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 この国には神殿が多く存在する。神殿の数に対して神官は慢性的な人手不足だ。地方に行けば行くほど顕著になる。王都の中央神殿以外の神官は5年に一度の任期で神殿を転々とする。ミズリの配属された先は長く神官の着任のなかった小規模な神殿だった。100人余りの近隣の村民しか訪れない。


 神殿を経由しながら案内人に伴われ王都からここまで1か月ばかりの旅になった。王都のような賑やかさは徐々になくなり、田畑が広がる農村の閑静な風景がミズリを迎えた。

 神殿は小高い丘に建てられて簡素な佇まいを見せる建物だった。村民の寄付で建てられ華美さは一切ないが堅実な印象を受ける。


 神官がいない間神殿の管理は老女一人に任されていた。白髪に水色の瞳の柔和な老女はソニアと言った。近隣の村から通いで神殿に来ていた。

 ソニアは年若いミズリを快く歓迎してくれた。

「良くこんな田舎までお越し下さいました。神官様に来て頂くのは村人の悲願でございました。何もない処ではございますが、ミズリ様が心地よくお過ごし頂けるように私がお世話させて頂きます」

 神官長よりも高齢の女性に大仰に歓迎されミズリは居た堪れない。

「どうか、そんなに気を遣わないでください。お心は大変有難いのですが、自分の事は自分でいたします。私の事は心配なさらないで下さい」

「ミズリ様は中央から来られた立派な神官様とお聞きしております。無理はなさらず、私にお任せ下さい」

 ソニアはとても嬉しそうだ。お世話をしたくてたまらないと言っている。

 待望の神官がこんな若造で不満はないのだろうか。それにミズリは神官としては新米だ。本来なら先輩神官につくところを、事情を考慮して閑地で人々と交流しながら神官に慣れるように言われている。

「………では、色々とわたしに教えて頂けませんか?お恥ずかしいですが、神殿に籠っておりましたので、知らない事ばかりなのです」

「まあ、私で宜しければ、いくらでもお教えいたしますよ。伊達に年はとっておりません。お任せくださいな」

 にこにことソニアは笑っている。

 一般の人との交流も初めてだった。ソニアとは上手くやって行けそうで、ミズリはほっと息を吐き出しだ。




 新しい生活はミズリの想像よりずっと楽しいものだった。田舎と言っても王族である公爵家の領地の隣に位置して治安も良く、この土地で生産される農作物は公爵家が買い取ってくれるらしく、収入が安定していた。人々の暮らしは比較的余裕があるようで気風も穏やかでゆったりとしている。

 信心深い人が多く、村民達は週に一度は神殿を訪れる。ミズリの仕事は彼らと一緒に祈り話を聞く事だった。


 ソニアはミズリにとても良くしてくれる。

 聖女のミズリは基本世話をされる立場にあり、一般の生活を知らなかった。ソニアは呆れることなくミズリに色々な事を教えてくれた。火の入れ方、薪の作り方、掃除の仕方、料理の仕方、日常の些細な事すべてがミズリには新鮮で出来る事が増える度に嬉しかった。

 ミズリは積極的に行動するのが好きだ。今は神殿の片隅で作物の栽培に夢中になっている。


 大きな麦わら帽子をかぶり、ソニアに借りた作業着を着て鍬を持つ。遠目で見ると神官にはましてや若い娘には見えない恰好だ。

 鍬をさくっと土にめり込ませ腰を入れて引く。これが中々大変なのだが何故か楽しい。農作物の栽培は体力勝負だ。鍬を使い過ぎると手に豆が出来るし、水やりのために何回も水を汲みにいかないといけない。支柱を立てる事もあるし、雑草を引き抜くのも大変だ。

