運命じゃない（連載版）

第1部

1-5

　５年毎にミズリの着任地は変わっていった。ある程度の時が過ぎると、ミズリを中央へ戻す話が出てきたが、全てミズリは断り、より僻地のあまり神官が配属されない神殿を選ぶようになった。

　ミズリの生活は平坦で静かだった。何にも心を乱されず祈りを捧げる日々はミズリから徐々に心を奪っていった。

　人里離れた森深い中にある神殿で日々凪いだ心で祈りを捧げた。そんなある日ミズリを惑わす声が聞こえるようになった。訪れる人もいない神殿だ。悪戯は考えられない。

『可哀そうに。貴方はこんなところにたった一人。神は何もしてくれない。私が貴女を救ってあげる』

　ひどく美しく魅力に溢れた声だった。声を聞いただけでその姿を一目だけでも見たくなる。

　神殿の教えにあるこの存在にミズリが遭遇するのは初めてだ。神の寵愛を受けていたにも関わらず神の教えに背を向けて、人を惑わし堕落させ魂を奪う。神と対極にある存在、悪魔だ。

　本来聖女の力は魔を寄せ付けない筈だが、ここは国の一番端に位置する。神聖樹の根もそれ程張っていないためアリサの力が薄い地域だからだろう。

　悪魔はとりわけ聖女の魂を好む。聖女が死ぬ間際に悪魔は現れるとされるが、聖女の魂を手に入れた悪魔はいない。聖女の守護者に必ず阻まれて聖女の魂は神の元へ帰るのだ。

　悪魔の姿は声同様に一目で人を堕落させる程美しいと言われている。

　姿を見せないという事はそれ以上何が出来るわけでもないとミズリは無視をした。悪魔の存在はミズリの意識を引くものではなかった。

『神は貴方から奪うだけ。私はいくらでも与えよう。愛も快楽も望むだけ貴方に注いであげる』

　どれ程の誘惑もミズリの心が動かないと知った悪魔は次の手段を講じた。

『ミズリ』

　ミズリが一番親しんだ声で、ミズリが一番大好きだった姿で悪魔は現れた。

　唖然とするミズリにルーファスが微笑みかけている。

　悪魔は毎日飽きもせず現れ愛を囁いた。ミズリが返せるものは沈黙しかない。

　ミズリの動揺を誘うため、やがて悪魔の言葉には愛以外が混じるようになる。

『どうして私を頼ってくれなかった？君を愛していたのに』

『私が君を裏切ったんじゃない。ミズリが私をアリサに差し出したんだ』

『ミズリは私を愛していなかったのだろう？だから平気で婚約解消が出来た。誰よりも酷いのは君だ』

『ミズリを愛した事なんかないよ。君との婚姻は王族としての義務でしかなかったんだ』

『アリサこそが私の運命だ。アリサを愛している』

『君には感謝している。アリサを連れて来てくれた。アリサさえいれば私は幸せだ。君の事なんてどうでもいい』

『初めて会った時から君は愛らしかった。私は一目で恋に落ちた』

『本当は君だけを愛している』

『ミズリ』

『私のミズリ』

　悪魔はミズリを堕落させるためにあの手この手と必死だった。ミズリの心を弱らそうとルーファスの姿を纏う。

　なんて愚かなのだろう。ミズリの心には何も響かない。最初からどれ程完璧なルーファスの姿を見てもミズリは何も感じなかった。心を失うとはこういう事なのだろう。傷つく事、嫉妬する事、悲しむ事もない。

　苦悩のない今がミズリにとっては一番幸福なのだ。幸福の中にいる人間は堕落しない。何を言われても見せられても甘言に惑わない。

　いい加減悟ればいいものを。呆れるばかりだった。人里離れた辺境の神殿で、魔との奇妙な生活にどれ程の月日が流れたかわからない。

　ある時、焦れた悪魔がミズリに触れようとした。今までにない事だ。

　伸ばした手はミズリに触れる前に溶けて消えた。悪魔は苦痛に顔を歪め溶けた腕を抱えるようにしてミズリを見た。ルーファスがアリサに向けていた瞳だ。アリサが欲しくて堪らないと訴えていた。今度は無事な方の手を伸ばしてくる。やはり溶けて消えた。

　両腕を失った悪魔の姿が徐々に溶かし消えるまでミズリは微動だにしなかった。消える寸前まで悪魔はミズリを焦がれる瞳で見ていた。

　ミズリは自分の体を見下ろした。聖女の力はとうの昔に失った。今のミズリはただの人だ。ただの人間に魔を撃退する力はない。

　長年不思議に思っていた。特に知りたいわけではなかったため確認していなかった。神殿はミズリに随分と自由を許している。監視を置くでもなくミズリを希望の神殿に送り出す。干渉が一切ないのはミズリの安全の観点からも奇妙な事なのだ。

