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神聖樹の内部は不思議な空間だ。内部に入るにはミズリが幹に手をかざせばいい。幹の中と言っても薄暗いわけではない。頭上から光が降り注ぎ、足元には柔らかい草が生えている。四方は木肌に囲まれ中央に泉がある。聖女は泉の中に身を沈めて力を解放する。
ミズリは泉の中央に立った。泉と言っても水の感触はなく衣装が濡れる事はない。
ゆっくりと呼吸を整えている時にそれは突然始まった。
風もないのに草がさわさわと揺れ始めた。泉のほとりの一株が脅威的なスピードで成長始める。ミズリの身長くらいまで育ったかと思うと花をつけた。薄紅色の何枚もの花弁を持つ花は美しいがまずその大きさに驚かされる。息を詰め見守る内に花は落ち実がなった。拳くらいのだった実は見る間に大きくなり、人の大きさくらいになった。唖然と見つめるミズリの目前でそれは光を放ち徐々に大人の女性の姿へと変貌を遂げて行く。
見た事もない衣装に身を包んだ女性らしい柔らかな曲線を描く肢体、美しく伸ばされた艶やかな光沢を放つ黒髪。完璧なアーチを描く眉に、閉ざされた瞼には扇のように美しく並ぶ睫毛。淡く彩られた唇は瑞々しい。精緻に描かれた白皙の美貌よりも何より、ミズリの心を捉えたのは彼女の内側から感じる濃く強い力。
意識のない女性の体をミズリは抱き留めた。自分より重い体重を受け止めきれず二人もろとも泉に倒れた。
女性の瞼は固く閉じたまま人形のようにも見えたが、ミズリの腕の中には確かな温もりがある。豊かな胸が上下して微かな息遣いを感じる。
(なんて純度の高い圧倒的な量の力)
ミズリの瞳から涙が盛り上がり、頬を流れ落ちる。
聖女ではない。聖女なんかではあり得ない。彼女は神の愛し子だ。ミズリの光、この国の希望の光だ。
涙を止める術がなく女性の頬に落ちる。嗚咽はやがて泣き声に変わった。ミズリは声を上げて泣いた。涙が枯れて気が済むまで声を上げ続けた。
次にミズリが気付いたのは自室のベッドの中だった。痛む頭と重い瞼を持ち上げ、状況を理解出来ずぼんやりと視線を彷徨わせた。
ミズリのベッド傍らに神官服に身を包んだ白髪の年配の女性が腰かけていた。
「ミズリ、気分はどうですか?」
「神…官……長、様」
酷くしわがれた声が出た。体を起こしながら自分の喉を抑えた。神官長が差し出したコップを受け取り飲み干すと神官長が話し出す。
「昨日貴方と黒髪の女性が神聖樹の傍で倒れていました」
「!彼女はっ!?彼女はどこにいますか、無事ですか!?」
ベッドから飛び出しかねないミズリを神官長がやんわりと押し留める。
「落ち着きなさい。彼女はきちんと保護しました。未だ目を覚ましませんが、体に異常はなく、今はただ眠っているだけです」
「よかったぁ………」
安堵のあまりミズリは力抜けて再び倒れそうになった。
「彼女は、聖女ですね?」
居住まいを正して頷く。神官長は薄いながら王族の血を引く女性だ。彼女の中の聖女の力を感じ取れるのだろう。
「彼女は素晴らしいお力をお持ちです。聖女とお呼びするのは烏滸がましい、神の愛し子です」
「そうですか………それ程の」
神官長が思考に耽るように言葉を一旦切るとミズリを見つめた。
「これは前代未聞の出来事です。全て話してもらえますね?ミズリ、貴方が何に悩み、苦しんでいたのかも全て」
ミズリは深く息をついた。ようやく、ようやく全てを話せる時が来たのだ。ミズリの罪の全てを隠さずに済む。
ミズリは洗いざらい話した。ミズリの力が衰え出し、遠からず聖女でなくなる事。あらゆる文献を漁り必死に力を取り戻す方法を探した事、国の滅亡の可能性を知りながら誰にも打ち明けられなかった事。神に縋って祈り続けた事。それら全てを神官長は口を挟まず黙って聞いていた。
どれ位の時間が過ぎただろう。ミズリが全て話終えると神官長がそっとミズリの手を握った。無意識に固く握り締めていた手は血の気を失い白くなっていた。その手を神官長が優しく解く。
「ずっと一人で苦しんでいたのですね。私達が不甲斐ないばかりに貴方には辛い思いをさせました」
何を言われたのか分からなかった。これはミズリの罪の告白で神官長から出る言葉はミズリへの断罪が相応しい。
「違いますっ、これはわたしがっ」
「ミズリ、私達神官は聖女のために存在します。貴方が私達に話せなかったのは私達が不甲斐なかったからに他なりません。貴方が罪だと思うのならば、それは私達の罪でもあります」
