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尻尾の一・神様の欠片

よろしくお願いします。

 この世には、いろんな所にいろんな神様がもうておられる。

 その出自は『人』ばかりとは限らない。

 中には蛇やら小鳥やら……変わったところで『がま蛙』なんて神様も、どこぞにいらっしゃるかもしれない。

 池や山におわす『主様ぬしさま』というしろものも、まあ神様の一種であろう。

 この話は、そんな神様にまつわるお話。

 あるくにの神殿に棲む、とかげの神様の恋物語こいがたり




 尻尾しっぽの一・神様の欠片かけら


 第一章・出逢い


 夏の初めのことだった。

 今まで晴れきっていた空に雲が湧き、世界がくるりと暗くなった。

(あ! やばい……!)

 まりを手にひとり遊んでいた少女は、雨を予見して首をすくめた。少女の予想通り、すぐさま大地を撃ち叩くようなはげしい雨が降ってきた。

 ざざざざざぁああぁ――っ!!

 絵に描いたような豪雨にみまわれ、少女が泣きそうな声をあげる。

「わあ! わあ! どうしようっ!?」

 少女は毬をぎゅうっと抱きしめて、きょろきょろ周りを見渡した。

 すぐそばにいささかさびれてはいるが、白く大きな神殿がある。逆を言うと、神殿のほかには雨をしのげる場所はない。

 少女は一瞬迷った後に、神殿めがけて駆けこんだ。

「うっひゃあ! びしょびしょだわっ!」

 幼い少女はうんざりした声を上げて、水に落ちた猫さながらに首を振る。

 濡れた髪からぱららぱららと雨露が飛ぶ。黄金色きんいろの巻き毛がふわりと舞って、花のように広がった。

(――あれ?)

 ふいに小さな違和感を感じ、少女は大きな若葉色の目をまたたいた。

 長いまつ毛をひらめかせ、神殿の奥をそっとうかがう。何か気配を感じたのだが、奥には誰もいないようだ。

「……誰もいる訳ないわよね? ここは『とかげの神様』の神殿だもの」

 自分でじぶんに言い聞かすようにつぶやいて、少女は毬をそっとぜた。

『とかげの神様』。

 ここカタヤラ村のまもり神である、左腕のない神様だ。

 とかげの神は神殿のおわすカタヤラ村を、他の魔物から護ってくださっているのだという。

 とかげ神は村人たちからあがめられ、あがめられているが故に、年に一回の祭りのほかは、誰も神殿に近づかない。『敬して遠ざける』というやつだ。

 だからわざわざ神殿の近くで遊ぶ子どももいない。

 この少女のほかには、誰もいない。

「だってわたしは特別だものね……っ」

 少女は歌うようにささやき、ふっと満ち足りた笑みを浮かべた。あどけなく微笑ほほえみながら、濡れた金髪を幼い指でかき上げる。

 自分の目からは見えないが、白いうなじには小さなあざがあるはずだ。

 とかげ型の、紋様のような赤いあざ。それこそが彼女が『特別』たる証だった。

「わたしは『とかげの姫様』だもの! 神殿の中で雨宿りくらい、きっと許していただけるわ」

 くすくすと満足げに笑い、少女は毬を抱きしめる。

 生まれた時に作ってもらった、赤いとかげの模様の編みこまれた手つき毬。十歳になった今となっても、少女の一番のお気に入りだ。

(でも)

と少女はふっと考える。

(もし万が一、もしかしたらよ? 神殿にいる神様が、わたしの来たことに怒っちゃったらどうしよう? 『私はひとりが好きなんだ。小娘ごときが私の思索の邪魔をするな、大人になって出直して来いーっ!』とか言って……っ!)

