内弁慶な王子が婚約破棄を申し出て来ました。ーはい、喜んで。
わたし、メリッサ・バイオレットは、王国でも名のある公爵家の一人娘だ。父は中央官僚をまとめあげる重鎮で、母は大賢者の出身とあって、幼い頃から「将来は立派な王の支えになる女性になるのだ」と仕込まれてきた。そんなわたしには、王太子であるエドアルド殿下との婚約が取り決められている。世間の目には「品行方正な王子と才色兼備の貴婦人」の絵に描いたような理想の婚約者同士――ということになっているけれど、じつはわたしがその笑顔を信じられたことは一度もない。
なにしろ、殿下は公衆の面前ではこの上なく優しく穏やかで、貴婦人方からの評判もかなり高い。その一方、わたしの家に足を踏み入れた瞬間、彼は誰も見ていないと確信するや否や、わたしを軽んじるように舌打ちをし、命令口調で何かと無理難題を言いつけてくるのだ。ごく最近などは、ちょっとした会食の席で「酒が足りないからすぐ用意しろ」「この料理の味が気に入らないから変えろ」などと執事でも呼びつけるような調子だった。
「……殿下、今は客人もいらっしゃいますし、そうしたことは専属の給仕にお任せくださいませ」 「黙れ。お前は将来、王宮の切り盛りをする立場だろう。ならば自分が動くのが当然だ」
わたしにしか分からない小さな声で不機嫌を撒き散らす殿下に、周囲が気づく様子は一向にない。むしろ遠巻きで見守る令嬢たちは「お優しい殿下とおとなしく控えめなバイオレット嬢」としか認識しておらず、その勘違いが大きくなるたびに、わたしの憂鬱は増していくばかりだった。
そんな生活が一年ほど続いたある日のこと。珍しくわたしが王宮に呼び出され、婚約者として公務に同席するよう求められた。王宮のホールには既に多くの貴族が集まっていたが、エドアルド殿下はいつものようににこやかに出迎えてくれる。
「今日はよく来てくれたね、メリッサ。君がいると華やかになるよ」 「ありがとうございます、殿下」
この場にいる大半の者は、にこやかに声を掛け合うわたしたちを見て「なんと絵になる二人なのだろう」と感心しているようだ。だが、わたしは内心で深い溜息をついていた。おそらく、あとで二人きりになったときにはまた、あれこれ命令されるに違いない。すでにそれを覚悟して臨んでいると、思いがけない一言が殿下の口から飛び出した。
「――実は今日、重大な発表をしようと思うんだ。僕とメリッサのことについてね」
すると、周囲の貴族たちがどよめきを見せる。まさかここで正式な結婚の日取りが告げられるのだろうか。それは正直、わたしにとって喜びでもなんでもないが、この国の体面を考えれば受け入れるしかあるまい。そう思った矢先、殿下はゆっくりとわたしの方を振り向き、晴れやかな表情で言った。
「皆様にお知らせいたします。わたくしエドアルドは、本日をもってメリッサ・バイオレットとの婚約を解消いたします」
まるで祝福の言葉でも告げるように、にこやかに語られたその宣言。わたしは一瞬、聞き間違いかと思った。ホールのあちこちから驚きの声が上がるが、殿下は悠然と続ける。
「理由は、彼女との性格の不一致、および他にふさわしい相手を見つけたからです。わたくしはこの国を担う王となる身。国民から慕われる妃を選ばねばならないと考え直したのです」
その言葉を受け、わたしはようやく自分が置かれた状況を理解した。――殿下がわたしを公衆の面前で振ろうとしているのだ。それも、まるでわたしに非があるかのような口ぶりを使って。
「エドアルド殿下。わたくしからは、何も言わせていただくことはございません」
そう告げると、周囲の視線が一気にわたしへ集中する。驚き、困惑、そして一部の人間は「どんな抗議の言葉を放つのか」と身構えているようだ。だが、わたしはむしろ落ち着いた心持ちで、口を開いた。
「わたしは、本件を承諾いたします」
あまりにあっさりとした返事に、ホールが水を打ったように静まり返る。婚約破棄を申し渡された貴婦人なら、その場で取り乱し、事態を覆そうとするのが普通だろう。しかし、殿下の家での態度を知るわたしは「いずれこうなるだろう」とどこかで予感していた。恥をかかせるような形になるのは想定外だったが、これほど露骨に宣言してくれるなら、かえって後腐れもない。
「え……?」 「このお話は、受けさせていただきます」
殿下自身も、まさかこんなあっさり承諾されるとは思っていなかったのか、目を丸くしている。周囲の貴族たちも、突然のわたしの言葉にざわめいているが、それを気にかける余裕すらない。わたしは深々と殿下に一礼して言った。
