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00.はじめに──古代中国の時間制度

 昔の中国では時刻を十二支で表現する。

 そもそも十二支は子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥という。これらの漢字の原型は甲骨文の時代から暦法に関係する概念としても使用されていた。(※日付には甲乙丙などの十干を上に付ける。つまり辛亥とか甲午、甲子になる。十干と十二支併せて干支である。60日で一周する)

 字統を見ると、商の時代に子の文字は王子を意味しているがまた農耕の神である夋・畟であり、午は神事で用いる杵を意味していて、また寅や卯なども農事に基づく祭祀関係の意味を所有している。そして十二支として扱われる際には月々を示す記号でしかなく、本来動物の意味は無かった。

 西周の頃には金文に移行したが、周でも十二支は継続的に祭祀に関わるものの意味として利用された。この干支を用いた日付は以降も祭祀用の日付として通常の日付と併用され続けた。

 年に結び付けられるようになったのは前漢の武帝の頃である。


 十二支が動物と結び付けられたのは、春秋戦国時代の頃である。文明社会の拡大により合流した諸民族の神獣を準えたという話や、陰陽五行が火星や水星など天体と結びついていることから同様にして陰陽家の発案という説がある。十二支の動物の順序は完全には決まっていなかったようだ。

 動物を示す一般的な漢字は昔から別にある(※鼠牛虎兎龍蛇馬羊猿鶏犬猪)。一般的な方は殆ど元々その動物を示す象形文字が変化したものである。

 ただ豚の象形文字は豕であり、猪の字は漢代には彘と併用されていた。彘は野生の豕を示すが、説文では彘を豕と同義として猪は豕の子であるとする。また猿の象形文字から生まれた漢字は猱で、猿の字はそこから派生して後に両方の字が採用されたもので、漢代及び三国時代には猨という字が用いられていた。隷書体に移行する際の混乱だろうか。


 十二支がどうして十二の数なのかと言えば、春秋戦国時代まで使われていた木星紀年法(約12年で一周する木星の天体運動に基づいた紀年法)による説と、メソポタミア起源の黄道十二星座を西域から輸入したという説がある。


 十二支の時刻への利用は古い史料には見当たらず、隋書天文志より見える。そこでは一日を百刻に分割させた上で、季節ごとに十二支それぞれの刻数が定められている。

 例えば冬至には昼が40刻、夜が60刻、日の出は辰正、日の入りが申正の時間であり、そして子、丑、亥が2刻、寅と戌が6刻、卯と酉が13刻、辰と申が14刻、巳と未は10刻、午が8刻で、合計100刻である。他に春分と秋分、夏至についても書かれている。

 隋書にある十二支の順序は我々の良く知っている並びである。また十二支の後の初と正の字は前半と後半を示すものである。例えば辰初、辰正となる。正の字は元々「正しく止まる」を意味するので正を使う。



 百刻制度は周礼にも書かれているが、使用した記録がある資料は漢代以降のものである。この百刻の分割した時刻制度は、漢の官僚が晷(日時計)と漏刻(水時計)を使って運用していた。

 晷の使用は周髀算経にあり、約半月ごとに棒の長さを変えて太陽の仰角に対応していた。

 漢代出土の晷として、中心から百等分に線が刻まれた円形の盤面がある。真ん中に穴があり、ここに棒を差し込んだ。周髀算経によれば冬至には約3m、夏至には約35cm程度の棒を用いていたという。晷は3つの補助棒を利用するものと、傾けて使ったように見えるものがある。


 漏刻の名も周礼や六韜にあるが、漢代の出土品が最も古い現物である。漢代には、白天(日の出)の時間に漏壺という水を浸した壺に矢を浮かせ、時刻を刻ませた。

 出土品の形状は、水を出す口が下方に付いた円筒型の銅器で、蓋上部にある穴からメモリのついた矢を差し込むことが出来た。矢尻には皿が取り付けてあって水の上に浮いた。銅器内部の下方の口から水が流出すると共に皿が下がり、矢箆に刻まれたメモリが推移するようになっていた。水が全て無って皿が底に着くと一刻、また大型の壺では二刻だったようだ。より細かい単位は不明であるが一刻分は計算上15分弱で、出土品の漏刻を空にするために必要な時間とほぼ等しい。


 当時の漏刻は壺内部の水量の減少とともに水圧が変動するため、流出する水量が次第に減少していき矢の下がる速度が落ちていくことから細かい時間は不正確だった。

 漢書哀帝紀によれば、BC5年に国家を安んずるため漏刻は120度に分割して測るように変更されたという。細かい組み分けは不明であるが、周代の政治を貴ぶ王莽政権によって元に戻されただろうし、隋書天文志によれば百刻制度は改めて再び利用されていた。

 唐代には4つの箱から測り手を経て最下の壺に流れる漏刻が利用されていて、古代よりも正確な時刻を測ることが出来た。



 春秋戦国時代の時制について、春秋左氏伝では昭公のところで十時制度であることが触れられ、少なくとも日上、食日、旦日という名称があったという。

 また淮南子天文訓には一日が「晨明、胐明、旦明、蚤食、晏食、隅中、正中、小還、餔時、大還、高舂、下舂、懸車、黄昏、定昏」の十五時制であるとある。

 一方、黄帝内経には「夜半、鶏鳴、大晨、平旦、早食、蚤時、日中、日昳、晏食、日西、晏晡、下晡、日入、黄昏、日夕、人定」の十六個があるが、字も一致しない。

 そして漢書天文志には「夜半、晨、旦、食、蚤、日昳、晡、下晡、日入、昏」の十個が見える。(黄帝内経及び漢書天文志は順不同)

 一貫していない時制であるが、それらの文字の多くは商の時代の甲骨文においても時刻を示すものとして用いられた。例えば食は商代より朝夕の食事を兼ねた祭礼であり、蚤は早を示していて蚤食は即ち早食であるという。


 漢書帝天文志に甲夜と乙夜という表現がある。また南北朝時代の顔氏家訓に一夜が五更であり「甲夜、乙夜、丙夜、丁夜、戊夜」であるとし、〇夜の他に〇鼓や〇更も使われていたという。更は日本でも採用されていて、現代でも夜が更けると書く。

 ところで「甲乙丙丁戌己庚辛壬癸」は十干で、商代の王の名前でもあり、日付だった。原型は夏の頃から使われていたと言い、卜占にも関わるようだが本意は判っていない。

 隋書天文志には夜に五つの更を挙げると共に朝は「朝、禺、中、晡、夕」の五つに分割されるとある。十時制度は古代からこの頃まで採用されていていたのだろう。一方で、十二支の時刻制の利用は唐書や史記索隠など唐代以降に頻出する。



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