ミズリは激しく首を振った。そんな理屈はとても受け入れられない。
「違います!わたしが愚かだったのです!」
差し出された手を頑なに拒んでいたのはミズリだ。
聖女の力が戻るかもしれない一縷の望みを本当はどこかで捨て切る事が出来なかった。ルーファスを失う恐怖があった。聖女でなくなれば無価値になる自分を憐れんでいた。何より国を滅ぼすかもしれない恐怖は大き過ぎて、とても口出す事さえ出来なかった。全てミズリが愚かしく弱かったからだ。
「いいえ、貴方は良く耐え頑張りました。だからこそ、神は貴方の願いを叶えて下さったのです。それでも貴方が罪を背負うのならば、一人で背負う必要はありません。私達全体の罪なのです。貴方は聖女としてそれを許さなければなりません」
「神官長様………」
神官長は乱れたミズリの髪を優しく梳いた。
優しくされればされる程ミズリは自分の愚かさを痛感せずには居られない。
「申し訳ありませんでした」
深く頭を下げた。
「その言葉はルーファス殿下にこそ必要でしょう。殿下も随分と心配しておられたご様子です。国にも報告せねばなりません」
事の重大さを思えば一刻も早い方がいい。神官長は気遣わし気にミズリを窺う。
ミズリにはずっと決めていた事がある。この先ミズリがどうなろうとこれだけはしなければいけないと思っていた。
「神官長様、一つだけお願いがあります。全てをお話するその時にルーファスとわたしとの婚約の解消をお願いして頂きたいのです」
神官長は驚きの声を上げた。聖女と守護者の別れは死別しかありえない。
「ミズリ、彼は貴方の運命ですよ。それを」
「わたしは最も不名誉な聖女になるでしょう。ルーファスは稀に見る力の強い守護者です。聖女ですらないわたしにルーファスは相応しくありません」
「あの殿下が納得されるとは思えませんが………決意は固いのですね?」
ミズリがしっかりと頷くのを見計らう様にして扉がノックされ、神官が顔を出す。
「失礼致します。あの例の女性が目を覚まされました」
見開かれた黒曜石のごとき瞳には混乱と戸惑いと不安が綯交ぜになって表れていたが、表面上は取り乱すでもなく落ち着いているように見えた。強い女性なのだろう。立派な大人の女性、自分を律する術を知っている。
「ここは本当に異世界?私は、今朝出勤するために家のドアを開けただけですよ?それが異世界………」
女性はワタベ・アリサと名乗った。何故自分がここにいるのかわからないと言った。見慣れない部屋に見慣れない人達。神官達の髪や瞳の色を見て、それは天然なのかと聞いたところによると彼女の世界ではこちらのように多種多様な色を人々は纏わないようだ。
異世界と聞いて動揺したのはアリサだけではない。ミズリも又混乱の中にいた。アリサがこの国の、ましてやこの世界の人間ですらないと誰が予想出来ただろう。
(事情を知らない、全く関係のない人間を巻き込んでしまった………)
その事実がもたらした衝撃は凄まじかった。
まさか異世界からミズリの希望がやってくるなんて思いもしない。けれど、それを願ったのはミズリだ。神は願いを叶えてくれただけで、ミズリの罪がもう一つ積み重なっただけ。
「仮にここが異世界だとして、何故言葉が通じるのでしょうか?私は日本語をしゃべっていますし、皆さんの言葉も日本語に聞こえます」
アリサの疑問に答えたのは神官長だ。
「私達には逆に聞こえます。アリサ様がこちらの言語を話されている。この齟齬はアリサ様が神の祝福を受けておられるからでしょう」
「神の祝福………」
アリサはピンとこないのか不思議そうだ。
「神官長様、ここからはわたしが説明を致します」
黒曜石の瞳がミズリを捉えた。その透徹とした眼差しに見据えられ、怖気づきそうになる自分を叱咤した。
「わたしはミズリと申します。どうかこれだけは信じて頂きたいのですが、私どもはアリサ様を傷つける事は決して致しません。神に代わってアリサ様をお守りすると誓います」
大袈裟な物言いにか、自分よりも明らかに年下の小娘に言われたからかアリサは驚いた顔をした。
「アリサ様にも沢山の疑問や不安がおありでしょうが、まずは、この国についてお話しさせて頂けないでしょうか?」
「国について?なんだか話が大き過ぎる気がするけれど、それが必要なのね?」
「はい、アリサ様の身に深く関わる話になります。」
アリサはミズリの話を興味深く聞いた。アリサの常識では考えられない世界なのだろう。
アリサの世界では神は空想上の存在に等しく心の支えとしての役割が強いそうで、アリサ自身は無神論者という事だ。