（守られている？）

　アリサの力か、神聖樹の意志か何なのかわからない。

　ミズリはそれを有難いと思うべきなのだろうが煩わしいと感じた。聖女ではないミズリには必要ない。どういう意図で行われたにせよ、解放されたいと思った。

（聖女だった過去から解放されたい）

　ミズリの魂への執着なのか、悪魔は懲りずに現れる。

　それほどミズリの魂が欲しいものなのだろうか？ミズリのような出来損ないの魂を？

　ミズリはこの悪魔が憐れに思えて来た。同時に自分の欲求に忠実なその姿には感心もした。

　ミズリには執着がない。それは自分の魂であっても命であってもそうだった。自分を惜しむ理由がどこにも見つからない。

　だから、そんな気になった。そんなにも欲しいのならミズリをあげてもいい気がした。

　その日、ミズリは初めて悪魔が訪れるのを待っていた。祈っているといつの間にか後ろに人の気配を感じた。結界に阻まれて気配が希薄な悪魔がこれ程に存在感を露わにするのは珍しい。

　不思議に思いつつもミズリはゆっくりと振り向いた。

　予想した通りルーファスの姿があった。

　ミズリは目を瞠った。

　悪魔はいつもルーファスの色んな姿をとった。出会ったばかりの幼い姿だったり少年の姿だったり、凛々しい青年だったりと、ミズリが記憶しているルーファスの様々な姿を。

　目の前にいるルーファスはミズリの記憶にないルーファスだった。

　咄嗟の動揺はミズリを一歩後ろへ後退させた。

　目じりには少し皺がある。華やかだった金髪は今や白に近い。綺麗な青紫の瞳はそのままだが鋭さが増している。柔和だった口許は固く引き結ばれて厳めしい。体はミズリが最後に見た時より筋肉に覆われて大きいような気がした。どこから見ても立派な大人の男性だった。別れた後の年を重ねたミズリの知らないルーファス。

　ミズリは気分が重く沈むのを感じた。見たくなかったのだ。このルーファスは見たくなかった。最後に悪魔はミズリを動揺させる事に成功した。

　ミズリは立ち上がって悪魔に近づいて行った。見上げた悪魔の存在感は圧倒的だった。悪魔の緊張を肌で感じてミズリは恐れを抱いた。

（恐れ？どうして………）

　ミズリには心がないのに、恐れを抱くのはおかしい。それとも惑わされたのだろうか、このルーファスに。まさかと思う自分もいるが、全身が見えない何かで撫でられているかのように妙に落ち着かない。早くその擬態を解いて欲しかった。

　ミズリは初めて自分から悪魔に話しかけた。

「あなたには負けました。私の魂を差し上げます。好きにすればいい」

　食い入るように見つめる悪魔に向かって悪魔にとっては誓約になる言葉を口にした。

　悪魔の瞳は驚愕に見開かれ、悪魔が意味を理解した途端にミズリの体が悪魔の腕の中に攫われた。

　ミズリの誓約が功を奏したのか悪魔の腕は溶けなかった。

　ミズリの視界は悪魔の胸元だ。眩暈がするようなこの感覚はなんだろう。悪魔の腕の中は何故だが泣きたい衝動をミズリに与える。

「私をあげるから、その擬態を今すぐ解いて下さい」

「………ミズリ」

　深い声だった。今までに聞いた事のない、幾重にも感情を抑えて重ねたような重い声。

　ミズリの胸がざわついた。ミズリを抱く腕に痛い程の力が篭る。押し付けられた胸元からは力強く速く打つ鼓動が聞こえる。人間のように。

「えっ………」

　戸惑いが口をついて出た。密着する肌の感触や温かさや包まれる匂いまでもが急にミズリに迫って来る。体が、心が震えた。

「ミズリ」

　耳を犯すその声に失くした筈の心が悲鳴を上げた。息が出来ず視界がぶれる。そんな筈はない。何が起こっているのかわからない。

　男の手が震えるミズリの頬を包んで顔を上げさせた。二人の視線が絡む。男は仄暗く笑った。

「私のミズリ」

　魂を絡めとるような響きだった。ミズリは咄嗟に逃れようとした。だがそれを男は許さなかった。軽々と押さえつけ再びミズリをすっぽりと抱き込んで離さない。耳朶に唇が触れる程の近さで男は囁く。

