2-5
ルーファスはミズリに手紙を出し続けた。ミズリからの返事は一向に無く、神官長からミズリへの面会は神子が落ち着くまで待って欲しいと言われる始末。ルーファスは日々表情を消して行く。情緒不安定が能力の暴走を引き起こすために、感情を閉ざさなければ自分を制御出来なくなっていた。
穏やかなルーファスは消えて、ただ淡々と時が過ぎるのを待っている。
1か月後、ようやく叶ったミズリと神子への面会で、またしてもバージルは思いもよらない事態に直面する。
神子はこの国では見られない黒髪黒瞳の美しい女性だった。年の頃はバージルよりも下、ルーファスよりの上に見える。
神殿の一室を借りて行われた面会だ。扉の正面に神子が座り、その背後にミズリが立っていた。
神子との面会と言ってもミズリとの話し合いが主目的だったのでバージルは神子よりもミズリがきちんとそこに居る事に安堵した。
まずはミズリの確保である。ルーファスと話し合った通りに神子の相手はバージルが引き受けるつもりだった。
久しぶりの対面だ。ミズリしか目に入らないであろうルーファスを見やった。
ルーファスは神子を前にしておかしくなった。おかしくなったとしかバージルには見えなかった。
直前までの緊張による厳しい顔は鳴りを潜め、神子の前に立ち王子として相応しい優雅さで王族として最上級の礼をとると神子に優しく微笑みかけた。
「私は、この国の第一王子でルーファス・ドリシュ・ディ・ファストリアと申します」
バージルは息を飲む。ルーファスが正式な名乗りを上げ、その上“ディ”を強調したからだ。正式な名前を明かすのは相手への敬意と異性には違ったアピールがある。“ディ”は未婚の男性につけられる。要するに相手への好意をわかりやすく表しているのだ。婚約者を持つ者はまず“ディ”を入れたりしない。神子がこの国の事情をしらなくても、ミズリは良く知っている。
神子の後ろの控えているミズリを伺うが、身長差があだになって俯いているミズリの表情は良くわからない。
ルーファスが神子に向けた微笑みは、好意を持つ者以外には向けてはいけない類のものだ。案の定、神子は真っ赤になっている。落ち着いた女性に見えたが、その姿は可愛らしい少女のようだった。
神子は慌てて立ち上がり頭を下げた。ルーファスは神子の一挙手一投足を食い入るように見ている。
「わ、わたしは、渡部亜理紗と申します。渡部が家名で亜理紗が名前です」
「アリサ、とても可愛らしい名前で貴方に良くお似合いです」
噛みしめるように呼び、アリサの瞳を覗き込む。
アリサが狼狽えているのが手に取るようにわかる。視線を左右に動かして俯いた。
「あ、ありがとうございます」
「私の事はルーファスをお呼び下さい。どうぞ、こちらへ」
アリサの手を取ってそのままルーファスの隣の席へと誘導する。流石に手を握ったままではないが、アリサへの距離が近過ぎる。王子然とした立ち居振る舞いがあまりに優雅なせいでアリサは流されている。
なんだ、これは。バージルは唖然としている。ミズリに口説き文句一つ言えなかったルーファスが女を口説いている。熱心にアリサの事を聞き出しアリサから目を放さない。ルーファスの瞳には確かな熱がある。ミズリに嫌われるのが怖いと言って触れるのを躊躇っていた男とは別人だった。
神子の緊張は解けたのだろう。ルーファスと同じくらい熱心にルーファスを見つめている。お互いに意識を向け過ぎていて周りを気にしていないように見える。
二人の高揚がバージルにまで伝わって来る。
バージルは怒鳴りたいのを我慢した。ミズリが息を殺して気配を消しているからだ。ルーファスはこの部屋に来てただの一度もミズリを見なかった。ミズリは声一つ発していない。
