地下の王
長い階段を下りて辿り着いた先は、私がブランの鼻を持っていなかったとしても臭いと手で覆うようなものだった。
しかし、バークは鼻を覆う事もしない点で、これはやはり私には犬の鼻があったからなのかと思ったが、バークの一言で犬の鼻の方が良かったと思い直した。
「畜生、死体の匂いがする。」
「悲しいね、人は。腐敗臭と発酵臭も嗅ぎ分けられないとは。」
ジュスランは足が止まった私達の先へと、明りも無いのにすたすたと歩いて行ってしまった。
バークはそんなジュスランの後ろ姿を見つめ、それから私に顔を戻し、暗闇なのに片眉を上げて見せた。
「その通りよ。私達は暗闇でも見えるの。」
「全員が?」
「さあ?吸血鬼とデーモンは確実ね。人狼はどこまで目が良いのか分からない。彼等には鼻と耳があるもの。バンシーもたぶん見えると思うわ。でも、目が見ているのか、私達の感覚が見ているのか、それはわからなくてよ。」
「はああ。俺が今まで君達フラーテルを屠る事が出来たのは、とんだラッキーボーイだったって事か?」
「ハハハ。その通り!そしてね、バーク、ご覧。これこそが食の真髄だ。」
通りの良いジュスラン声が先の方から聞こえ、私とバークは顔を見合わせると腕を解いて手を繋ぎ合い、ジュスランがいるであろう場所まで走った。
目が見え鼻が良い私がバークを誘導するというように、私が前に、バークは私に手を引かれながらの後方だ。
素晴らしいのは吸血鬼であるジュスランは暗闇の中でも輝いていた、という事である。
青白い、彼が瞳に浮かべる独特の光そのものを体からもにじませて、彼は私達の前に立っていた。
そして、私達が彼の真後ろに辿り着くや、ジュスランは大きく両腕を広げた。
まるで翼のように。
ぱ。
世界が光を手に入れた。
つまり、地下室に灯りがともされたのである。
私とバークは急に明るくなったことで体を縮こませた。
いや、私達を包み込む冷気に体中の毛穴が粟立ったからでもある。
光は上からではなく、ジュスランが両開きのドアを開いたからであった。
そして明りに慣れるにつれて、私達は徐々に瞼を開いていき、自分の目が見ている情景が何かに気が付くにつれて互いに繋ぎ合った手に力が籠って行った。
腐敗と発酵。
発酵させる材料は一体なんだ?
――死体の匂いがする!
ジュスランが開けたのは大型の冷凍庫のドア。
その世界が清潔でありながら不衛生にも見えるのは、首のない人間の数十体ほどの死体が肉屋のフックのようなものに掛けられてぶらぶらとぶら下っているからである。
「熟成肉ってあるでしょう。殺してすぐじゃ無くね、こうしてひと月ほど寝かしているんだよ。さあ、大事なお肉が痛むと大変だからね、閉めよう。」
冷凍庫のドアを閉めればまた真っ暗のはずだが、冷凍庫を閉めた途端に天井のライトが一斉についた。
イグニスの店の地下は明かりがつけば単なる普通の建物の地階の風景でしかなかった。冷凍庫の銀色の扉だって、普通にレストランの大型貯蔵庫にしか見えない、というものだ。
それに、地下に明りを灯したイグニスこそ、長身で大柄な肉体に似合う仕立ての良いスーツ姿という、化け物どころか若き成功者にしか見えないだろう。
「おい、この死体はって、どこでこんなに殺しているんだ。たしかにこのパスクゥムでは行方不明者も多いが、そいつらか?」
イグニスはどんな客のクレームだって捌けそうな笑顔を見せた。
「普通に、自分から、ですよ。」
「自分から?どうやって。」
ジュスランはバークから紙袋を奪い取ると、それをイグニスに放ってしまった。
「はい。従業員をお返ししましょう。」
イグ二スは紙袋の中を覗き込み、そして顔を上げるやものすごく嬉しそうな笑顔を見せた。頭には二本の角まで生えている、真っ赤な皮膚をしているという、レークスとは違う鬼の姿だった。
「アハハハハ。迷子だったこいつか。よしよし、おまえももういいか。今まで良く働いてくれたな。駄賃だ。」
イグニスは無造作に紙袋に手を突っ込むと生首を取り上げ、私とバークの目の前で、真っ赤な巨大な鬼はこんなに広がるのかという程に口を広げて、生首をカリッと齧って見せた。
グールだった生首は声なき声をひゃああああと吐き出す。
私の手からバークの手が引き抜かれたのは、私がデーモンの本来の姿になったら、と考えが及んだからに違いない。
青い肌のレークスはまだ人間味もあった。
けれど、むしゃむしゃと生首を食い散らかすイグニスには、生理的嫌悪感やら本能からの恐怖しか感じないのである。