 夢見がちな少女は、またたく間に『気難しい神様』の図を思い描いて、勝手に心配し始めた。

「ううん、そうして怒ってらしたら、じかに口なんかきいてくれないわ! 姿なんて見せてくれっこないじゃない! きっと神殿の近くに雷を落として、『早く帰れ』ってお天気で急かして、ざあざあ降りの雨の中をびしょびしょでひとり帰らせるんだわっ!! あぁ、何てこと!!」

「――ねぇ、それ、誰のこと?」

 マイナス思考で盛り上がる少女の耳もとで、ふいに誰かがささやいた。少女は絵に描いたように小さな肩を跳ね上げて、目を丸くして振り返る。

 見たことのない青年が、かがんでこちらをのぞいていた。

(わぁ、綺麗なひと……!)

 少女は思わず内心でつぶやき、若葉色の目で青年を見つめた。

 女のひとと見紛うほど美しい顔立ちで、まつ毛がいやに長い。

 くちびるは血を塗りつけたように見事に赤く、黒漆くろうるしのような闇色の髪を結わいつけ、長く後ろに垂らしている。

 身につけているのは飾り気のない白いシャツに、深い藍色のデニムのパンツ。その上から華奢きゃしゃな体を覆うように、緋色ひいろのマントをはおっている。

「何してるの? こんなへんぴな場所に、小さな女の子ひとりでさ」

 心地良くかすれた声で訊ねられ、少女ははっと我に返る。

(そんな綺麗な顔で親しげに話しかけられたって、わたしには先客がいるんですよーだ)

 少女は内心でそう毒づいて、つんと平らな胸をそびやかした。

「雨宿りに決まってるでしょう? 表はこんなざんざん降りで、そのくらい見当つかないの?」

 こまっしゃくれた返答に、青年がぷっと吹き出した。

 くすくす笑いながら、おかしそうにひょいと小首をかしげてみせる。

「そっか。この時期は多いからね、通り雨。なら止むまで休んでいくと良いよ」

「言われるまでも! だってわたしは、『とかげの姫様』なんだもの!」

「――えぇぇえぇっ!!? き、君がとかげの……っお姫様っ!!?」

 予想もしない反応に、少女が若葉色の目を見開いた。

 こんな綺麗な青年なんて、カタヤラ村では見たことがない。きっといろんな国や地域を流れながれの旅人だ。知らない言葉にきょとんとするだろう青年に、自分の甘い運命をとくとく語るつもりでいたのに。

 当てが外れた少女は、急に毒気を抜かれた顔で青年の顔を見つめ返した。

「あ、あら知ってたの? あぁ分かった、あなたいろんな国の神話を集めて研究してるひとでしょう! とかげの神様の話を聞きに、こんなへんぴな村まで来たのね!」

 少女の言葉に、ふっと青年が苦笑する。

 燃え立つような赤いあかい瞳を細め、何でもなさそうにささやいた。

「違うよ、カラナ」

 初対面の青年に見事に名前を言い当てられて、少女が肩を跳ね上げる。

 うかがうような上目づかいで、青年の顔をじっと見上げた。

「……もうわたしの名前まで知ってるの? 誰に聞いたか知らないけれど、ずいぶん研究熱心な神話の採集者さんなのね」

「違うって、僕はずっと前から君の名前を知ってるんだよ、カラナ・カナリ・カラマ嬢。君は生まれて間もないころに、この神殿に来ているだろう?」

「え、えぇそうよ。パパとママがわたしを連れて『とかげの姫が生まれましたよ』って、神様に報告に行ったらしいわ。神様はお姿を見せてくれなかったらしいけど」

 この青年は、どこまで自分のことを知っているんだろう。

 いぶかしげに瞳を歪める少女に向かい、青年は親しげに口を開いた。

「ねぇ、それより『とかげの姫様』の証のあざを見せてくれる?」

「気安く口をきかないでよ! 知ってるとは思うけど、わたしは大人になったなら『とかげの神様』のお嫁さんになるひとなのよ? 下手に手を出したなら神様の罰が当たるわよ!」