ミズリをこの部屋から連れ出してやりたかった。これは違うと言ってやりたい。だが、何が違うのかバージルにもわからなかった。
部屋の中はルーファスとアリサの楽し気な話声と笑い声だけが響く。
この異様な光景は面会が終わるまで続いた。
二人が退室してバージルは真っ先にルーファスの胸倉を掴んだ。ルーファスの顔が歪む。殴らないだけバージルはまだ冷静だ。
「ルーファス、どういうつもりだ?」
締め上げられてルーファスの熱が浮かんでいた瞳が徐々に冷静さを取り戻し、顔面が蒼白になった。
「ミ、ミズリは?」
「出て行ったさ。お前とは一言も話さずにな」
掴んだ手を乱暴に放す。ルーファスはよろめき力なく椅子に座り込んだ。バージルはルーファスの対面に乱暴な動作で腰かけて足を組む。それでも気が収まらず机の脚を蹴る。ルーファスがビクリと反応した。
「正気に返ったか?」
「ミズリはどうしていた?」
今更それを聞くのか。本当に一度もルーファスはミズリを見ていなかったのだ。
「黙ってお前達を見ていた。それ以外わからん。それよりわかっているのか?力を失う聖女は前代未聞、ただの平民になった女が王太子の妃になれる可能性は限りなく低い。それなのにお前のあの態度。俺はてっきりお前はミズリを説得するつもりだと思ってが、解消を見せつけたかっただけなのか?それなら大成功だ!俳優も真っ青な演技だったぞ!」
苛立ちが再燃して来て最後は吐き捨てるように言い放つ。いくら相手側から婚約解消を申し出ていようとも、ルーファスの態度は最悪だった。何故いつもルーファスはミズリ相手では問題行動を起こすのか。
ルーファスが呻いた。血の気の失せた顔。これ程覇気のないルーファスは見た事がない。
「………演技、じゃない……」
「はあ?」
ルーファスは頭を抱えた。
「演技じゃないんだ。アリサを見た途端、アリサ以外どうでも良くなった」
バージルは眉間に皺を寄せ、低く冷たい声を出した。
「………ミズリもどうでも良かったのか?」
弾かれたように上げたルーファスの顔は歪み瞳には拭いきれない焦燥がある。
「アリサを見る直前までミズリの事しか考えてなかった!なのに、何故っ」
本気で憤っている様子にバージルは困惑した。
「わざとじゃないのか?」
「そんな事をするわけがないだろう!」
バージルは眉を顰める。
「………神子の事をどう思ったんだ?」
ルーファスは酷く動揺した。バージルから視線を反らし俯いた。
「………嬉しくて、アリサが愛おしくて傍にいたくて、それ以外考えられなかった」
罪を告白する子供のようだった。やがてルーファスの握った拳が震える。
「ミズリがいたのにっ、ミズリを愛しているのにっ!何故アリサがこんなにも愛おしいんだ!?」
振り上げた拳が何度も何度も机を叩く。
まさか、という思いがバージルにはある。口の中が異様に乾く。
「………何だよ、それは。お前の相手はミズリだろ。それじゃまるで」
そこまで言って唐突に言葉を切った。一気に空気が張り詰めた。顔を上げたルーファスを絶望が彩る。
―――――それじゃまるで、アリサが運命じゃないか。
とても言葉には出来なかった。
それからもミズリとルーファスは二人で会う事は出来なかった。ミズリが必ず神子を伴うからだ。
神子がいるとルーファスの意識は神子に奪われる。どんな抵抗を試みても運命が嘲笑うかのように無駄に終わった。神子に会っている間はこの世の春のような幸せに浸かっていられるが、面会が終われば絶望が待っている。ルーファスの精神の落差は尋常ではない。
ルーファスの苦しみを知るのはバージルだけだった。苦しみを何処へも吐露出来ず、ルーファスの中に澱のように静かに降り積もって行った。
バージルは暫く距離を置く事を進言した事があるが、すでにそんな段階ではなくなっていた。