実際に神聖樹があり、アリサ自身が神聖樹の中から現れたと知ると心底驚いた様子だった。
「なんだか凄い世界なのね。聖女が国を守っているって事よね。聖女の負担が凄そうだけど、守護者だったかな、助けてくれる人がいるのなら良かったわ」
御伽噺を聞いている気分なのだろう。これがお伽噺などではなく現実であるのをすぐに知る事になる。
「聖女によってこの国は長らく平和と繁栄を享受して来ました。けれど、当代聖女においてその限りではなかった。原因は不明ですが聖女の力が衰え始めました。歴史をみても力を失くす聖女はいない」
「それって凄く大変な事なんじゃ」
「そうです。ですから、神が奇跡を授けて下さった」
「ちょっと待ってっ」
ここへ来て話の流れが何処へ向かうのか察したアリサが制止をかけた。
「まさかその奇跡が私だなんて言わないよね?わたしはただの一般市民だよ!?絶対そんな大層な者じゃないから!」
「いいえ、貴方は聖女しか入れない祈りの間に出現しました。何より貴方から圧倒的な神力を感じます。聖女、いいえ聖女を凌ぐ神の愛し子です」
「ありえない。だってわたしはこの世界の存在すら今まで知らなかったのよ?それが、国を守れって、そんな無茶苦茶な………」
言いながらアリサは顔色をどんどん白くして言った。事の重大さは平静でいられる方がおかしい。
「待って、待って待って、私、元の世界に帰れるの……‥?」
部屋に居る誰もが息を止めた。
これが恐らくアリサを元の世界から引き剥がす一撃になる。ミズリはぐっと腹に力を入れた。
「神以外にこの世界のどこにも貴方を元の世界に戻す方法を知る者も戻す力のある者も存在しません。この国は貴方がいなければやがて滅びます」
「わからないよ!そんな事を言われても!恋人がいるの!家族がいるのっ友達だって仕事だってあった!」
悲鳴じみた声を上げてアリサは崩れた。辛うじて保っていた心が折れたのだ。
ミズリが差し出した手をアリサは拒絶した。
「触らないで!………今は駄目、これ以上何も聞きたくない。お願いよ、一人にして」
「アリサ様」
「お願いだから!酷い事を言う前に、消えて」
両手で自分の体を抱くように蹲るアリサ。
神官長に促されてミズリは部屋を後にした。胸にはいつまでも蹲るアリサの姿があった。一人の女性の人生を歪め、奪った事実がいつまでも重く圧し掛かった。
あれからアリサは必要最低限しか部屋から出て来ない。アリサの世話はミズリが請け負った。ミズリは祈りの時間以外の全てをアリサに捧げた。アリサは口を開かず日中ぼんやりと過ごす。夜中魘される事もあれば泣き出す事もある。ミズリはアリサの部屋の扉に背を預けてそれを聞いている。アリサから離れられないのだ。
恋人がいると言っていた。アリサは夜中無意識に何人かの名前を口に出す時がある。極親しい間柄なのだろう。その人達は今頃アリサを心配して探しているだろう。
アリサだけではない。ミズリが人生を奪ってしまったのはアリサだけじゃなく、アリサを愛している人の人生も奪ってしまった。
ミズリは自分が恐ろしくなる。償う方法がわからないのに、どれだけ罪深くなるのだろう。
食事の載ったトレーを見てミズリは立ち尽くした。
食事は出された時のまま一つも手をつけられていなかった。アリサはもともとそうなのか、食欲がないだけなのかわからないが食が細い。いつも完食をしないが、今日はとうとう全て残してしまった。
ずっとアリサを見守っていた。心が落ち着くまでは見守っていようと思っていたが、これは駄目だと思った。
声を掛けずにアリサの部屋に押し入った。アリサはベッドの上で掛け布に包まっている。ミズリがトレーを机に置くとアリサはピクリと小さく反応したが、その場を動かない。
「アリサ様」
「………」
「お食事を召し上がって下さい」
「………」
「これ以上お食事を抜いては体が持ちません」
「………そんなの私の勝手でしょ」
「ご自分を痛めつけるような真似は止めて頂きたいのです。貴方が痛めつけるべきはご自身ではなくわたしであるべきです」
「………なんとでも言えるよね?私はこの国に必要な人間のようだし。取りあえず死なれては困るって思っているだけでしょ」
アリサは掛け布の中からじっとミズリを見ている。ミズリはトレーの中から小型のナイフを取り上げた。それは肉を切るためのもので、もちろん人も切れる。
「どこを、切りましょうか?腕がいいですか、足がいいでしょうか?それともご自分の手でなさりたいでしょうか?」
そう言ってミズリの腕の内側に刃をあてて滑らそうとする。