「うん、だから見せてって言ってるの」

 どうにも話が噛み合わない。

 カラナはため息をついて、黄金の髪をたくし上げた。青年が示されたうなじをのぞきこむと、そこには小さな紋様のようなあざがあった。

 はっきりとかげの形をした、鮮やかに赤いあざ。

「そうかぁ……君が、やっぱりそうなんだ」

 満足げにうなずいた青年は、何か口ごたえしかけたカラナを制して口を開いた。

「じゃあ、今度は僕の番だ。僕がどこの何者なのか、君に示してあげる番だね」

 青年はふいにひどく威厳に満ちた顔になり、大きくマントをまくり上げた。ひらっとたなびいたマントの下に、青年の細い体が露わになる。

 青年の左腕は、欠けていた。

 ひじから下がなかったのだ。

(腕の欠けた、とかげの神様)

 カラナは心中でつぶやくと、呆気にとられて青年を見上げた。そうして見れば見るほどに、青年の美貌びぼうは人間にはありえないほど美しかった。

 闇を染め抜いたように黒く長く艶やかな髪、生き血の宝石のごとく赤い瞳。

 魔性のものだと今まで思い至らなかったのが、かえって不思議なくらいだった。

「……それじゃあ、あなたが……」

「そう。『とかげの神様』、ガレト=ガリナ=ガルアです。とかげの姫様カラナ嬢、君の未来の夫だよ」

 同じ姿で何千年を生きたのか、若い姿の神様が、長い髪を尻尾のように揺らして笑う。

 いっそあどけないほど邪気のない笑顔の許婚いいなずけに、カラナが思いきり抱きついた。

「お、おわぁっ!!」

 片腕の神様は、突然の衝撃にバランスを崩してあお向けに引っくり返ってしまった。床と神様の頭がかち当り、ごちんとにぶい音がした。

「きゃあ! ご、ごめんなさいっ大丈夫!?」

「痛てて……うん、大丈夫、大したことない……よ」

「本当に? えぃっえいっ!」

「痛たた、いたたた……痛いよカラナっ!」

「ほぅら、やっぱり痛いんじゃない」

 確認のために改めて頭をしばいた許婚に、とかげの神様がため息をつく。

(変わんないなぁ、そういうとこ)

 こっそり息だけでつぶやいて、ガレトはくるっと右手を回した。またたく間に手の中にふかふかの白いタオルが現われた。

 神の奇跡をの当たりに、カラナが両目をくりくりに見はって感嘆する。

「わぁあ、すごい! 手品みたい!」

 ガレトはくすくす微笑わらいながら、少女の濡れた体を拭いてやる。タオルに鼻をうずめたカラナが「お日様のにおいがする」とささやきはにかんだ。

 神様はふっと思いついたように、神殿の奥を振り返った。

「そうだ、せっかく初めて逢えたんだしさ、奥でお茶でも飲んでいきなよ。お茶菓子は何が良い? カラナ、君は何が一等好きなんだい?」

「わたし? わたしはね、いちごのタルトが一等好きよ」

「い、いちごの……」

 復唱しかけたガレトの頬が、さあっと一気に赤くなる。不思議そうに首をかしげたカラナの様子に、目を合わせずにつぶやいた。

「そうか。君はまだ意味を知らないんだ。こんな小さな子どもだものね」

 何だか馬鹿にされた気がする。

 カラナはちょっとむっとして「知っていてよ!」と可愛い声を張り上げた。

「いちごのタルトは大人の証。女の人が大人になったら、お祝いに焼き上げるものでしょう? いくら子どもったって、知っているわよそのくらい!」

 ガレトが泣き出しそうに瞳を歪めてうつむいた。

 頬は晩秋ばんしゅうの山のごとくに朱に染まり、今にも火を噴きそうだ。

「ごめん、許して。もう止めようよこの話。おやつはアップルパイにしよう」

「……うん、まぁ良いわ。アップルパイも好きだもの」

 カラナはいい加減で折れてやることにした。

 この問題にはいろいろ複雑な要素が詰まっていそうだが、あまり追求するのもお行儀がよくないだろう。

 大人が子どもによく言う『大きくなれば分かる』というやつだ。

(そうか、このとかげの神様は何百年も、何千年も生き続けてきたんだものね。それこそほんとにいろんなこと、知らなくても良いこと、たくさん知っちゃってるんだろうなぁ)