神子もルーファスに夢中になっている。神子がルーファスに会いたがるようになればルーファスは無視出来ず、二人での逢瀬を繰り返す。ミズリがその場にいない事だけが救いだった。
誰の目にも二人が運命なのは明らかだ。当然の流れでルーファスとミズリの婚約は解消された。
アリサはこの国には絶対に必要な存在だ。アリサの守護者がルーファスならばルーファスを差し出す。それが当然の選択だった。王族であるバージルや、まして王になるルーファスにそれ以外の選択はない。この時ルーファスの心が折れたのだ。
表面上ルーファスは落ち着いているように見えた。苦しむルーファスを見る事もなくなった。それでもバージルは不安を感じて度々ルーファスに付き合って神殿を訪れた。
神子は善良な女性だった。優しく健気で、関係のないこの国のために懸命に役割を受け入れてくれようとしている。この国の者としてただただ頭の下がる思いだったが、ルーファスと二人でいるところはあまり見たい光景ではない。いつも軽い挨拶を交わして二人とは別の場所で時間を潰すようにしていた。
その日も特に当てがあるわけではない。着いた場所には立派な巨木がある。その太い幹の根元には人が倒れている。
神聖樹を見上げた。ここは招かれなければ立ち入れない禁域。そういう事なのだろうと納得した。
誰に知られる事なくバージルの禁域通いは続いた。
ミズリは今日も泥のように眠っている。ミズリの額に手を当てて力を流し込む。ミズリを癒すのは何もルーファスにのみ与えられた能力ではなかった。
聖女と自分達の関係を考える。聖女と力を持った王族は惹かれ合う。惹かれ合うとは曖昧な表現だが、バージルはこうしてミズリに力を譲渡して初めてわかった。
心地よいのだ。我々王族の持つ能力は聖女と恐ろしく相性がいい。それが運命と呼ばれる相手なら強烈なのではないか。神子と過した後のルーファスは夢見心地で恍惚としていた。
そしてミズリを見て感じた事がある。聖女は器なのではないか。神の力を受け止める器。
器の大きさや素材は様々あって一様ではない。どのような器も強い力を受け止め続けて行けばやがて器にひびが現れる。そのひびを修復するのが王族の役割ではないか。ただこのひびを修復するのに何でもいいわけではない。その器にあった素材でなければ、一時は修復出来たとしてもまたそこからひびが生じ、力は零れ落ちる。ひびが広がれば器に溜める力は少なくなり、やがて器は粉々に壊れるだろう。
ミズリの力は大分弱まっている。バージルの力もまた一時凌ぎにしかならない。
「バージル様」
ミズリの若草色の瞳がバージルを見上げている。額から手をのければミズリはゆっくりと起き上がった。
「ありがとうございます」
「まだ寝てていい。顔色が悪い」
「いいえ、もう充分です。充分癒して頂きました。守護者でないバージル様に頼ってしまって、申し訳なく思っています」
「大した事はしてないぞ。それでも申し訳ないと思うなら俺の話に付き合え」
バージルらしい強引な物言いが面白かったのかミズリは少し笑みを浮かべた。
「わたしで宜しければ」
バージルは満足そうに頷いた。
最初は他愛無い話をした。バージルが視察に行った町の事、執務での失敗や甥や姪の話。ミズリが笑えそうな話。思えばミズリと二人きりでこんなに長く話をした事はない。
ミズリは上品に微笑んでいる。顔一杯に笑顔を浮かべていた幼い子供ではなく、立派な大人の女性になっていた。それを眩しくも思うし、痛ましくも思う。
ミズリは16歳を迎えていた。辛い経験が歳以上の落ち着きを与えていても咲き始めの野薔薇のように愛らしい。ルーファスが夢見たミズリだ。そのミズリの隣に居るべきルーファスはいない。
「還俗はしないと聞いたが」
