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ルーファスを運命だと思っていた。
神殿に引き取られてからルーファスはいつもミズリの傍にいてくれた。ルーファスの一番大事な心をいつもミズリの傍に置いてくれているのを感じていた。
ルーファスの腕の中でミズリは聖女の力を出現させた。その奇跡はルーファスがミズリの運命だと証明するには十分な出来事だった。小さな頃は気軽に大好きだと言えた言葉は成長するにつれ言えなくなったけれど、ルーファスの心を疑った事はない。ミズリが12歳の頃ルーファスの態度がおかしくなった時ですら。
婚約を解消しようと思ったのは、神官長に伝えた言葉に間違いはないけれど、それだけではなく、ミズリが聖女でなくなればルーファスの運命でなくなる恐れがあったから。ルーファスの運命でないのだとルーファス自身に否定されるのが耐えられなかった。ルーファスのミズリを見る目が変わるのを見たくなかった。
そうやって自分勝手に立ち回るから、ルーファスの気持ちを蔑ろにするから、自分の浅ましさをまざまざと見る事になる。それがミズリには相応しいのかもしれない。
約2年振りに対面したルーファスはミズリが知るよりもずっと大人になっていた。金髪は綺麗に整えられ秀でた額を露わにしている。顔の輪郭はシャープになり、神秘的な紫にも青にも見える瞳は理知的だ。ミズリが見上げる程に背が高くなり優しそうな印象の中に凛々しさがある。
アリサの後ろでアリサ以上に緊張するミズリを、部屋に入って来たルーファスは見なかった。青紫の瞳に映ったのはアリサただ一人だった。
劇的とも言える変化をミズリは生涯忘れる事はないだろう。
アリサを目にした途端、見開かれたルーファスの瞳。その瞳に浮かんだ名状しがたい熱。固く引き結ばれた口元が解け孤を描いた瞬間の華やぎ。
アリサを呼ぶ声は慈しみに溢れ甘く響いた。アリサに触れる手は優しく繊細だった。初対面にしては近過ぎる距離も二人は気が付かないようで、うっとりとお互いの姿を見つめ合い、一対の鳥の番いのように寄り添う。
昔からルーファスは王子様然としていてもその中身は素朴でミズリ以外の女性を苦手としていた。人前で平気で女性を口説いたり積極的な行動に出たり出来る性格ではなかった。
ミズリとの触れ合いも幼い頃からの延長で子犬がじゃれ合う以上の感情はなかっただろう。ミズリはこんなルーファスを知らない。こんな熱を宿した瞳を、声を、全身で愛しいと叫んでいる。
目の前で繰り広げられる光景が信じられなかった。声を上げなかったのは衝撃が強過ぎたからだ。思考も感情もすべてが真っ白で、どうやって対面を終えたのかミズリは覚えていない。ただ、ルーファスがミズリを一度も見なかった事実だけがある。
聖女と守護者は惹かれ合う。
ミズリの頭の中ではこの言葉がずっと回っている。
対面を終えてアリサはどこか夢見心地だった。いつもは凛とした大人の女性が目元を染め潤んだ瞳をキラキラと輝かせていると少女のように見えた。
寝支度を整えた今も興奮が抜けきれない様子だ。
「凄く緊張したよ。王子様、凄く素敵で吃驚しちゃった。本当に19歳?」
「はい」
お茶の用意をしながら、ミズリは細心の注意を払い無機質な声を発した。興奮気味のアリサはミズリの様子に気付かない。
「5歳も年下なんだよね、しかも10代………。自分が情けない、すごくドキドキしちゃったなぁ」
ミズリには計り知れない理由でアリサが凄い勢いで落ち込みだした。その様子は可愛いらしく、アリサの本当の素顔なのだろう。ルーファスが引き出したのだ。きっとルーファスにしか引き出せないアリサだ。
この時ミズリは己の感情すべてに蓋をしようと決意した。
「………5歳の年の差はこの国では何も珍しくはありませんし、16で成人ですから殿下は立派な大人ですので、10代である事は気になさる程では………」
「そ、そうなの?」
「はい。先々代の聖女様は、王妃様のお母様つまり殿下の祖母にあたりますが、伴侶となった守護者の方は年下で7歳差であったと思いますが」
「守護者っ!?そっ、そんなつもりで言ったんじゃないのよ!?」
たちまちアリサの顔が赤く染まる。見るからに挙動不審だ。
「アリサ様には聖女と守護者の関係を詳しくお話していませんでしたね」
「えっと、守護者の能力は王族に引き継がれていて、守護者は聖女をサポートしてくれるのよね?」
「そうです。後もう一つあります。聖女と守護者はお互いに強く惹かれ合うのです」
本当の事だった。今日の二人を見ていれば一目瞭然ではないか。
最初からミズリはルーファスの運命ではなかった。
ルーファスの運命はアリサ。ミズリの光、この国の光―――ルーファスの光。
これは喜ぶべき事だ。アリサにとってこれ程心強い守護者はいない。
「惹かれ合う?」
「はい。わたしにはお二人が惹かれ合っているように見えました。殿下は間違いなくアリサ様の運命です。アリサ様は殿下をどうお思いになりましたか?」
アリサはしどろもどろになりながら、恥ずかしそうにルーファスへの思いを語った。ミズリは微笑みながら話を聞いていた。