 自分なりにに落ちて、少女が「ごめんね」とガレトの右腕にすがってつぶやいた。

 とかげの神様は小さく微笑い、かすかに首を振ってみせた。それからそっとかがみこみ、少女のひたいに口づけた。

 カラナはもうあらがわなかった。

 目の前の青年が自分の『運命のひと』なのだから、もう変につっぱる必要もない。

「さぁ、じゃあお茶にしようか」

 気を取り直した神様は、少女の手を引いて奥に誘った。

 神殿の奥は枯れた雰囲気の外観とはうってかわって、やたら生活感のある空間だった。

 こじんまりした応接間、奥にキッチン。清潔に保たれた居住スペースは、何となく人形の使うおままごとのお家を思わせた。

 案内された空間でパイと紅茶をいただくうちに、通り雨は去っていった。

「あ、雨止んだみたい。じゃあ行くね、ガレト。パイと紅茶ごちそうさま」

「あれ、もう帰る?」

「うん、そろそろ夕方でしょ? 日暮れまでに帰らないと、パパとママが心配するもの」

「……そっか。じゃあ……」

 少ししおれた笑みを見せる神様に、カラナがひらりと手を振った。帰り際に仔リスのように振り返り、せきこんでこう問いかけた。

「あの、あのねガレト! わたしまだ大人じゃないけれど、こんな小さい子どもだけど……またあなたに逢いに来ても良いかしら?」

 神様が綺麗に赤い目を見はる。

 それからとろっととろけるような笑みを浮かべてうなずいた。

「うん、またいつでもおいで。僕の可愛いお姫様」

「あぁ! 見てガレト! 空がすごいわ!」

 神様の返事にはにかんだ少女が、急に大きい声を上げて空を指す。

 何だろうと見上げた先には、見事な虹が萌えていた。笑ってしまうほど綺麗な虹が、深い青のキャンバスに七色の橋を架けていた。

(ふたりの再会を祝うようだ)

 あまりにも陳腐ちんぷなことを考えて、ガレトは口もとへ笑みを浮かべた。

 久しぶりに本当に素直に笑えたと感じ、そのことがまた嬉しかった。




 第二章・ふたりのためのお伽話とぎばなし


 それからカラナは毎日のように、神殿へ遊びにやって来た。

 といっても、特別何をするでもない。

 ガレトのそばで家から持ってきた絵本を読んだり、となりで眠ったり、一緒にぼうっとするだけだ。そんな何でもないことがやけに楽しくて、(やっぱり許婚なんだなあ)とそのたび妙に納得した。

『何でもないこと』の中でカラナが一番好きだったのは、神様の口から昔話を聞くことだった。

「ねぇガレト。また昔のお話して!」

「また? 僕の口からだけでも、もう何十回も聞いたでしょう?」

「何万回でも聞きたくってよ、わたしたちの大切な『なれそめ』のお話だもの!」

 こまっしゃくれた物言いに、ガレトが甘く肩をすくめる。やわいソファにすわり直し、ひざの上のカラナを抱きしめるように右手を置いた。

「……昔むかし、カタヤラ村という村に、とかげの化身がおりました。とかげはいつからそこにいたのか分からないほど、永くその村に棲んでいました」

 自分自身の昔話を、ガレトはひとごとのような口調で語る。

 ひざの上のとかげの姫はうっとりと、許婚の顔を見上げて言葉の続きを待っている。流れるような綺麗な声音で、ガレトは言葉を連ねてゆく。

「とかげは生まれついて大きな魔力を帯びていて、いつからか村の人に『主』と呼ばれ、『神様』と呼ばれるようになっていました。とかげの魔力に怖気おじけづいて、他の邪悪な魔物たちが村へは寄りつかなかったからです。とかげは村にいるだけで、上質の魔よけになっていたのです」