「今までのご縁に感謝いたします。どうか、殿下の望む未来を得られますように」
それだけを言い残し、そそくさと退出しようとしたところ、殿下の背後に控えていたリリアナという名の伯爵令嬢がすっと前に進み出た。以前から、わたしに向ける視線が微妙に嫌味混じりだった女性だ。
「これで殿下も晴れて自由の身。堂々と他の方に目を向けられますわ。ああ、メリッサ様も良かったですね。つり合わない婚約相手では、いずれ苦労するだけでしたものね」
リリアナはわざとらしく扇子で口元を覆うと、勝ち誇ったかのように笑う。彼女の意図は明らかで、殿下との次の婚約者は自分こそがふさわしいと言わんばかりだ。わたしは冷静に微笑み返した。
「仰るとおりです。わたしには、貴女とは違う道がありますので。……では失礼いたします」
この言葉が伏線になるのかどうかは、自分でも分からなかった。ただ、わたしはその瞬間、奇妙に解放感を抱いたのだ。明日からもう、あの家で殿下から怒りをぶつけられたり、理不尽な命令を受けたりしなくていいのだと。
◇
婚約破棄宣言から数日後。大半の貴族たちにとっては衝撃的だったらしく、噂話が宮廷のあちこちで飛び交っているようだった。わたしも公爵家の娘として人目につく立場ではあるが、これまで王太子妃になるという重圧があっただけに、急な解放に胸が軽くなっている。
そんなある日、父から改めて王宮に出仕するように命じられた。かねてより貴族同士の連絡や書簡の管理をしている部署に顔を出してほしいという話だ。わたしは小さく息を整え、久々に公務の席へと足を運ぶ。そこには、伯爵家の息子であるアレクシスが待ち受けていた。彼は幼少期に少しだけ顔を合わせたことがあり、大人になってからはわたしが書簡の手違いを正したことで知り合いになった人物だ。
「メリッサ様、ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです」 「ええ。あなたの方は、いかがお過ごし?」
アレクシスは笑みを浮かべると、わたしに低く一礼しながら声をひそめた。
「実は、前々から一度お礼を申し上げたかったのです。わたしの家の書簡が原因で、危うく裁定が遅れかけた事件がありましたでしょう。あのとき、メリッサ様が期日通りに取り計らってくださったおかげで、わたしどもは不利益を被らずにすみました」 「そんなこと、わたしはただ当然の職務を果たしただけよ」
事務処理の遅れが重大な問題になりかけていたところを、わたしが父の手伝いで調整したのがきっかけだと聞いている。大事にならなかったのは父とわたしの働きがあったからだ、とアレクシスの伯爵家は恩に感じているらしい。わたしが婚約破棄になってから、なぜ今この話をするのだろう……と不思議に思っていると、アレクシスはさらに続けた。
「わたしは、ずっとあなたが王太子妃になるものだと思っていました。それゆえ、余計な気持ちを抱くことさえ憚られたのですが……今なら、言ってもいいでしょうか?」
アレクシスの真剣な眼差しに、わたしは息を呑む。彼はわずかに笑みを揺らしながら、しかし瞳には熱を帯びていて、真摯に言葉を告げる。
「あなたが王太子妃の立場を退いたと聞いて、大変驚きました。そして、もし今後あなたが新たな生き方を模索されるのなら、わたしはあなたに協力を惜しみません」
要領を得ない、というほどでもない。――つまりは、わたしに興味を抱いているということだ。わたしは面映ゆい思いで、少し視線を落として言った。
「ありがとう。正直に言うと、まだ何も決めていないんです。ただ、これから先は、わたし自身が本当に望む道を歩いていこうと思います」
そう答えると、アレクシスは笑顔を深めてうなずいた。その笑顔が、わたしの胸の奥をそっと温めてくれる。同時に、わたしの脳裏には複雑な思いが走った。――これまで婚約者として仕えてきた殿下と、まったく違う雰囲気を持つ優しい人が目の前にいる。その対比は、わたしにとって皮肉でもあり、救いでもあった。
◇
わたしはそれからも公爵家の娘として、父の仕事を少しずつ引き継ぎはじめた。主に、貴族間の交渉文書や儀式の準備など、王宮内で立ち回るのはもう慣れたものだ。殿下との婚約が解消された今、わたしの自由は格段に増えており、公務に関わるのもわたし自身の意思によるところが大きい。
