第一話 の九
昼休みに入り、黒井音子はご他聞に漏れず美術室への道のりを進んでいた。
準備室など日を望まない部屋が多い中校舎の二階廊下は日中でもうっそりと陰りを帯びている。
理科準備室の扉の前まで来て黒井音子は足を止めた。
不意に人気のない廊下の隅に白い靄が立ち込めた。
靄はユラユラと微動しながら形を変え、人の輪郭を露にする。それが明らかな人の形をとっても半透明なままで背景が透け見えた。
「臨時出動要請です。」
男は清潔な短髪に僧侶のようなストイックな法衣を纏っている。温和そうな性格と聡明さが混同した面差し。切れ長な瞳は慈愛に満ちていてクールな雰囲気を払拭している。
「随分てこずっているようだ、・・・ですが。」
「何分増殖が激しいですからね。子株のほうは他に任せて貴女には親株を刈ってもらいましょう。」
男は金の輪を胸の正面に平行に浮かべ、どこからか取り出した筒をその輪の中心に入れた。
同時に音子の胸元正面に同じような穴が開き、そこからぬっと銀の筒が現れた。
音子がそれを手に取ると穴は静かに閉じた。
筒は二ℓペットボトル大。
絶対神の文字で幾つかのラベルが貼られている。
『取扱注意』『変措厳禁』『甘さ控えめ』『凝縮原液百%』
「凶源には原液で約一ℓ。感染者には百ℓに対してカップ一杯、これは非感染者の予防にも効果があります。好きに使ってください。」
音子は手中の筒に視線を落とす。
「今は・・・・動けない。」
「何故です?」
いつになく切実な雰囲気が気になって男も真摯に尋ねる。
「〆切が迫っているから。」
「仕事をしてください。というか、しろ。」
音子はチッと小さく舌打ちする。
「ではご健勝を」といって男が消えるた。
その後を見詰めて音子はボソッと呟く。
「登場の場所はもう少し考えて欲しいものだな。」
男の消えた後には、理科室の主、人体模型のマルオくんがいつもと同じ無表情で佇んでいた。