誰かの嘲笑う声を聞いた。それはミズリ自身だったのかもしれない。
何を奪われても、何を犠牲にしてもかまわない。そう願ったのはミズリだったのだから。
神は願いを叶えてくれただけ。慈悲深く残酷に、覆る事のない運命を前にミズリはただひれ伏すしかない。
ルーファスとアリサの噂は瞬く間に広まった。
ルーファスとミズリの婚約解消は二人が出会う前の話であり、アリサにミズリの守護者の話をしていなかったのもあって、アリサは知らずに済んだ。一生知る必要はないとミズリは思っている。
ルーファスとの出会いでアリサの力は安定し出した。アリサは力が大き過ぎて力の調節がわからない。一度祈り場に連れ立った時にあまりに大量の力を一度に神聖樹に灌ごうとしてはじき出された。アリサには蛇口がない状態なのだ。力の調整を覚えなければ聖女の役目は果たせない。今はその調整をルーファスに支えられながら覚えている。
ルーファスがいればミズリは必要ない。まだ聖女の力を失っていないミズリはアリサに代わって祈りを行う日々に戻った。
祈りを終えて、その日もミズリは神聖樹の根元で気を失っていた。全身に注がれる温かな癒しの力を感じて意識がゆっくり浮上する。
目を開けるのが怖い。もう慣れてもいい頃なのに、いつまで経っても目を開ける瞬間が怖かった。だから、目を開ける前に口を開く。
「バージル様」
額にあった大きな手が離れるのを確認してミズリは目を開けた。
そこには思い描いたとおりの見事な銀髪を一つにまとめ鋭い銀色の瞳をした強面の青年がミズリを見下ろしている。
「まだ起きるな。顔色が戻ってないぞ」
遠慮を知らぬ手がミズリの額を押し、起き上がろうとするのを阻止する。彼はルーファスの片腕で小さい頃からミズリとルーファスの面倒を見てくれていた兄的存在だ。それと同時に彼には王族の血が流れている。聖女を癒す事が出来るのだ。
ここは禁域だ。ルーファスでさえ勝手には入れない。バージルがここにいるのは神聖樹に招かれたからだ。もう何度もこうしてバージルに癒して貰っている。
バージルには申し訳ないと思うが、彼は一見冷たそうなその外面からは想像も出来ない程に面倒見が良く情に厚い。ミズリは子供の頃彼の伸ばした銀髪をよく引っ張り遊んだのを思い出してくすりと笑った。
「何がおかしいんだ?」
目ざとくミズリが笑ったのを見てバージルは不思議そうだ。
「バージル様の頭が剥げなくて良かったと」
「ん?」
バージルが自分の髪に手をやって破顔した。剥げたらミズリが責任を取ってミズリの茶色の髪で鬘を用意すると言っていた事を思い出した。
「責任を取らずに済んでよかったな」
軽口をたたき合いながらもバージルはミズリに力をそそぐのを止めない。
不思議だった。ルーファス以外の人がミズリを癒すのが。ルーファス以外の人に癒されるのを受け入れて平気でいられる自分が。
「バージル様、もう大丈夫です。ありがとうございます」
今度は止められず起き上がれた。それから暫く二人で神聖樹が作る木漏れ日を見ていた。風が揺らす枝の音や鳥の囀りが心地良く緩慢な時間が流れた。
バージルがおもむろに呟いた。
「婚姻式の日取りが決まった」
誰のとは言われなくてもわかった。ミズリは小さく頷く。
「そうですか」
素っ気無く響いただろうか。元婚約者に対して冷た過ぎただろうか。正しい反応がわからない。バージルの探るような視線を感じるが、他に言葉は見つからない。
「………還俗する気は、やはり無いか?」
聖女でなくなるミズリへの対応は慎重にならざるをえず、そんな中でミズリの処遇には2つの選択肢が用意された。このまま神官として神殿に留まるか、王族との婚姻を条件に還俗するか。ミズリは還俗を望まなかった。
誰にとっても一番いい方を選んだつもりだが、バージルには違ったようで、事あるごとに還俗を薦めてくる。
バージルはミズリにも幸せになる権利があると思っている。ようやく16歳を迎えて成人したばかりのミズリのこれからの人生は長い。バージルには不憫でならないのだろう。しまいにはバージルとミズリの偽装結婚を画策しそうな勢いだった。
バージルは勘違いしている。
ミズリはもう充分だった。ミズリの願いは叶ったのだ。これ以上の幸福を望むのは僭越だ。二人の結婚を見届けたら、ミズリは王都を離れて地方の神殿に身を寄せる予定だ。
心は穏やかだった。もう何も心配する事はない。聖女としてミズリが出来る最善を尽くした。
神はミズリの願い通りに光を与えてくれた。ミズリに代わってアリサがこの国を守ってくれる。犠牲になったアリサはルーファスが誰よりも幸せにしてくれるだろう。ルーファスは本当の運命の相手と廻り会えた。
人智の及ばない神の采配は上手く出来ている。もう充分だった。
婚姻式の日は見事な快晴だった。空の澄んだ青に神聖樹の青葉が映えて美しかった。幸福に包まれた二人は太陽よりも眩しく輝いていた。
歓喜と共に迎えられたアリサはルーファスに支えられ聖女であり将来の王妃になった。
ミズリはこの日聖女の称号を外れ一神官となった。あまりにも短い在位と成人までは民衆の前に姿を見せない仕来たりのため、人々の記憶には残らない聖女だった。