「逃げては駄目だ。君は私にくれると言った。好きにしていいと」

　あまりの事にミズリは叫んだ。

「違うわ！」

「違わない。聖女は嘘を口に出来ない筈だ。だからかつて君は私を遠ざけたのだろう」

「貴方に言ったんじゃないの！」

「私しかいなかった。ミズリが聖女でなくなっても君の言葉は誓約と変わらない。ミズリはもう永遠に私のものだよ。神にも渡しはしない」

「そんなっ」

　反論しようとしたミズリを男が抱き上げた。咄嗟にミズリは男に縋りつく。

「何故こんなっ」

　ミズリには混乱しかない。気が遠くなりそうだった。だってこれはルーファスだ。悪魔ではない。ここにいる筈のない、一生会う筈のない本物のルーファスだった。

　ルーファスは自分の体にミズリを押し当てた。

「王妃が死んだ。アリサが」

　暴れようとしたミズリの動きが止まった。恐る恐る顔を上げてルーファスの瞳を覗き込む。真実を知るために。

「嘘よ………。だってアリサは祝福された神子だもの。こんなに早く逝く筈がない」

「彼女は天寿を全うした。異世界人だった。寿命の長さが違ったんだ。我々と違って短命だった」

　伏せられたルーファスの瞳には悲しみがあった。

　ミズリはどうすればいいのか分からない。アリサはミズリの光だったのにアリサの死に何も感じない。悲しみもない。まして喜びもない。ただルーファスの運命が居なくなった事だけが恐ろしかった。運命を失って彼の心が壊れるのではないかと恐ろしかった。

　聖女を失った守護者はその後どうなるのかを書いた文献はどこにもなかった。

　息を詰めて見つめるミズリの頭にルーファスは頬を寄せる。

「私はアリサを愛したよ。最後まで彼女は幸せだったと言ってくれた」

　ルーファスはミズリを抱いたまま目に付いた椅子に腰かけた。顔色を失ったミズリの頬を撫でる。ミズリから少しも目をそらさずにアリサへの愛を語った。

「運命に逆らわず、ちゃんとアリサを愛した。ミズリを忘れて、ミズリの願い通りに」

「だって、それは」

　ミズリの言葉を封じるようにルーファスの指がミズリの唇に触れた。

　ミズリはルーファスが運命を失って気が触れたのだと思った。ルーファスの瞳には悪魔と同じ、否、それ以上の激しい執着がある。

　こんなルーファスをミズリは知らない。穏やかで優しいルーファスしか、こんなにも陰惨とした目をするルーファスを知らない。

　ルーファスの瞳には底のない昏い闇があった。それはアリサを失った絶望ではなく、ミズリが気付かない振りをして来たルーファスの心の悲鳴だ。その闇がミズリを欲しがっている。悪魔よりも禍禍しく狂おしく、ルーファスを変えてしまった。

　ルーファスの指が優しくミズリの唇を擦った。当たり前のように、そうする事が自然なように。

　凄艶な笑みを浮かべ、青紫の瞳はミズリだけを映して狂気めいた喜悦が滲む。

「だから、もういいだろう？わたしはもう王ではない。王族である事も辞めた。ミズリも聖女ではない。だから、もういいだろう？」

　深い、深い闇。ミズリを引き摺り込んで、きっと光は二度と届かない。

　ミズリの心も体も震えている。衝撃は強烈過ぎてミズリの許容量を超えて何故自分が震えているのかわからない。ただルーファスだけを見つめ続けた。

　 ミズリは全てを受け入れて生きて来た。アリサやルーファスや国の安寧のために、そうするのが正しいと思っていた。皆の幸福のためにミズリの犠牲があるのなら受け入れる事に躊躇いはなかった。

　ミズリだけではなかったのだろうか？

　ルーファスが幸せであるのならミズリはどうなっても良かったのに。

　ルーファスがミズリを誰にも奪われまいと深く抱き込む。その腕もミズリと同じように震えている。

「ミズリは私のもので、私はミズリのものだ」

　泣いていたのはミズリだろうか？ルーファスだろうか？

　苦しんでいたのは。傷ついていたのは。絶望にのたうち回ったのは。悲鳴をあげ続けていたのは。心を失くしたのは。　

　ミズリもルーファスも十分に思い知った。運命の理不尽さも残酷さも、甘さや幸福もすべて。

　だからこそ――――。

「どうでもいいんだ。運命なんか。ミズリがいれば。二人であれば」

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これでミズリ編は終了です。短編の4～5倍の長さになりました………。王子編とのバランスを考えて致し方ない加筆訂正でしたが………ここまで本当に（×3）お疲れ様でした。ありがとうございます。毒食らわば皿まで、という事でこの後も最後までお付き合い下されば嬉しい限りです。