 少女がほうっと息を吐く。

 若葉色の目は熱に潤んで、言葉の続きを待ち望む。

 そんなカラナのひたいに触れるだけのキスをして、とかげの神様はするする声を重ねていった。

「そんなある日、神様は村の少女に恋をしました。少女はとても綺麗でとても勝気で、神様の目には女神のように映りました。やがて少女もとかげの神に恋をして、ふたりは相愛になりました」

 すうっと大きく息を吸い、ガレトは十分に間を取った。

 次の台詞せりふを知りながら、少女がどきどきした表情で神様の顔を見上げてくる。たわいない聞き手に微笑んで、ガレトは続く言葉を吐いた。

「けれど、ふたりには一つ大きな問題がありました。神様と人間では、寿命があまりにも違うのです」

 当たり前と言えば当たり前の事実を告げて、ガレトがふんわりんでみせる。

 恋人の骨ばった右手をつかみしめ、少女ははらはらとした顔で続きを乞うた。

(話の内容、全部知ってるはずなのに……)

 内心でつぶやいて苦笑い、神様はまた口を開いた。

「神様の寿命は幾千年いくせんねん、人間の寿命は長くて百年。少女が死んでしまったら、神様はひとりぼっちになってしまいます。といって、少女を深く愛した神様には、ほかの女の人をめとるという選択肢はありません」

 カラナの細く幼い指が、すがるように青年の手の甲にからみつく。汗ばんだ手のひらを優しく握り、ガレトはなおも語り続けた。

「そこで、ふたりは誓い合いました。『この先何度生まれ変わっても、必ずふたり一緒になろう』と。神様は転生の目じるしに、少女の首すじにとかげの形の赤いあざをつけました」

 ガレトは再び言葉をきり、少女のうなじに指を這わせた。

 かき上げた黄金こがねの髪の向こうに、赤く小さな紋様がのぞく。カラナは幸せな吐息をついて、青年の綺麗な爪を撫でた。

「それから後、赤いとかげのあざの少女は『とかげの姫様』と呼ばれ、神様のお嫁さんになる決まりが出来たのです。おしまい」

 簡単な物語をつむぎ終え、ガレトが少女を抱きしめる。

『可愛くてたまらない』と言いたげに右手に力をこめる神様に、カラナがくすぐったそうな笑いを上げた。

「あーぁ。早く大人になりたいなぁ」

 幼い少女の心底からのつぶやきに、ガレトはちょっと複雑そうに微笑する。

「そんなにあせらなくて良いよ。僕はずっと待ってるから」

「でも、やっぱり早く大人になりたい。大人になって、焼き立てのいちごのタルトをおみやげに、ここへ来てあなたのお嫁さんになりたいわ」

 神様の白い頬に、綿が血を含んだように朱がのぼる。

『いちごのタルト』の意味も知らない無垢むくな少女は、神様の反応にくすくす笑った。

「この話するたびに赤くなるのね。おかしなガレト!」

 ころころと声を立てて笑い出す、幼すぎる恋人に、神様は「まいったなぁ」と声なしでつぶやいて苦笑う。

『いちごのタルト』の意味が分かるほどカラナが大人に近づけば、それは次の別れが近づいたことの証でもある。

 気の狂うほどの出逢いと別離わかれを繰り返してきたこの身には、それは嬉しいことでもあり、身を切るほどの次の切なさへのカウントダウンでもある。

(――ねぇ、君はそのことを分かってる?)