だが、意外なことに――それを快く思わない人物も、どうやら存在するらしい。ある日のこと、わたしの元に「王太子から至急謁見せよ」との伝令が来たのだ。いまさら何の用なのかと思ったが、王太子である以上、拒否するわけにもいかない。わたしはおとなしく王宮の書斎へ向かった。
「……失礼いたします。ご用件を承ります」
扉を開けると、そこにはエドアルド殿下と、彼のそばに寄り添うリリアナの姿があった。殿下はわたしの姿を認めると、ややいらついた面持ちで口を開く。
「来たか、メリッサ。お前、ずいぶんとこのところ王宮で活発に動いているようじゃないか。書類のやりとりにも口を出しているそうだな」 「公爵家の職務として、父の代わりに作業を進めるのは当然のことです」
わたしが事務的に答えると、リリアナが横合いから口を挟んだ。
「ですが、あなたはもう殿下の婚約者ではないのですから。これ以上、重要な立場を気取られないようお願いしたいものですわね」
リリアナの言葉尻が険しいのは、もしかすると妃候補に名乗りを上げたはいいが、殿下にまだはっきりした言質をもらっていないからだろうか。あるいは、わたしが公務で目立つ存在になりつつあるのを警戒しているのかもしれない。どちらにせよ、わたしにとっては関わりたくない二人だ。
エドアルド殿下は苛立ちを隠そうともせず、机を軽く叩いた。
「お前の家に関しては、これまで散々、僕が面倒を見てきたのだ。それを忘れて好き勝手に動くとはどういうことだ? すぐにやめろ」
――なるほど。あくまで“自分のもの”だったわたしが、公衆の面前から降ろされた今でも、勝手な行動を起こすのが気に食わないのだろう。かつては、表向きはわたしを「美しく穏やかで献身的な婚約者」と持ち上げつつ、実際には自分の都合が悪いとあれば罵倒さえしてきた王子だ。そんな殿下の言葉を耳にしても、わたしはまったく心が揺れなかった。
「殿下、わたくしはもう婚約者ではありません。わたくしの行動は公爵家の代表としての職務に沿っておりますし、王宮の規定に違反した覚えはございません。これ以上は、ご意見を賜る必要はないかと存じます」
言い放つと、さすがに殿下の眉がピクリと動いた。リリアナはわたしを睨むように見つめている。しかし、わたしは深く一礼して書斎を出ようとした。その時、殿下が悔しそうに息を吐きながら言葉を吐き捨てる。
「……お前は、僕を裏切ったのだな」
――裏切った? わたしはあまりの言い草に、思わず足を止めた。婚約破棄を申し出たのはどちらなのか、もう一度よく考えてほしいものだ。だが、ここで立ち止まっても何の得もない。わたしは思わず笑みがこぼれそうになるのを必死にこらえ、背を向けるまま扉を閉めた。
◇
それからさらに数日が経つ。父に代わって取り仕切っていた書簡の管理を片づけていると、アレクシスから一通の手紙が届いた。彼がわざわざ使いの者を寄越したのだから、よほど急ぎの要件だろう。開いてみると、そこには彼らしい端的な文面が綴られていた。
『もしよければ、明日わたしの伯爵邸までお越しください。あなたにお見せしたいものがあります』
わたしは不思議に思いつつも、翌日、伯爵邸を訪問した。すると、アレクシスは玄関ホールでわたしを出迎えると、屋敷の奥へと案内してくれる。そこには、山積みにされた書類の束。よく見ると、王宮で扱っている数々の申請書や決裁の控えが含まれていた。
「これは……いったい?」 「実は、うちの家が独自に集めた資料なのですが、近頃、王宮の財務や管理に不自然な流れがあるようで。メリッサ様なら、何かお気づきになるかと思いまして」
アレクシスが差し出した一枚の書類に目を通すと、わたしはすぐにその不自然さに気づいた。王宮の備品や贈答品の発注に妙な重複や水増しがある。しかも、よくよく細かい数字を追うと、そこにはただのミスではなく、意図的に資金を動かしている形跡が見える。まるで誰かが横領か裏金でも作っているかのような不気味さだ。
「これは、けっして見過ごせる話ではありませんね……。これが発覚したら、王家の信頼に大きく関わることにもなりかねません。ですが、こんな大規模な動きを仕組めるのは……」 「はい。恐れながら、わたしの推測では、現在権力を握っているあの方や、その取り巻きによるものではないかと」
