時の回廊
泣き虫アレンが、21歳の青年になって、再登場するこの「時の回廊」は、人が護られる者から、護る者へと代わっていく物語です。
「秘められた紫」はとても長いお話なのでこれからも宜しくお願い致します。
疑問と疑惑を等しく抱えたままで、アウルの執務室のある南翼の回廊を歩いていると、数年前に陥った人生の深淵と、それが確たるものに成った瞬間とがまざまざと蘇る。
19歳でソルボンヌを終えて、フランスから帰国した俺は、通常で有れば一族とそれに追随する者達を掌握する事に努めて、足元を固めるべき時に、当時既に、俺より1年早くオックスフォードから戻り、早々に自分の目的に向かって歩き始めていたアウルに心惹かれ、それが運命の階とは知らないままに、踏み出してしまっていたのだ。
自分が置かれている立場から、分別が決断までに時間を置くべきだと警告はしたものの、俺は既に答えを出してしまっていた。
アウルは、学生時代には存在そのものが、政治家と成ってからは卓越した指導力によって、俺にとって、国にとっての指針となっていた。
中世の時代に習えば、俺は、王族で有る彼に従う者で有り、旗印に押し立てて、国の方向を定める事は、ごく自然な俺の生来の運命で有り、勤めで有ると、心底思って疑わ無かった。
だから此処に居るのだと。
扉が開かれ、アウルに見える其れまでは、確信していたのだった。
ここに来る前に、アポイントは取ってあった。
彼の秘書は、俺のソルボンヌでの一級上、前年卒の先輩に当たる。
ミス・ルィザ。
大変失礼な事と思うものの、同郷、同じ階層の出身であるにも関わらず、一般的な関わりしか記憶していない。母が依頼したお目付としての関わり以外には。
妙だと、何時も友人達にからかわれた。あんな美人と、同郷と言うきっかけを持っていながら…と。
自分でも、羨望の眼差しで見詰める男達の中に、何故居ないのかが不思議では有ったが、何となくそのままにしていたと、受話器越しの彼女の声に、思い出したのを覚えている。
俺への対応を見る限り、焦がれた男が降るようにいた女性のイメージには程遠く、キャリアが裏打ちした能力の切れが随所に覗き、かつ、相手を受け入れる優しさが感じられるという、完璧な秘書ぶりに思われた。
過去の、幼なじみのふんわりと優しい性格はそのままに、公爵のスタイルを習得したと言うところだろうか。
アウルの秘書として、大学卒業後すぐに此方へ配属になって、他の上司を持たなかったはずだった。
彼女の有能ぶりは彼に望まれたものか、必要に応じたものか、彼等の関わりは浅からぬものの様だった。
一般の執務室がどの様な構造を持つものか、多くの例を知っている訳では無いが、ごく普通に廊下に面して、まず秘書室に通じるドアが有り、務める者のプライバシーを護るための衝立なり、仕切りなりが有るのだが、常時これ位の人の出入りが有るのか、或いは今日が特別なのか、秘書で有るルィザに出会う迄に、数人が部屋を出て行くのと擦れ違った。
会釈を残して出て行くものが有れば、奥の方で話が始まる気配がする。
状況を眺めている間に、奥からルィザが現れて、俺に会釈する。
「お久しぶりでございます。首席でのご卒業おめでとうございます」
彼女のオーラがバラ色に輝いて、充実を物語り、思えばその時感じて居たのは、羨望で有ったのか、嫉妬で有ったのか、定かで無い。
「有難う。でも、去年は貴女だったんだし、僕は幸運だっただけのような気がするけど?!」
秘書室のデスクの前で立ち話をしている俺達に、奥から出てきた女性が会釈を残して立ち去った。後からは続いての入室は無い様だった。
「お忙しい様ですね」
