曖昧な日常的コミュニケーション言語は魔法ととことん相性が悪い
手から炎を出し、自由自在に水を操る。雷は天気にかかわらずいつでもどこでも出せるし、風に乗って移動することもできる、そんな力があれば、現実なんて簡単に変わってしまう、そう思っている人が大半だった。
実際には、魔法という、いままでファンタジーにしかなかったものが現実の力として人類の手に渡ったが、そう簡単に現実は変わらなかった。
厳密にいえば、変化を強いられた部分はそこそこある。物理法則がめちゃくちゃになったことで物理学者が阿鼻叫喚となり、魔法を活用した犯罪も若干数増えたので、それに対応せざるを得なくなったという側面はある。
だが、生活面で魔法の恩恵を受けているかといえば、実は恩恵を受けられる人はそう多くなかった。なので、魔法が発見されてからというものの、主要な移動方法は、自動車、鉄道、飛行機、船であり、いまだにサラリーマンは満員電車に揺られながら仕事に向かっている。料理も、たとえ手から火が出るようになろうが相変わらずガスコンロのほうが便利で、蛇口をひねれば水道水がでる環境というのはこと日本に限って言えば、相変わらず生きていくのに必須である。
魔法が発見されてから20年、魔法革命ともいうべき発見の後に生まれて魔法ネイティブ世代と言われる高校生の僕は、国語の教師には「日本語を制する者は、魔法を制する!」と言われ、理系・数学科目の教師にも「科学を制する者は、魔法を制する!」と言われている。結局どっちを制すればいいのか、バベルの塔が二つも建てられたらどっちに登ればいいかわからないではないか。
魔法の原理自体は世界中で総力をあげて研究された結果、今なんとなくわかっている範囲で語れば「こちらのやりたいことをくみ取ってくれる妖精や精霊みたいな目に見えない何かがいて、その何かに指示ができれば、何かが理解できる範囲で物理法則をねじまげる要望を実現してくれる」ということになっている。
魔法を使うための指示を聞いてくれる存在を仮に精霊としよう。魔法で実現したいことを、この精霊たちに指示しなければいけない。
この指示の方法が、色々試された結果、一番簡単なのは口に出して支持を与えるというものであり……これがいわゆる詠唱と呼ばれるものなのである。
この、詠唱が非常に面倒くさく、人類が魔法を使いこなせない原因の実に9割を占めている。
精霊は、その存在が曖昧なくせに、指示の曖昧さは嫌うらしい。
成長期で、学校終わり、バスケの部活動も終えて夕飯を食べたにもかかわらずすっかりお腹を減らしている僕が実践してみせよう。
例えば、今自分がパスタをゆでたくて、鍋いっぱいにゆでるための水を魔法で出したいなと思っている場合、どう詠唱することになるか。
多分、実際の魔法を知る前の人類、ファンタジーで描かれた魔法を想定していた人類はせいぜい長くても「水の聖霊よ、鍋いっぱいの水を満たせ」といった程度だろう。
僕は、ガスコンロの上にパスタがゆでられるくらいの鍋を置き、パンと一度手をたたいてから口を開いた。
なお手をたたくのには全く意味がない。願掛けみたいなものである。
「精霊様、精霊様。私から見て前方20センチメートル先にあるステンレス製の深鍋に8リットルの水を満たしてください」
キッチンに手をたたいた音だけがむなしく鳴り響いた。残念ながら何も起こっていないのである。
精霊が何をしたらいいのかわからないときには、混乱してしまい、何も起こらないらしい。不発だということは、精霊に伝わらないあいまいな指示だったということらしい。
今ので、何がわからなかったんだ。おい。人間同士なら「それに水くんどいて」だけで伝わるぞ。僕の親ならとか「水よろしく」だけでパスタまで完成しているというのに。
どこが、曖昧だというんだ。僕の指示、僕の日本語は。
リビングでテレビを見ていた母が言った。
「あんた、自分で水くんだほうが早いわよ」
「そんなのわかってるよ」
魔法の存在がわかったときには家事が楽になると一番喜んでいた母が、今は何を無駄なことをと呆れながら僕の詠唱を見守っている。母は詠唱が難しいと分かった瞬間、色々諦めたらしい。
でも僕は、諦めない、魔法という夢の力を目の前にして、使わないわけにはいかないだろうよ。
僕は、この精霊たちと意思疎通してみせるよ……!
僕は用意しておいたメジャーを取り出して自分と鍋までの間の距離を測った。20センチより少し遠い。23センチだったか。ガスコンロには1個しか鍋はないが、これももっと具体的に描写したほうがよかったのだろうか。取ってと深さにも言及してみよう。
深さは……15センチだな。
次に分度器を取り出して、自分から見た鍋の角度を測る。ここは問題なし、真ん前にある。ここは言い換えたほうがいいのか?
念入りに調べ上げた後、もう一度手をあわせた。
「精霊様、精霊様。私から見て前方12時の方向に、23センチメートル離れたところに置いてある本体はステンレス製、取っ手部分はプラスチック製の深さ15センチメートルある鍋に、8リットルの水を満たしてください」
言い切っても、またしても何もおきない。精霊様のお気にめさなかったらしい。ここまで指定を細かくしたぞ。あとはどこが気になるというんだ!
2階から降りて冷蔵庫から作り置きの麦茶を取り出している妹が、言った。
「水の温度指定は?冷水、温水、お湯、熱湯全部含めて水っていうじゃん」
「そこかよ!」
もう一度、やってみよう。
「精霊様、精霊様。私から見て前方12時の方向に、20センチ3ミリメートル離れたところに置いてある本体はステンレス製、取っ手部分はプラスチック製の深さ15センチメートルある鍋に、8リットルの25度の水を満たしてください」
言い終わると、みるみるうちに深鍋の周りが光を放ちはじめ、鍋の中からぷくぷくと音を立て、どこからともなく水が満ちてきた。
ちょうど鍋の3分の1くらいの深さを満たしたとたんに、光がとまり、水面もおちついた。
恐る恐る人差し指を突っ込み、指についた液体をなめる。味がしない。多分水だ。
やった……成功したぞ……!精霊は聞き入れてくれたんだ……!
俺はいそいそと鍋に塩を入れてガスコンロに火をつけて湯を沸かした。
ガスコンロを使ってみて、あらためて思う。……魔法ってめんどくさいな、と。蛇口をひねれば水が出る生活、最高。科学に感謝。
結局、夢みたいな力に頼らず、地道に勉強しろということなのかもしれない。
「ていうかお兄ちゃん、パスタゆでるなら最初からお湯で出したほうがよかったんじゃない?ガス代もったいないよ」
妹の指摘にその通りすぎて何も言えなかった。