな飢えて死んでいった。お父さんもおかあさんも弟たちも、私にはもういない。このまま飢えて苦しんで死ぬくらいならば、私は自らの手で、私の生に幕を引く。


 最後に書かれた日付は八月十四日。国民に終戦が伝えられた前日。

 

 全身の力が抜け、手から日記帳が零れ落ちる。同時に『青酸カリ』と書かれた瓶が彼女の手から小さな音を立てて転がる。


 あと一日・・・・あと一日さえ生きていれば、共に終戦を迎えられたのに・・・・・!


 どうしようもない悔しさがこみ上げ、慟哭する。


 しばらくして彼女の遺骸を抱きかかえ、洞窟を後にする。みると空には焼き場からと思しき煙が昇り、そこへ別れ烏らしき小さな黒い鳥が飛ぶ。

 

 ・・・空襲の炎で家族を失ったこの子を焼くのは…残酷だよな。


 そう考え、池に向かって進む。

 

 池はあの時のように静かで波紋一つなく、たくさんの蓮の花がまるで戦争の犠牲者を弔うかのように咲き誇っていた。

 池のほとりに彼女の遺骸を静かに降ろし、手を合わせて冥福を祈る。

「君とは…もっと平和な時代で出会いたかった・・・」

 彼女の乱れた髪や衣服を整え、亡骸を両腕で持ち上げ、静かに池に沈める。


 これで、僕は完全に一人ぼっち・・・か。


 脱力し、空を見上げる。相も変わらず焼き場の煙がとめどなく立ち上り、それはまるで大勢の死者の魂が空へと還って行くかのようにみえた。


 ―――現代 東京―――


「今日で終戦から七十六年を迎え、このあと日本武道館で政府主催による戦没者への追悼式典が行われます」

 祖父を車に乗せ、ラジオを聞きながら蓮ヶ池へと向かう。祖父の話によるとそこにはかつての想い人が眠っており、毎年この日になるとその子が好きだった一輪のひまわりの花をもって祈りをささげるそうだ。

「なあ、じいちゃん。その想い人ってどんな子だったんだ?」

「とても美人で素敵な子だったよ。ああ・・早く会いたい」

―――それは・・・どっちの意味での『会いたい』なんだ?

 その時、ラジオの内容が切り替わり速報が流れる。

「速報です。先ほど蓮ヶ池で身元不明の白骨死体が発見されました。警察の調べによりますと死後七十年以上が経過しており…」

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