 分からない方が良いと思いつつ、神様はまた苦笑した。白く整った頬のあたりに、消えないうれいがにじんでいた。

 少女はいまだそのことにすら気がつかず、ころころ無邪気に笑っていた。




 第三章・左腕の秘密


 ふたりが出逢って、数年が過ぎた。

 カラナは少しずつ成長していった。

『いちごのタルト』の意味ももう分かるようにはなったけど、まだ自分の手で焼き上げたタルトを、神様にはあげられない。

 その日が来るのが待ち遠しくて、けれども少し恥ずかしくて、でもやっぱり待ち遠しい。

 ごちゃ混ぜなおもいを抱えながら、カラナは毎日愛しいガレトへ逢いに行った。

「ねぇ、ガレト」

「ん? 何?」

「……うぅん、何でもないわ」

 カラナは何ごとか言いかけて、またうつむいて口をつぐんだ。

 前世の記憶はないけれど、ガレトは何度も一緒になったひとだ。ガレトは自分しか妻にしたことがないし、自分は彼しか夫に持ったことがない。

 でもやっぱり、ガレトは神様だ。

 何でもないような顔をしてあっさり奇跡を起こしてみせるし、人間にはありえないほど深遠しんえんな目をしている時もある。

(この世で一番近いのに、とても手が届かないひと)

 そう分かってしまう時があって、そういう時は少しさみしい。

 とりわけ淋しい気持ちになるのが、ガレトの左腕のことだった。片腕の神様はどうして腕が欠けたのか、どうしても教えてくれないのだ。

「……ねぇ、ガレト……」

 教えてくれないと知っていて、それでも訊かずにはいられない。口を開いた少女をさっと右手で制し、ガレトは神殿の表へ急に厳しい目を向けた。

「――何か来た。君はここにいて、分かったね」

「え? 何? ガレト……っ!」

 状況の飲みこめぬカラナを置いて、神様は表に向かって駆けてゆく。とっさに後を追った少女が見たのは、神殿の前に佇む巨大なからすの化け物だった。

 黒塗りの体、おおきな翼に黒すぐりのような丸い瞳。すくむカラナに気づいているのかいないのか、とかげの神様はばさりとマントをひるがえし、化け物に向かい言葉を吐いた。

「久々に現れたな、身のほど知らずの馬鹿者が。俺の魔力に怯むことなく、わざわざ殺されに現れたのか?」

 背中ごしのガレトの声が、鴉より先にカラナの胸を貫いた。

(ガレト、いつもと全然違う。切り裂くような鋭い声音……!)

 鴉はがぁあと一声啼いて、ものびた片言かたことで語り出した。

『ニクイ……ニクイ……オマエガニクイ……!』

「何が憎いだ、俺はお前に憎まれるようなことなどしていない」

『ダマレ! オマエ、オレタチトオナジマモノ……! ナノニ、ドウゾクヲコロシテ、ムラビトタチニチヤホヤサレル……! フコウヘイ!!』

「『不公平』? はっ、貴様たちが人間に害をなすから悪いのだ。俺は昔から村人と共生して暮らしている、それもこれも俺が強大な魔力を持って、貴様ら悪しき魔物をおびやかしているからだ。悔しかったらお前も巨きな魔力ちからを身につけて、神様にでもなるが良い」