――“あの方”とは、今や王位継承の筆頭であるエドアルド殿下を指すのだろう。もしかすると、宮中での評判を取り繕うために、裏で資金操作を行い、恩恵をバラまいていたのかもしれない。いずれにせよ、これはわたしひとりの手には負えない問題だ。父をはじめとする有能な閣僚たちと連携して対処すべき事柄であり、王太子だからといって黙認するわけにはいかない。
「わたしに協力してくださいますか、アレクシス?」 「もちろんです。あなたを信じていますから」
アレクシスの言葉に、わたしはうなずいた。かつて婚約者であった殿下と正面から対立する形になる可能性もあるが、それでも正義を貫くことがわたしの務めだろう。そうして仕組んだ証拠の洗い出しと報告の段取りが、ひそかに始まるのだった。
◇
それから間もなく、王室会議の席で財務報告の不正が正式に告発された。わたしは公爵家の代表として証拠書類を提出し、アレクシスや他の貴族も協力して内部調査の経緯を報告する。驚くことに、その結果は殿下の周辺にいる一部の家臣たちが政治資金を私的に流用していたことを示すもので――王太子本人の関与を完全に証明できるわけではなかったが、それでも殿下のイメージは大きく損なわれる事態となった。
王や重臣たちは、一連の不正事案を非常に深刻に受け止めており、関わった家臣たちを厳しく処罰する旨を決定する。その場に呼び出されたエドアルド殿下は、さすがに気まずそうな面持ちを浮かべ、以前のような余裕ある表情はどこにも見当たらない。王からの叱責を受けながら、必死に釈明の言葉を尽くしているが、どうやらかなり立場を悪くしたようだ。
殿下の横には、落ち込んだ様子でリリアナが立っていた。彼女もまた、殿下の取り巻きとして色々な噂が流れたせいで、当初狙っていた妃の座が遠のいたらしい。いまだに正式な婚約は発表されていないうえ、この醜聞に巻き込まれては、彼女の家の評価も下がってしまうだろう。会議室の一角でおびえたようにうつむくリリアナの姿を横目に、わたしは淡々と自分の仕事を終えた。
「メリッサ……」
そのとき、不意に殿下がわたしを呼び止める。わたしは顔を上げたが、殿下はかつての高慢な態度を失い、戸惑い混じりの視線を向けていた。
「……あのときは、仕方なかったんだ。僕が王になるには、周りを味方につける必要があったから。お前の家の力だけでは不十分で……」 「殿下。その話なら、もう終わったことですわ」
わたしは静かに頭を下げ、失礼しますと一言だけ告げて会議室を出た。わずかに聞こえた殿下の呼び止める声に、心が揺れることはなかった。――自分を都合よく扱う人と、再び一緒に歩む気はない。
廊下へ出ると、そこには待っていてくれたアレクシスの姿があった。わたしの顔を見るなり、彼は安堵したように微笑む。
「お疲れさまでした。これで、しばらくは落ち着きそうですね」 「そうね。あなたにはずいぶん助けられたわ」
わたしは胸の内に渦巻いていたものを吐き出すように、小さく息をつく。かつてはあれだけ名前だけで評価されていた王太子だったが、今後は自身の不甲斐なさを痛感するだろう。過去にわたしへどんな態度をとってきたのか、少しは振り返る機会になるかもしれない。でも、もうわたしが関わることはない。
「これから、どうなさるのですか?」 「わたしは公爵家の仕事を覚えるつもり。父もいつまでも若くはないし、母も魔法の研究で忙しいから」
そう告げると、アレクシスは微かに笑いを深めた。
「なるほど。では、いつかはわたしの家にも、その知識と才覚を貸していただきたい。もし、わたしがおこがましくもあなたに何かを望める立場になれたなら……そのときはぜひ、わたしのそばにいてください」
真っ直ぐな言葉に、わたしはようやく穏やかな気持ちで笑う。これまでの偽りだらけの日々とは違い、心からの信頼関係を築けそうな相手がここにいる。それは、王太子妃になるよりずっと、わたしにとって幸せに近い未来の姿だろう。
あの人に振られて落ち込んだかと問われれば、いまのわたしは胸を張って言える。――むしろ、わたしが出会うべき“未来”は、最初から別の場所にあったのだと。たとえ遅いか早いかは分からないけれど、もう前の道に戻ることは決してない。それを選んだのは殿下自身で、わたしはただ、それに応じただけのこと。
「ありがとう、アレクシス。あなたにそう言ってもらえて、光栄だわ」
わたしは彼の差し出した手にそっと触れ、静かに微笑む。もう、後ろを振り返る必要はない。これから始まるのは、わたしだけの未来なのだから。
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