「やめて!」
アリサが慌てて飛び出してミズリの手を払いのけた。ナイフが床を転がる。
愕然とするアリサを前にミズリは座り込み床に頭を付けた。
「アリサ様のつらいお気持ちの半分もわたしは理解できません。あなたをこのような状況におしやったのはわたしのせいです。貴方はわたしに何をしても許されます。罵っても殴ってもかまわない。死ねというのなら死にます。ご自分を傷つけるくらいならわたしを傷つけて下さい。わたしを憎んでください。それでもっ、貴方を元の世界へ返して差し上げる事だけは出来ないっ。どうしても、それだけは、どうか許して下さいっ!」
ミズリの腕が上に引っ張られた。上体が持ち上がりアリサがミズリの腕を掴んでいた。アリサの顔が苦し気に歪んでいる。そのままミズリを立たせる。ミズリの服に付いた埃を払ってくれる。
「アリサ様」
「こんなことしないで。する必要なんかない」
アリサはとても悔いている。自分よりも年下のまだ10代の女子を追い込んでしまった事。
「………本当は分かってる。今回の事は誰のせいでもない、天災みたいなモノだって。嵐にあったら家を壊されても命を失っても誰にも文句なんかいえないの。ああ、運が悪かったなって思うしかない。神さまなんてそんな理不尽な存在で、だから、私にとっては天災なの」
出来るだけ軽く聞こえるように話しても、その声は震えている。ミズリがその手を握った。今度は振り払われなかった。
「でもね、直ぐには受け入れられなかった。元の世界が恋しいし、大事なものを沢山残してきてしまったから。だから、人を異世界転移出来るくらいなら説明の一つもしてからにしろーって腹が立ったの。ミズリさんがとても私に良くしてくれるから甘えて八つ当たりしちゃったの。ごめんなさい」
「どうして、アリサ様が謝るんですか?そんなの、当然じゃないですか、わたしはそれだけの事をしたんです」
アリサは否定するように顔を横に振った。
「ちゃんとわかってるから。これが誰のせいでもない事も私が帰れない事も私に役目がある事も。ただ、もう後少しだけ時間が欲しい。逃げたりしないから、ちゃんと向き合えようになるから」
アリサは微笑んだ。それは初めてミズリに見せてくれた笑顔で、少し歪んでいて笑顔とは言い難い不格好なものだったけれど、アリサの強さの表れだった。
「お一人で泣かないでください。私に八つ当たりでも何でもして下さい。悲しみも怒りも憎しみもわたしが全部受け止めます。わたしに出来ることなら何でもします」
嘘ではなかった。アリサのためにミズリは全身全霊をかける覚悟だった。信じて欲しくてアリサを見つめると黒曜石の瞳が潤む。それがとても綺麗だと思った。
「うん、うん、ありがとう。あのね、この国の事、聖女の事を教えてくれる?私、何も知らないから、ちゃんと知りたいと思う」
アリサはやはり強い女性だと思う。強くてとても優しい女性。嘆くアリサを見て、ミズリは罪悪感で謝ることばかり考えていた。でもアリサには謝罪よりも相応しい言葉がある。
「アリサ様、ありがとうございます。貴方が私の光で、この国の光で本当に良かった」
心からの尊崇と恭順を示す為にミズリは跪いた。アリサはやっぱり慌てているが、ミズリはどうしてもそうしたかった。アリサのスカートの裾に額を付けた。
アリサ以上の人はいない。本気でそう思ったのだ。
それからアリサは徐々に口数が多くなって外にも出るようになり、声をあげて笑う様にもなった。アリサがこちらに来て一か月が過ぎていた。
国への報告は神官長が全て行ってくれていた。ミズリやアリサが矢面に立つ事はなく、神殿の中で守られていた。
ミズリの処分は保留のままだが婚約の解消は承認され、ルーファスだけが納得していない。
ルーファスからは何度も手紙が来ていた。会って話がしたいと書かれた手紙に返事をかえせずにいる。
神官長からはいつまでもこのままではいけないと幾度となく忠告を受けている。アリサのお披露目の事もある。
ミズリはルーファスからの手紙を手に取った。
アリサを最初に国王達と対面させるのはハードルが高いだろう。アリサの世界では身分が殆どなかったと言う。ルーファスなら穏やかで優しい気質だ。アリサと対面するなら王太子でもあるルーファスは適任だった。
ミズリはペンを手に取った。何を書けばいいのか何時間も迷って、神子を紹介したいと言う事務的な事しか書けなかった。それ以外はとても書けなかった。これを受け取ってルーファスがミズリに愛想を尽かしてくれればと思った。