「はい、地方の神殿でお世話になろうと思います」
「他の王族に会う気はないのか?」
それはずっとバージルが考えていた事だった。ルーファスが相手ではなかったのならミズリの候補は四人いたのだ。あの時ルーファスが相手だと決めつけずに他の候補とも会わせるべきだったのだ。ミズリの運命がいるのなら、今からでも遅くはないのではないか。
「―――必要ありません」
有無を言わせない断固とした拒絶だった。ミズリには頑固なところがある。ルーファスも時に手を焼いていた。その頑固さが一人で何年も耐えルーファス達に秘密を悟らせなかった。きっと恐ろしかっただろうに。その方法が正しかったとは思わないが、それでも。
「お前は頑張ったよ。この国を守る立派な聖女だ」
大臣達もルーファスの手前敢えて厳しい事を言っていたが、誰もがミズリの頑張りを苦しみを知っている。ミズリはたったの12歳だった。逃げ出さず、責任の取り方も自分で決めた。その姿は潔く称賛に値する。ミズリからの婚約解消もこうなってしまった今となっては国としては有難い事であった。
ミズリが虚を突かれたような顔をする。無防備で幼げでバージルの手が伸びた。幼子にするようにミズリの頭を撫でる。
「バージル様っ!」
「何だ?昔はこうすると喜んでいただろう?」
「子供の頃の話ですっ」
ミズリは慌てて髪を整える。口元は微笑んでいるから何度でも撫でてやりたい気がして手がうずうずして困った。
「なあ、ルーファスとはこのまま会わないのか?奴はずっと手紙を送っているだろう?」
婚約は解消されて、神子との婚姻は決定事項。そんな中で会う必要があるのかと諭しても譲らなかった。気持ちの落としどころがないのだろう。何らかの決着をつけたいのかもしれない。それはミズリにも言えるだろう。
ミズリは不自然な程ルーファスの話題を口にしないし、決して会おうとしない。ミズリにルーファスへの気持ちがなかったとは到底思えない。全てを吐き出せば楽になる、そういう方法もあるのだ。
「一度話し合う事も必要だと思うぞ。ミズリにはルーファスを詰る権利がある。殴ってやればれいい。泣いてわめいたっていい。ミズリの気持ちをぶつけてやればいい」
「………言いたい事がないのです」
「こんな時まで聖女である必要はないんだぞ」
「違います。そうではないのです。上手くは言えないのですが………」
自分の胸に手を当てて慎重に言葉を紡ぐ。
「わたしは、アリサ様のお相手がルーファスで良かったと思っています」
いくら清廉潔白な聖女でもそれは直ぐには信じられない言葉だ。不信が顔に出たのだろう、ミズリが言葉を続けた。
「ルーファスはわたしが世界で一番信頼している人です。これ程アリサ様を託すのに相応しい人はいません。アリサ様は絶対幸せになります。ルーファスが幸せにしてくれます。だから私は何も心配していないし、ルーファスに言いたい事もないのです」
そう言って、ミズリはとても綺麗に微笑んだ。
バージルは眩しそうに目を細めると徐にミズリに向かって両手を広げた。バージルの不可解な行動にミズリが小首を傾げる。
「?どうかしたのですか?」
「いや、抱き締めたくなった。いつでも俺の胸に飛び込んで来ていいぞ」
バージルは芝居がかった動作で胸を張る。
「大変有難い申し出ではありますが、今は遠慮しておきます。バージル様には沢山の女性が列を作って順番待ちをしているとお聞きしていますよ。わたしは一番最後でいいのです」
「なんだ、今ならサービスしてやれるのに」
堪らず、くすくすとミズリが今日一番の明るい笑い声をあげた。
この時、二人の死角で二人の話を聞いていた人物がいる事を神聖樹だけが知っていた。はらはらと落ちる葉は、流れる涙を隠すように慰めるように舞っていた。