『ダマレダマレ! オマエニクイ、オマエコロス! デモソレヨリサキニ……シンデンカラデテキタノハ、「トカゲノヒメ」ダナ? コムスメ、オマエカラコロシテヤル!!』

「やっ、やぁあぁあっ!!」

 ざっと空気を切り裂いて、鴉がカラナにおどりかかる。悲鳴を上げてしゃがみこんだ少女が次の一瞬見たのは、おびただしい鮮血だった。

 神殿に血が舞う、血がはしる。羽根を散らした鴉の悲鳴が、ぎゃあぎゃあと耳をつんざいた。

『イダイ、イダイ、イダィイィイイッッ!!』

「身のほど知らずもここまでくれば立派だな。俺の魂の恋人に手を出そうとは、命知らずにもほどがある」

 右手の爪をやいばのように伸ばしたガレトが、にぶくわらって言葉を吐いた。舞踏さながらに爪を踊らせ、鴉を切り刻んでゆく。

 一閃。

 二閃。

 三閃。

『イダイ、イダイ、イダィイイィィッッ!!!』

「さよならだ、魔物のくずよ。今度は妙な力を持たず、普通に生まれて平凡に、幸福に死んでゆくが良い」

 最期にいっそ哀れむような言葉をかけて、ガレトは鴉ののど元を大きく引き裂いた。断末魔の叫びを上げて、鴉の巨体が空気に溶けて消えてゆく。

 神様がさっと手を振ると、右手の爪は綺麗に元に戻っていた。

「……ごめん。嫌なとこ、見せちゃったね」

 後ろめたそうに微笑わらうガレトは、もういつものひどく優しい青年だった。肩を抱かれて神殿の奥に戻った姫は、改めてこう問いかけた。

「左腕……」

「ん?」

「左腕、昔、ああいう魔物にやられたの?」

「はは、ないない! 僕は昔から魔力だけは高いからねえ」

 ガレトは気負った様子もなく答え、少女のひたいを撫ぜてやる。カラナはそれでもあきらめず、また同じような問いを発した。

「じゃあ、神様同士のいさかいかしら?」

「いさかいするほど親しい神様はいないなぁ。僕みたいな生き物は、まもる場所に居つくことで価値があるから、あんまり遠出も出来ないし」

 神様の答えに、カラナがふっと黙りこむ。

 その若葉色の目がじわじわ潤み、ぽとりと熱い涙を生んだ。

「か……カラナっ!? どうして泣くの……っ?」

「ねぇガレト、どうして教えてくれないの? あなたの欠けた左腕のこと……こんな大事なことなのに、わたしには教えたくないの?」

 泣きべそで問いつめる許婚に、ガレトは困ったように微笑う。ごまかすような優しさで、恋人の白いひたいに口づけた。

「……そのうち分かるよ。そのうち、きっと教えるから」

 カラナがいやいやをするように、ガレトの胸に小さなひたいをすりつける。しばらくそのままにしてやると、少女はやがて泣き寝入りに寝入ってしまった。

 ガレトはそんな少女を痛みの染みた目で見つめ、ぽつりと小さくつぶやいた。

(ごめん)

 神様はカラナの背中へ手を回し、己の右手で欠けた左腕を撫ぜた。

 やがて目覚めた姫様は、赤い目じりで寝ぼけたようにつぶやいた。

「にょきにょきって、生えてこないものかしら? とかげの尻尾みたいに」

 馬鹿な言葉だが、少女は本気で口にしていた。

(本当にそうなったら、どんなに良いかしら)

 カラナは内心でささやいて、今しがた夢で見た光景を再び脳裏に描いてみた。

 嬉しそうに両腕を広げたとかげの神様。その胸の中に飛びこんで、あたたかな両腕で抱きしめられるその刹那せつな、少女は目覚めてしまったのだ。

「えぇ? にょきにょきって? ……腕と尻尾は、違うから」

 突拍子もないことを言い出したカラナに、ガレトは苦笑して答えを返した。

(そうよね、腕と尻尾は違うわね)