 ソニアに教わりながら作物が育って行く過程は感動の連続だった。ひょっとしたらミズリの中には農民の血が受け継がれているのかもしれない。

 今日はここの土を耕して貰った種を植えるのだ。そうやってミズリが夢中になっていると村人のテド青年が声を掛けて来た。

「ミズリ様、土を耕すのは僕がやりますよ!」

 テドが種をわけてくれたのだ。少しだけ作業も手伝ってくれるという。テドは体格が良く筋肉に覆われていて力も強い。あっという間に作業を終わらせてくれそうだ。

「大丈夫ですよ、凄く上手になったってソニアさんのお墨付きです」

 ちょっと鍬を置いて手を止めるとすかさずテドに奪われた。ミズリの手を武骨な手で掴んだ。

「ほら、手に豆が出来ている。後で軟膏をソニアさんに貰ってくださいね」

 そこでミズリと目が合うと目元を染めて慌ててミズリの手を解放した。

「後は僕がやりますから!」

 テドは凄い勢いで耕しはじめる。テドの筋肉が盛り上がり軽々と鍬を持ち上げ土に突き刺す。無駄のない動きで惚れ惚れとするような姿だ。

 実際テドはモテる。体は大きく力持ち、そして穏やかで優しい。顔立ちも悪くない。村では貴重な結婚適齢期の男性だ。

 最近になってようやく、本当にようやくテドがミズリに気があるらしいという事に気付いたミズリだ。

 晴天の霹靂だ。まともな恋愛を経験した事のないミズリにはどうすればいいのかさっぱりわからない。しかも、これにはまだオマケがつく。

「テド!!」

 小柄で可愛い女の子が仁王立ちで立っている。今年成人だと聞いた。テドの従妹のリリエラだ。リリエラはテドを呼びながらミズリを睨んでくる。

「こんな処で何をやってるのよ!直ぐに戻ってくるって言ったでしょ!」

「こんなところって、ミズリ様に失礼」

「ミズリ様!」

「はい!」

 思わす直立不動になるくらいリリエラの迫力は凄い。

「テドはあたしと先に約束してるんです。もちろん連れ帰ってもいいですよね!?」

「も、もちろんです」

 よかったとにっこり愛らしく笑うとリリエラはテドから鍬を奪い彼の背中をぐいぐい押した。

「あっ、こら、ミズリ様、あの」

「ほら、行くわよ!ミズリ様、またね!」

 二人は慌ただしくミズリの前を去って行った。


 どうやらミズリは三角関係に巻き込まれたらしいのだ。何故そんな事になるのだ。事態の混迷にますますお手上げ状態だった。

 ミズリが呆けているとソニアの笑い声が響いた。

「ソニアさん………」

 ミズリはつい恨みがましい声を出す。テドが来てからソニアは急に姿を消したのだ。わざとらし過ぎる。

「助けてくださってもいいと思うのです………」

「あら。そんな野暮な事は出来ませんよ。それにしてもテドは不甲斐ない。リリエラに押されてしまって」

「リリエラさんはお元気ですから。お似合いだと思うんですよね」

 優しいテドにはちょっと気が強いくらいのリリエラが合う気がするのだ。リリエラは長年テドに悪い虫がつかないように牽制もしてきたようだし、その努力は素晴らしい。

「それ、テドには言わないであげてくださいね」

 ソニアはちょっと怖い顔をする。ミズリも無神経だったとは思う。

「うっ。ソニアさんはテドさんの味方なのですか?」

「私はミズリ様の味方ですよ」

 その割にはテドに協力している気がするので、首を傾げてしまう。

「わたしは神官なのですが」

 基本的に神官の恋愛はご法度だ。還俗すれば結婚は可能ではあるが。

「神官でも恋をしても宜しいではありませんか。ミズリ様はお若いし、実際に恋愛をしてそのまま還俗して結婚なさる神官は多いのですよ」

「そうなのですか?」

「ええ。特に地方の神殿の神官はそれが顕著ですね。地方の神官は万年人手不足ですけれど、そういう事情があるんですよ」

「全然知りませんでした」

「大っぴらに言える事でもありませんからね」

 ミズリの驚いた様子をソニアは微笑ましく見ている。

「ですから、まぁテドの事は置いておくとしても、ミズリ様も恋をなさるといいですよ」

「ええっ」

 どうしてそんな結論に行き着くのかミズリはさっぱりわからない。目を白黒させているミズリを前にソニアは絶好調だ。

「きっとミズリ様の人生を豊かにしてくれます。じゃんじゃん恋を致しましょう。かく言う私がミズリ様くらいの頃はそれはモテましてね」


 それからソニアの武勇伝や旦那さんの話になりミズリを楽しませてくれた。 

 ソニアはミズリの事情を知らない。でもソニアの心遣いが嬉しかった。この心優しいお節介な老女を本当の祖母のように思っていた。




 季節は巡る。ルーファスはアリサと子を成し王となった。王都から離れた地にも噂は流れてくる。王と王妃は仲睦まじく王の溺愛は天井知らず。アリサの力で国は益々繁栄している。

 ミズリはもう何も知らない子供ではない。過去の自分は遠くなり、今を生きている。




 4年目の冬だった。ソニアが体調を崩した。いつまでも元気だと思っていたが、年には勝てない。病状の悪化が早く、珍しく雪が降り積もった冷え込む朝に静かに息を引き取った。


 葬儀はソニアの人柄を表すようにあたたかな雰囲気で行われた。村人からはミズリが来てからソニアは本当に楽しそうだったと言われ幾人もの人にお礼を言われた。涙よりも笑顔の多い葬儀だった。悲しみに暮れるミズリにソニアは最後に人の尊さを教えてくれた。


 ソニアの葬儀を終えて、ミズリはソニアの家に来ていた。家の整理とソニアの形見を貰い受けるためだ。ソニアには身寄りが無かった。50代で夫と死別し、息子夫婦と孫を事故で亡くしてからは一人だった。

 家はこぢんまりとして、綺麗に整頓されていた。余計なものがあまりない中に壁に飾られた絵に目が行く。

 若い頃のソニアと思われる女性と気難し気な顔をした男性が寄り添っている。その隣にはソニアによく似た少年を真ん中に三人で描かれた絵がある。また、成長した少年と優しそうな女性との絵もあった。

 ソニアの家族だ。ミズリは良く彼らの話を聞いていた。ソニアの旦那さんと息子さん。それに息子さんのお嫁さん。

 お嫁さんに何となく既視感を感じた。ミズリと同じ栗色の髪と若草色の瞳だからだろうか?

