第一話 の三
唐突に与えられた一時間の自習時間。
まともに勉学に勤めるのは極少数派で、大抵の生徒達は内職に勤しみ、四方山話に花を咲かせる。
その日に限っては当然のように会話は天子のことに集中した。
その中、白夜はといえば、他生徒(特に男子)の嫉妬交じりの冷やかし、(主に女子からの)見る目のなさや軽薄さの論い、と言った集中豪雨に晒されながら別のことを考えていた。
気構えもないままの思いがけない再会にうっかり肝を抜いてしまったが、及び腰になっている場合ではない。何せ、生命が危険に晒されているのだ。
胡散臭いとはいえ現状ではあの天使が唯一の理解者。
ともかくアイツをとっつかまえて、戯言と唾棄した三千世界の云々といった話を一から聞きなおさねばなるまい。
チャイムと同時に白夜は廊下へ向かった。鼻息荒く扉を開け放ったところで廊下を歩いていた女子とぶつかりそうになり、慌てて避ける。
「うわっ、ごめ・・・」
謝る白夜の顔が、途端にだらしなく緩む。
ぶつかりそうになったのは桃瀬香里で、桃瀬は胸を押さえ驚いた〜といわんばかりに黒目勝ちの瞳を丸くしている。
月並みの表現で甚だ申し訳ないが、マシュマロのようなぽわぽわした白い頬に、小動物を思わせる黒く大きな瞳、桃色のぷっくりとした唇が魅力的な正統派美少女だ。
桃瀬は誰隔てなく話が出来る気さくな娘で一年の時に同じクラスだった白夜とは今でも機会さえあれば話しをしてくれる。
ミーハーなタイプではないので噂といえども白夜とどうこうといった関係になった試しはないが・・・。
周囲の噂に反してまるでモテないことを自覚している白夜に、学年どころか、校内でも五本の指に入ると謳われる高嶺の花を手折ろうとする野望はまるでなく、他同様、憧れの領域のヒトだ。
「ごめん。俺急いでて。大丈夫だった?」
「うん、へーき。私も余所見してたから・・・」
くぅ、カワイイッ!
ふんわりとはにかむような微笑に白夜は内心で拳を握り、ジンッと感涙する。
だが、束の間の幸せは端然とした質問で現実に引戻された。
「白夜君、お隣のクラスの女子フッたんだって?しかも二股で。」
「う。それは、いや、その。・・・・なんで桃瀬が知ってんの?」
「当事者が今朝、学校中に響き渡るような声で憤りを叫んでいたから。」
「・・・・そう。」
あの女は社会的に俺を抹殺する気なのか?
白夜は項垂れてふうと溜息をついた。
「や、なんつーか二股とかではない、と思う。(別に付き合ってたわけじゃなかったし。ドッチとも。)そ、それに(まだ)何も、何もっ、なぁぁぁあんにも!なかったし!手すら握ってないし(キスは未遂だけど)・・・ドッチの子とも。」
「やっぱり。そうなんだ。」
我ながら苦しい言い訳だ、と思いつつ必死に抗弁していた白夜は、そのあっけらかんとした返事に「へ?」と間抜けた顔を上げる。
桃瀬は確信的に頷く。
「白夜君の気持ちを勝手に勘違いしちゃった女友達が鉢合わせて、勝手に盛り上がっちゃったんだね。そうだと思ったんだぁ。」
・・・勘違い、なのでしょうか?
このタイミングで「その気が山盛りありました」と白状出来るほど豪胆ではない白夜は口を噤む。
桃瀬は胸の前で小さな白い拳をきゅっと握った。
「ドンマイッ!白夜君が格好いいから、白夜君にその気がなくても女の子達は期待したくなっちゃうんだよ。でも、白夜君は二股とか、体目当ての軽薄な恋愛するような人じゃないって、私はちゃんと分かってるからあんまり誹謗中傷に落ち込んじゃダメだよ?」
ちょこんと小首を傾げる仕草のなんと愛らしいことか。
「アリガト。桃瀬にそーいわれると俺すごく嬉しい。元気出た。」
白夜は過去をまるっと棚上げして、桃瀬の人物像どおりの良い少年の笑顔で応える。
桃瀬は元気を取り戻したらしい白夜にほっとした様子で徐に視線を外しポソリと呟いた。
「・・・私も、良かった。」
「え?今なんて?」
ってか、それはナニに対して?
モゾモゾと芽吹いた期待に胸を膨らませ、白夜は必死に問い返す。
その頭上でチャイムが鳴った。
途端に、桃瀬が慌てる。
「ああっ、どうしよう授業が始まっちゃう!ゴメンネ白夜君急いでたのに」
「や、あの・・・それよりさっきの・・・・」
「今からでも急いだほうが良いよ!トイレ。」
「ね、それよりさっきの・・・・・・・・・・トイレ?」
思わぬ科白に白夜は思いっきり眉を捩る。
「さっきものすごく真剣な顔で急いでたもんね。腹痛ならちょっとくらい遅れても先生も許してくれるよ。遅れることなら私がクラスメートに伝言頼んであげるから。・・・あ、そこのアナタ、ちょっとお願いしてもいい?」
「や、違う、桃瀬・・・・」
俺が真剣な顔をして急いでいると何故トイレか。
桃瀬の持つイメージに少々不満を覚えつつ、白夜はサクサク進む桃瀬に慌てた。
桃瀬が伝言を頼んだのは黒井音子で。多分一番近かったからという理由だろうが、気さくにも程がある。
桃瀬の頼みに音子は一度手を止めた。
鬱陶しい前髪で表情が見えないものの、口元を見る限り無表情のまま暫く桃瀬を凝視し、やがてコクリと頷いた。
満足げな桃瀬に促され白夜は行きたくもないトイレに向かう羽目になり。
便意もなく便座に座り、一人、意味深な桃瀬の科白と、桃瀬の持つ白夜人物像について唸り声を洩らすことになった。
その頃教室では―――
チャイムの暫く後で教室に教師が現れた。それと同時に教室の際奥、廊下側で黒い影がユラリと陽炎のように蠢いた。
「ど・・・どうかしたか黒井?」
ああ、とうとう魔方陣が完成したのだ。教室ごと異空間へ飛ばされるのか、それともマッドモンスターの召喚か?
極度の緊張感に張り詰める教室に、意外とよく通る声が抑揚なく告げた。
「東郷白夜、腹痛によりトイレに向かい遅刻。伝言を頼まれた。」
ニヤリ。
「・・・な、何故そこで笑うんだ?黒井?なぁ、く、黒井?」
ワラにも縋るような思いで問い返してみたものの、一瞬だけ不気味に釣りあがった口は何も語らず、音子は着席した。
授業は喩えようのない不安の中、お通夜のように鬱々と進められた。
適当な頃合に教室に戻ってきた白夜は、極度の恐怖に晒され続けたクラスメートに
「オマエが下痢ごときで伝言なんて頼むからッ!」
と理不尽な八つ当たりを受け、目を白黒させた。