曖昧な聞き方で訪ねた俺に、シンクロしたような答えが返ってきた。
「ええ。何時もの事ですの。ですが、伯爵のご来訪は別格です。ゆっくりお話し頂けますよ」
「貴女の職権行使のお陰ですね?!」
「私が口を差し挟む余地はございませんでしたのよ」
「…それは…」
自分の考えを確かめようと、彼女に問いかけたその時、奥からこちらへ軽い靴音が近づいて来るのが聞こえた。
秘書室に向けて声がかかる。
「ルィザ。私の方が間が開いてるんだよ。アレン久しぶりだな。王の挙式の時以来だから…3年ぶりかな?!」
変わらない声だった。少し乾いた、だが、柔らかな色を湛え、心地良い温度を湛えた。懐かしいアウルの声だった。この声を聞きたかったのだ、と。
胸底から安堵が湧き起こり、不意に涙までがこみ上げてきた。傍に立ち尽くしたまま、答えを無くしていた俺を、どうしたんだと言うニュアンスでアウルがこちらへ顔を上げた。
こうして幾度か、少年の日グラヴゼルで俺を見詰めるアウルを見る俺は、抱え切れない困難に途方に暮れて、縋り付きたい様な窮地に陥っている時ばかりだった。
病弱で入学自体も遅れた俺は、頭領の総領息子であったことも手伝って、自覚の無い妬みで従兄弟共に、良いように引き回されていた。
アウルは俺の編入時既に最終学歴取得者で、最上級生に成っていた。1つ違いだが、俺が4年生、彼が9年生。他の学生の中に有っても誰よりも抜きん出た存在だった。
学業然り、体格然り。早熟で俺より頭1つ高かった。
その彼が、俺の事を疎みもせずに助け励ましてくれた。
その時の嬉しさと、悔しさと。比肩する者に成りたいと言う渇望と…
思い出に浸っていた俺を見詰めていた彼の眼差しが、同じ懐かしさと、何故か少しの戦き…?!と。何にせよ、その全てが変わらない彼そのものだった。
「伯爵。どうぞおかけあそばして。ただいまお茶をお持ち致します」
ルィザに促されて、我に返った。
あたふたと、アウルが指し示すソファに腰を下ろす俺を、確かめるとルィザはドアを閉じて立ち去った。
彼女が居なくなると、途端に俺の感情が、感傷の中に埋没してしまう。
何の言葉を発することも無い俺に、以外にもアウルの方も暫くは、言葉が見付からないかのように沈黙を守っていた。
気分を害してとか、呆れてとか、そう言ったネガティブな感情は伺え無い。何故か気恥ずかしいような、くすぐったいのを我慢しているような、微妙な表情だったのだ。
学生時代の拙さを懐かしんで居るからだろうか?!俺には完璧に見えても、彼にしてみれば幼い頃の事だろうから。
「公、あの…」
訪ねておいてなしのつぶてではいけないと、何とか呼びかけた。だが、堪らずかけた俺の声に、夢を破られたかのような、困惑を湛えて彼が言う。
「馬鹿。昔のままで良い。伯爵だ等とは呼ばんぞ、私は」
ぶっきらぼうに、彼には珍しく感情を含んで言うのに驚かされた。まだ、自らを制御出来ない者が多い少年達の中で、怜悧で端正な彼の姿は嫌が上にも際立っていた。
「あ…はい。…アウル」
涙声に成るのを飲み込んだ。
義理の兄弟で、同窓だ。何の理由も無くフランクな呼び方が認められる間柄だった。だが、俺には何よりも、俺を疎んじて居なかったと、受け取れる言葉を貰ったのが嬉しかった。
涙を堪えながら、彼の言葉を聞くうちに俺の中に立ち籠めていた靄が、すうっと形を成して行くのが感じられた。
友人が語るどんな形の恋愛話も、火遊びも、俺には何一つ惹かれた試しが無かった。
そのくせ何時も、胸の奥が何かを求めて満たされない。
グラヴゼルに帰りたいと決まってそう思うのだった。
ソルボンヌが不服なのでは無い。グラヴゼルが懐かしいのだった。