 もう一枚絵があった。それは壁ではなく棚の上に立てかけられていた。

 とても精緻に描かれた絵だ。この絵だけ画家の力量が違うのがわかる。小さな女の子の絵だ。先程の女性と同じ色彩を纏う女の子。鼻の上にそばかすが散っている。ミズリのように。

「………わたし?」

 ミズリは混乱した。ミズリに家族はいない。神殿に入ると共に聖女は家族との縁を切られるからだ。聖女には家族の情報は一切開示されない。家族も同様に聖女になった娘には二度と接触出来ない。

 ソニアはミズリにとても親身だった。本当の孫だと言ってくれた。一緒に居られて嬉しいと。

 ミズリはソニアに何を言っただろう。何が出来ていただろう。ソニアに同じだけの愛と感謝を返せていただろうか。

 にこにこと笑っているソニアしか思い出せなかった。ぽろぽろと幾つもの涙が零れた。


 いつだったのか、ソニアが言っていた事がある。

『どんなに深い悲しみもいつかは癒えるものです。そうすると後は幸せな思い出だけが残るんですよ。だから私は彼らの事を良く思い出すし、沢山お話もするんです』


 その言葉通りにソニアは沢山の話をミズリにしてくれた。

 ミズリは絵を壁から一つ一つ外していった。

「初めまして、気難し屋のおじい様。頑固な処に手を焼いたっておばあ様が仰っていましたよ。でも、おばあ様を大事にしてくれていたって。おじい様の不器用な優しさがおばあ様を射止めたのですね」

 次に若い夫婦の絵を手に取る。

「初めまして、お父様。おばあ様はずっと心配していましたよ。お父様は少し短慮な処があるって。でもお母様と出会って変わられたのですね。お母様の説得でおばあ様と連絡がとれたと聞きましたよ」

 ミズリはふっと一息つくと椅子に腰かけた。

「初めまして、お母様。わたしを産んで下さってありがとうございます。わたしの髪と瞳はお母様譲りだったのですね。お揃いで嬉しいです。いつもお母様の色を見ていたんですね」

 ミズリの大切な家族だ。ミズリはいつまでも絵を見ていた。


 部屋が薄暗くなってミズリはようやく立ち上がった。結局今日は何も出来なかった。帰ろうと部屋の中を見渡していると棚の中にスケッチブックが何冊もあるのを発見した。

 見覚えがあるよう気がしてミズリの動悸が速くなる。スケッチブックならどこにでもある。珍しくないと思うのに胸の鼓動が速まるばかりだ。


 ルーファスは時間がある時はよくミズリの絵を描いた。特別上手くないのに飽きもせずに。ミズリにはあまり見せてくれなかった、あのスケッチブックはどこへ行ったのだろう?


 これ以上は知らない方がいいと知りたくないと心は警鐘を発している。きっと後悔する。わかっているのに我慢出来なかった。震える手で一番古そうなスケッチブックを開いた。

「………ああっ」

 思わずうめき声が漏れた。

 下手な絵だった。辛うじて小さな女の子だとわかる。小さな子供が描いただろう絵。


『こんなのミズリじゃないよ?』

 そう言ったらルーファスは拗ねてしまって、ミズリにあまり絵を見せてくれなくなった。ずっとミズリを描き続けていたルーファス。


 何冊も何冊も同じ女の子だけを愚直に描いている。絵の中の女の子が成長するにつれ絵もそれなりに上手くなって行く。

 日常の何気ない絵だ。拗ねたり、怒ったり、照れたり、満面の笑顔。近しい人にしか見せない自然な表情。そういう何気ない様子を大切に描いているのがわかる。

 ミズリは知っている。女の子の視線の先にはいつも大好きな人がいる。信頼と愛情が小さな体一杯に溢れていた。

 その先にいるルーファスが見える。ミズリの大好きなルーファスが。


 聖女になれば家族を失う。成人するまでミズリが公の場に出る事も出来ない。ルーファスが考えたのだろう苦肉の策だ。残されたソニアのために、ミズリのために出来る事を。


 痛かった。その絵はとても痛い。

 どうしてと思う。どうして今更それを見せつけるのかと。

 ミズリは充分だったのだ。全てをちゃんと受け入れて諦めたではないか。ルーファスの愛はアリサのもので、ミズリは求めても思ってもいけないものだとわかっている。


 ミズリはルーファスの運命じゃない。


 ミズリは全てを失って空っぽになった。ようやく少しずつ何かでミズリの中が満たされつつあるのに、何度も何度も思い知る。

 今更見たくなかった。確かにあった、決して戻る事のない手に入らないもの。

 痛かった。痛くて辛かった。心も体も辛くて辛くて辛くて、こんなに辛いならいらないと思った。


 ―――心などいらない。




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