白の章 第二話 の三
歩き出した白夜の視界に一人の男子生徒の姿が映る。
科学実験室から出てきた彼は、作業用白衣を身に纏い、手にはビーカーやらフラスコやらが詰まった木箱を抱えていた。
何処にでもその筋のオタクはいるもので、音子を漫画オタクと称するなら、彼は科学オタク―――実験大好き少年だ。
昼休みは理科室に篭り何らかの実験に明け暮れている知る人ぞ知る科学部の部長である。
実験室から出てきた直後、廊下をくっちゃべって歩く二人組みの生徒と小さな接触事故。
相手が見事な反射神経で、落ちそうになったフラスコを押さえてくれたため破損は免れた。
男子生徒は恩人にぺこぺこと頭を下げ立ち去るのを見送った後、ようやく眼鏡を落としたことに気付いたようだ。木箱を床に置きうろうろと手探りする。
「メガネ、メガネ・・・」
「辰砂クンそのギャグかなり古い。かくいう俺もタイムリーに見たことないし。」
白夜は足元にすっ飛んできた眼鏡を拾って、彼に近づく。
丁度仰向いた彼に手渡すより早いか、と掛けてやると、ようやく視界が戻った辰砂は白夜を認めて人懐っこい笑顔をこしらえた。
「おお。誰かと思えば白夜君じゃありませんか。どうもありがとうございます。さすが学校一の美少年は行動もスマートですな。」
「いや、そういうわけでは。」
狙った行動ではないのだが、白夜のこういう考えナシの仕草は誤解されがちだ。
手放しの賛辞に白夜は苦笑する。
二人はどちらからともなく歩き出した。
白夜は教室へ、辰砂は多分この階の端にある科学部室へ機材を置きに。
「そういえばもう文化祭の季節ですね。懐かしいな。出会いを思い出します。」
「そうだねぇ~時の立つのは早いね。」
思いつきのような辰砂の台詞に白夜もしみじみと頷く。
クラスも一緒になったことがなく趣味から嗜好性まで全く別の二人が仲良くなったのは去年の文化祭実行委員で顔を合わせたのが切欠だ。
選考日に運悪く風邪を引いて休み役員を押し付けられた白夜はともかく、辰砂はクラス委員とか各種役員によく選出される人材である。
カリスマ性には欠けるが律儀な上に意外と卒がなく立ち回れるお陰でなかなかに信頼度が高い。
それにプラスして人に物を頼まれると嫌といえないお人よしなのだ。
茫とした、よく言えば無邪気な貌に丸眼鏡が人のよさに拍車を掛けている。
コレで中々整った顔立ちをしているので、眼鏡を外して寝癖のついたままの髪を整えるだけで随分女の子たちに持て囃されそうだが、当人に気にする様子はまるでナイ。
人間を格好イイとかモテルとかいう評価で分別しない辰砂は白夜にとって肩を張らずに付き合える貴重な友人だ。
一方、美術室では―――
白夜を体よく追い出した音子は徐に視線を壁のリトグラフに向けた。
「何か?」
そこにあるはずの絵に重なり見えるのは半透明の男の顔。
短髪に法衣の詰襟の部分だけが僅かに見える。
見知った男の顔は平板な問いかけに柔和な顔を小さな苦笑で歪める。
「指令ではないのでそう構えないで下さい。」
「お言葉だ、・・・ですがこれが普通です。」
にべのない返事にやっぱり苦笑するしかない。
「実は例の件で最近不穏な動きがあったので蛇足とは思いましたが報告まで。何分、貴女の上司と・・・貴女の叔父殿が気に留めていらしたようなので。」
音子はフンと鼻を鳴らした。
「叔父貴はともかくあの方はそんなタマではあるまいよ。良きも悪きも流れのままに甘受して状況を心底楽しむ人だ。」
「まあそうおっしゃらず。タスク様に話を持ってきたのも実は彼の方ですから。なんとは申されましても常時気に掛けておいでなのですよ。」
それがどうしたと音子は内心で鼻白む。
常時気に掛けているのは彼にとってワクワクするような物珍しい事態がおきそうだから、であって、別に心配しているとは限らない。
証拠に、音子は上司がかつて慌てふためいている姿を見たためしがない。
「ともかくお気をつけください。」
言外に、嗜めるような、苦笑のようなニュアンスを含ませてそういった男は、暫くして思い出したように付け足した。
「裏切り者の名前は聞きたいですか?」
音子は一度沈思して、ゆるりと首を振った。
男はそれに小さく頷いて「では、また」と掻き消えた。
誰もいなくなった教室に音子の布擦れほどの呟きが落ちる。
それはこことはまるで別空間にあるはずの名前。
「相手が誰であろうと私の邪魔はさせん。」
半月のように吊り上げた毒々しい笑みでそう呟いた音子は、改めて男の消えた後に視線をやった。
「・・・・・故意だとしても笑いを堪えるのに苦労するな。」
男の消えた後には頬に手を添えて身を捩るムンクの絵が飾られていた。