自分の気持ちがどうにも理解しがたかった。
精神的に弱いところが破綻して、子供の頃に引き篭もりたがって居るのかとも。
其れが今、アウルの声を聞き、その心に触れて彼を求めて居たのだと思い至った。
俺はこの人に恋していたんだ。
其れが恋愛感情であり、尊敬や憧れでは無い事が、彼の紡ぐ言葉では無くて、その唇に、白い項に眼を惹かれている己を見出したことで確信できた。
彼を抱きたいと思っている、雄で有る自分を。
そう確信して後、何を言い、何をしたのか記憶が定かでは無い。お茶を入れて戻ったルィザを交えて、後の対応がごく普通に推移した事から、大した醜態も晒さずに済んだようだ。
内心ほうほうの体で屋敷に逃げ帰り、数日の間は、如何にして翻意の言い訳をしようかと、そればかりを考えていた。
諦めなければやがて、俺諸共、カーライツの一族を巻き添えに潰れる覚悟をしなければならない。
兎にも角にも、準備と称して時を稼ぎ、諦める方法を模索し始めた。自分というものの価値を見失っていた俺の行動は、常人が見ると眉を潜めかねない事も有った。
何をしても答えは同じだった。
1度自覚した恋心は膨れ上がるばかりだった。
このまま2度と彼に見えぬ積もりか?!と、自分に問うて、有り得ないと答えを出した後は、とる方法は1つだけだった。
そうして俺はここに居る。
自分自身を誤魔化し、偽装することで周りまでも騙し、偽って。
何時まで?!。
余計な雑念を振り払いながら、翼の反対側に有るアウルの執務室の前まで来ていた。
見るとドアが開いていて、今しも彼が、玄関ホールへ向かうところだった。
「遅く成りました。出かけましょう」
ごく平静に声を掛けることが出来た。
ここへ来てもう3年が過ぎていた。その間に、俺の、自分を隠す手腕も長けてきて、何事も無かったように振る舞うことが出来るようになっているのだった。
「ああ。迎賓用の車庫だったな。出かける。後を頼むよ」
アウルの翠色の瞳が俺を認めて伏せられ、次いで、秘書に向けられた。ルィザが深々と頭を下げて送り出す。
「行ってらっしゃいまし。伯爵。閣下を宜しくお願いいたします」
何時もより念入りな彼女のもの言いに、何かが引っかかってつい言った。
「ええ、分かっています。ルィザ。今朝の騒ぎは何時もの事ですよ。夕べ嫌な夢でも?!それとも、アウルを特別に思う事でも有りましたか?!」
何という意図も無く言った。積もりだったが、半分は本気だった。車両部のチーフが口にした、ここを俺に任せて…と言う話が俄に胸の中に広がって来たからだった。
「お前…どういうつもりで…その言い方では私と彼女の間に何か有ったみたいじゃないか?!」
違うらしい。
「いけませんか?!別に、良いじゃ有りませんか?!お二人とも既婚者って訳では無いし、未成年って訳でも無い。家のつり合いも悪くない…」
我ながらどうにも歯止めが効かなくなっていて、言い過ぎたと思った矢先だった。
アウルの指先が、パンっと俺の頬を軽く打った。
「いい加減にしろ」
そう言い置いて、アウルは一人で先に行ってしまう。
残された俺と彼女が、今度はアウルの過剰反応に驚いていた。
いや。1番驚いたのはルィザだろう。
「済みません。俺が悪ふざけをし過ぎました。アウルは今朝からの騒ぎに少しイラついて居たようだ。貴女が念を押される訳ですね」
何とか一応の釈明に成っただろうか?!。
「お気になさらず。慣れておりますの、大丈夫ですわ。ええ。お二人の事情はよく存じ上げて居りますもの」
俺に笑顔を向けて言う。
「有難う。では」
慌ただしく別れを告げて、アウルの後を追った。が、彼女の最後の言葉が気に掛かって仕方なかった。
言葉そのままでは無くて、他の意味合いを含んだようなニュアンスが有って、ルィザが何かを察知しているのでは無いかと思ってしまった。
玄関ホールを過ぎて、迎賓用の車庫に向かっているアウルを、漸く視野に捕らえた。
「アウル。ホールへ車を回します。待ってて…怒っているんですか?!済みません。あの…」
追い抜きざまに覗き込んで驚いた。うっすらと涙が浮かんで居たのだ。
「アウル!ちょっと待って!!」
振り切って行こうとする彼を、両手で阻んで引き止めながら言った。
「待って下さい車の傍には車両部の警備が居ます。そのままで…行かないで下さい」
感情を乱して涙ぐんで居る彼は、儚げで、幼く見えた。触れれば手の中に頽れて来るかのように。
自分のもので有る恋人を、他の男の目に晒すのを嫌うように、咎めていた。
くっ…と、白い喉が感情を飲み込んで鳴った。
「…ホールへ。ゆっくりでいい」
その時のいかにも頼りなげに見えた彼を、引き寄せて抱いてしまいたいのを振り切って、車庫へ向かった。
あれは…あのアウルは?!何だ?!
勿論、彼に作為は無いのだ。
泪を堪える儚げな様子が、如何に俺を煽って居るか等とは、考える可能性すら無かったのだから。
泪を浮かべる程、感情を乱したわけが一向に思い付かずに、玄関ホールに付けた車に乗り込むのを見ていた。
何時もとは所作が違う。
俺に運転させた車では、決まってナビゲーターシートを使う。お付きの運転手の時と同じように、万一に備えて運転者の後席に座るように言うのだが、ここで良いと、俺の隣で、必ず眠っている。
僅かな時間でも、全てを預けて眠っている彼を見ているのは、俺の、報われぬ恋心を慰めてくれるのだった。
それが今日は…。
フェンダーに映る彼は、俺が見ているのを知ると、ふいっと、窓の外へ視線を向けてしまう。
頭がおかしくなりそうだった。
何と言っても、アウルを乗せて走っているのだから、運転している自分を忘れはしないが、気を張って異変を拾う所まではいっていない様だった。
集中を欠いて、機械的に周りを見、車を操る。後方を確認するつもりで見たフェンダーに、零れた涙を指先で拭うアウルが映っていた。
…驚きに空白になった俺の五感に、突然車のショックが伝わってきた。…しまった!タイヤが…路上の何かを気付かずに踏んだか、或いは…。
蒼くなって、漸く車を路肩の駐車帯に止めた。
サイレンは鳴らさずに、警察車両が追って来ていたのは知っていた。警官が俺の車が止まったのを確認して、パトカーを止め、こちらへ歩いてきた。
ドアのフックに手をかけて、下りようとするアウルを止めた。
「狙撃だったら思うつぼです。車内にいて下さい」
彼が視線を振って窓を指す。
見ると、少し砕けた感じの警官が下げた窓越しに言う。
「いや~、災難でしたなぁ。トラックが釘ぶちまけましてね~。ですが、今後は確実に前方確認願います。本官が制止したのを見て居られなかったようですので」
しばし呆然としていた俺を尻目に、くっくっと、喉声で笑いを堪えていたアウルが、遂に我慢しきれず、笑い転げながら言う。
「いっ…良い!実にお前らしくて…そっ…狙撃と釘…」
俺がこんな羽目に陥ったのは誰のせいだと思ってるんですか、と、膨れつつ。俺へのだろう拘りを吹き払ったようなのを、今更蒸し返すのは止そうと思った。
さっきのように頼り無い風情でいられると、俺は手も無く自制を破られてしまって、無理を強いて終いそうだった。そうして笑って居てくれるならと、何も言わずに居た。
タイヤを交換している間、車内に居るわけにもいかず、歩道に降りて仕上がるのを待っていた。
こんな時にも、アウルはじっとしていてくれない。
建物の上からの狙撃を警戒して、俺の後ろに居ろというのに、聞く耳を持たない。
直ぐに俺達の素性が知れて人垣が出来、交通課の警官は要人警護の任に就く羽目になった。警官が作った人垣の柵越しに、握手を求めてきた女の子と、何やら談笑している。
「アウル!」
聞かないなと睨むと。
「大丈夫だって。何なら彼等に聞いてみると良い。私を殺したい人居ますか?!って」
惚けて俺をからかうアウルに、野次馬の間からどっと笑い声が沸いた。
「アウルっ!!」
叱り付けるような俺の口調に、目の前でタイヤを交換しているトラックの運転手達までもがクスクス笑い出した。
「頼む!急いでくれ!何なら手伝うぞ!!」
「すいません。もう少し」
その時突然人垣の方から悲鳴が聞こえた。反射的にアウルを探して、彼の無事を確かめると傍へ走り寄った。
「アウル!何事です?!」
彼は、自分の立っていた所から1~2メートルの所で、女性の顔の辺りを見てやっている。俺の声に振り返った。
「あの男が私めがけて投げた物が逸れて、彼女に当たったんだ」
そう言えば女性の額の辺りに痣が出来かかっている。
「何てことだ。病院までお連れします」
言うと、何やら事務書類の封筒を抱えた女性が慌てて断った。
「いいえ。大したこと有りませんから。驚いただけです」
彼女は、名刺の裏にオフィスの連絡先を入れた物を渡して、何か有れば連絡をと言っても、なかなか受け取ろうとしない。
「ほら見ろ、プレイボーイは信用が無いんだ。貞淑なお嬢さんは、週1でゴシップ紙に載る様な男の連絡先は受け取らない。ね?」
アウルの言うのを聞いて、彼女は思いっきり首を振ってくれた。
「アウルっ!!」
俺の追撃を交わして、今度は彼女に持ち物を投げつけた男の前に立った。警官に引き立てられ、もがきながらも、アウルが見ているのに気がついたようだ。
「わしが何をしたってんだ?!痛いじゃ無いか離せ!」
冷やかな彼の視線に合って、初老の男は戦いた。
「私に腹を立てて居るのならせめて手の届く範囲に投げて欲しいな。それとも、か弱い女性にうっぷんを晴らす為に、わざと外したのか?!」
明らかな挑発に男は、腹を立てた瞬間を思い出した様だった。
「若造が!勝手なことをし腐って!お陰で旨く行ってたわしの工場は潰れたんだ。畜生め!!」
「こらっ!!公爵に向かって何て事を言うんだ!!こいっ!!」
引き立てられていきながら、なおも振り向きざまにわめき続けた。
「国は粘土細工じゃないんだぞ!!学問だけしか入ってない頭で、勝手なことをするから…。」
パトカーに押し込まれながらも、口角泡を飛ばしながらわめき続けている。
止めさせようと、間に入りかけた腕を押さえて、アウルが俺を制した。
「畜生め!!畜生め!!国王の弟?!王妃の弟だぁ?!何だろうがママゴトみてぇにやってりゃいい。何時まで持つか見せて貰いましょうかねっ?!」
「女みてぇな顔したひよっこ共が、男の仕事にチャチャ入れやがって…」
こんな戯れ言を何時まで聞いている積もりかと、アウルを見た。彼は、みて居ろというように視線を振った。
「何よ!!自分の事しか考えて無いくせに、工場が潰れたのはあんたのせいでしょうよ!!」
「東の言うとおり尻尾振って、儲かってたとこが、次々潰れてってるってじゃないか?!あんたんとこもそうじゃないの?!なら、潰れても当たり前だよなっ!!」
「俺知ってるぞ。あんた、先月まで随分はぶりが良かったじゃねぇか?2つ通り向こうの工場だよな?!へえぇ~潰れたのか?!東に連なるお偉方が後ろ盾だって、随分税金も誤魔化してるって噂だったぞ。あたりめぇだよなっ!!」
若い労働者風の男が、周りに同意を求めると、どおっと、初老の男を非難する言葉が、人垣から一斉に吐き出され始めた。
アウルが俺を振り返る。
そうか、貴方が待っていたのはこれだったのか。
自分の進めている仕事が、一般の人々の中にどの様に浸透していって居るものか、見てみたかったのだ。
アウルが微笑む。染み入るような充足と、肯定された喜びが俺にも伝わってきて、微笑を返させた。
一体感と感動が支配していて、俺達も捕らわれていたが、タイヤの交換が完了したとトラックの運転手達が知らせてきたので、アウルを促して立ち去りかけた。
人垣の中から若い男がこちらへやってくる。さっき初老の男を告発した労働者風の男だった。被っていた帽子を慌てて取ると、揉みしだきながら言う。
「公爵様。俺…私は、タクシーの運転手をしています。あん…貴方のして下さっている事で、給料が増えて、有難いと思ってます」
「おふくろも!香料苑で花摘みさせて貰ってます。友達と喋りながら小遣い貰えるって、そりゃあ喜んでんです!あんな奴の言うことなんか気になさらんで、これからもよろしくお願いします!」
とつとつと、不器用なもの言いで、精一杯示された感謝と励ましは、どんな美辞麗句もなし得ない感動を俺達に与えてくれた。
「有難う。何よりの励みになるよ」
俺でも滅多に見たことも無いような、笑顔で言葉を返された若い男は、満面に朱を注いで、ただただ頭を下げた。
俺が先に立ってドアを開け、歩いてくるアウルを待つ間も、人々の輪は彼を見ていて、立ち去ろうとしない。
それに気づぃたアウルが、振り返り、夜会でパートナーに向けるような、右手を胸の下に当て、左足を少し引いた、優雅な会釈をした。
私と共に手を携えて、就いてきて欲しい。共に歩を進め未来へ…そんな彼の意図が人々に伝わって、叫び声と歓呼の中を車に滑り込んだ。
ええ。貴方は彼等と共に進んで行きなさい。
俺は貴方の後ろに居て、立って居るのを支えよう。
貴方を襲う困難を、幾らかでもこの身に受けて、貴方の負担を軽くしよう。
目に焼き付いた峻烈に浮かされて、俺は決心を新たにした。
結局はレセプションの時間ぎりぎりに滑り込み、今朝からのいきさつを出席者全てに話す羽目になった。俺のその場に相応しくない服装も、説明が付いたせいか、何の問題にもならなかった。
だが、会場に取材に訪れて居た顔見知りのジャーナリストから、アウルとの交代が近いのかという内容のインタビューを受けた。
「実績の有るポストを、貴方に任せて、公爵は次に何を計画なさってお出でなのか、お聞かせ頂けませんか?!」
彼等は屈託も無く、聞いてくる。俺が彼に抱いているものを知らないのだから、何の疑念も無いのだろうが…。
「その件なら、アウル。彼に直接聞くより無いでしょう。私も今朝人づてに聞いたばかりなんだ」
「え?!」
先程の決心はどこへやら。むらむらと今朝の疑念が頭をもたげて、俺自身が彼に問いただして見たくなったのだった。俺に呼ばれて、彼が振り返る。その傍へジャーナリスト共に近づく俺に、何かを感じ取って、その眉が顰められた。
「貴方が私に、担当部所を移譲するという噂が立っているようですよ。私に後を任せて、何か新しい事業を考えて居るのかと、聞かれているのです。本当なら聞かせて下さい。私も今朝人づてに聞いて驚きました」
言うと、ギクリと俺を見た目が、一瞬の動揺を含んで揺れた。見慣れている俺の目には映ったが、レコーダーを向けているジャーナリスト達には全く気づかれずに済んだようだ。
俺とアウルのパートナーシップが崩れた様に見えたことが、彼らの注意を惹きつけて居たらしかった。
記者達は全く予期せぬ展開に、動揺しつつ、スクープの可能性を感じて、彼の言葉を固唾を呑んで待っている。
「特別何か有ってポストの委譲をしたのでは無いよ。少し余裕が…そうだな…その意味では、新しい構想を練る時間を作ったと言う所だろうか」
まるでデマでは無かったと分かって、期待が持てた記者達が、勢い込む。
「では、現時点では構想中だが、ビジョンをお持ちでは有るのですね?!触りだけでもお聞かせ頂け無いでしょうか?!」
「ビジョン…」
そう言いながら、彼の左手が、胸ポケットの下辺りを抑えるようにした。そうして、言葉を途切れさせたのが、俺の感に引っかかった。
胸?!心臓か?!。
「もう良いだろう?!私に完全に委譲するという訳ではないと言う事だ。構想が固まったら君の所へ一報するよ。それで良いでしょう?!」
確認すると微かに頷く。やはり具合が悪いようだ。顔色が悪い。大使に暇を告げると、庁舎と同様に警備を付けて置いた車に戻った。
念のために付いていた者にエンジンを始動させて、少し時間を置いてから乗り込んだ。
アウルは躊躇ってナビゲーターシートに腰を下ろした。
俺も彼も、何も言わずに終始した。
何をどう切り出せば良いものか、見当も付かなかった。切り出し方次第でどんな結果を生むのか判らない微妙な問いに、疑問を飲み込むと言う消極的な選択をするより他無かったのだった。
アウルをこの手に抱き竦めて、貴方は何をしようとして居るのか?!と、さっき抑えた胸は、何時から悪くなっていたのか?!と、責め立てて聞いてみたかった。
叫びだしたい程の苛立ちを抱いて、庁舎を目指してアクセルを踏んだ。
思い切る積もりで居たのだ。
一族の継子として育てられてきた自覚と責任は、自分と言うものが自分の勝手にならない事を肝に銘じていた。
消極的に諦めて終うと言うものでは無い。
不可能なのだった。
本来ならば恋してはならない相手だった。
俺と彼との事が、よしんばスキャンダルとして公表されれば、国を揺るがす結果になる。
人の平等など、夢物語に過ぎない。
生まれた時と場所、知能の程度、共感力、感能力。
自分と言う者をつぶさに観察して見極める洞察と、容赦の無い判断とが、己の意味というものを自覚させる。
彼に溺れて、全てを放り出して、俺が俺であれれば良いが、周りは納得しても、俺自身が放り出したことを記憶していて、生涯煩悶を繰り返すだろう。
だが、理屈に固められた俺のアイデンティティも、どうやら限界が近付いているらしかった。近頃俺は、頻りに生きているのが嫌になるのだ。
苦しさに耐えかねて、胸を締め付ける思いにいっそ…アウルの為に死ねれば良いと真剣に思い始めていた。
馬鹿げていると笑うが良い。
だがもう、苦しくて堪らなかった。
如何に鎮めようとしても、鮮烈に燃え上がる思いに焼かれて、何かに捌け口を求めてみても、満たされない想いが、胸底に澱のように溜まって久しい。
激情を閉じ込めている理性という箍が、いつ弾けて終うのかと、弾けた俺が何に成り果てて終うのかと、不安でならない。
アウルを犯して、殺して。俺も…
この国が、父が、母が、どうなろうと知った事では無い。全てを道連れにしようとも、終わらせて終いたいと真底願うのだった。
警備の者が言う。
どうしてアウルの警備を他の者に任せないのかと、いろいろと理由を付けてはみる。
それで彼等は納得もするのだが、俺の真の目的は、彼を害する者に成り果てる前に、気づかれること無く、自分を始末してしまう事なのだった。
お読み頂き、ありがとうございます。
男として成長して行くアレンの羽化に注目して、見て頂くと幸いです。