 当然と言えば当然だ。

 寝ぼけた問いを発した自分が恥ずかしくなって、カラナはほんのり頬を染める。そんなカラナに、ガレトはさっき泣かせたおわびのように、細い右手をさし出した。

「でも、そうだね。尻尾がらみで、少しおもしろいものを見せたげる」

 そう言って躍らせた手の中に、銀の短剣が現れる。ガレトは黒く艶やかな髪を、結わえた根元から切り落とした。

 長い髪が黒い滝めいて、どっと波打って流れ落ち、神殿の床にわだかまる。髪は無数の黒く小さなとかげになって、ちょろちょろと神殿の外に這い出していった。

 少女はぼうぜんと美しい神の顔を見上げる。

 ガレトはぐっと短くなった髪型で、ご機嫌をうかがうようににこっと微笑った。そのとたん、黒い髪がまたぞろっと魔法のように生えそろう。

 漆黒の絹束めいた髪が、何ごともなかったかのようにさらさらと神様の背を彩った。

「……ね? 僕の尻尾は髪なんだ。この長い黒髪なんだよ」

 カラナが、見開いていた若葉の瞳をまたたいた。

「いやだもぅ、びっくりした!」

 からからと綺麗な声を上げて、おかしそうに身をよじって笑い出す。ガレトもつられて笑い出した。

 そうして一緒に笑いながら、許婚がまだ心にわだかまりを抱えていることに、本当はちゃんと気づいていた。

 気づいていながら、あえて気づかぬふりをした。

(もうじき分かるよ。僕の左腕の秘密が。君はきっと『知らないほうが良かったのに』って心底嘆くだろうけど)

 片腕の欠けた神様は、心中でつぶやきながら笑い続けた。

(なあ、鴉。神様だって、幸せなことばかりで生きているわけじゃないんだよ?)

 自分が殺した魔物に向かい、ガレトは胸のうちで語りかける。鴉の濁った悲鳴が脳裏に蘇り、ガレトの心をくもらせた。




 第四章・いちごのタルトとサイコロステーキ


 その日、カラナは違和感で目を覚ました。

 何か濡れているような。体の一部が嫌にべとつく。

(やだ、もしかしておもらし? この年になって……っ!)

 あわててベットの中をのぞきこみ、少女は息をんだ。シーツが赤黒く濡れている。鼻をつく鉄のにおいがした。

 カラナは黙って起き上がり、震える手で身じたくをして、階下へ下りた。

「あら、おはよう。どうしたの、朝から怖い顔しちゃって……」

 にっこりと笑ってあいさつする母親の手をとって、少女は真剣な顔で口を開いた。

「今まで、ありがとうございました」

 芯から紡がれたことに、母は丸い目をいっぱいに見開いた。それから、何度か黙ってうなずいた。

「……いちごのタルトを、作りましょうか」

 母親はようやく顔を上げ、微笑わらって娘をうながした。柔らかい声が、少し震えてにじんでいた。




 母親とふたりいちごのタルトを焼き上げて、少女は神殿へ足を向けた。

 まだ眠っていたらしいとかげの神様は、カラナが呼ぶと奥からあくび混じりに顔を見せた。

「おはよう、カラナ。どうしたの? こんな朝早くに……」

 寝ぼけまなこのガレトに、少女はついと手をさし出した。

 さし出した両手には、キッチンペーパーをかぶせたタルトがのっている。

「何これ? 良いにおいだね。いちごかな? いちごの……」

 言いかけた神様が、黙って赤い目を見開いた。

 カラナは頬に血をのぼせてうなずいて、キッチンペーパーをとり払う。

 甘酸っぱい果物の香りが、神殿の中に広がった。

「……いちごのタルトよ。今はいちごの季節じゃないから、ジャムのタルトだけど」

 ささやくようなことに、ガレトののどが音を立てる。二拍、三拍間を置いて、神様がやっと口を開いた。

「――お茶をれるよ。奥で食べよう」

 からからに乾いた声で告げられて、カラナが神妙にうなずいた。

 会話らしい会話もないまま、ガレトが花の香りのお茶を淹れ、ふたりでいちごのタルトを食べる。

「……美味しい?」

「う、うん」

 カラナがようやく訊ねると、ガレトは息詰まったように答えを吐いた。ぎこちなくかすかに微笑った口もとに、いちごのジャムがついている。

「あ」

「な、何?」

「じっとして。口、汚れてる……」

 カラナがそっと指を伸ばして、神様の口もとのジャムを拭いとる。恋人が己の指を舐めるしぐさに、ガレトがごくりとのどを鳴らした。

「…………っっ!」

 神様がぐいとカラナの肩を引き寄せ、衝動的に口づけた。奥に逃げこもうとする舌に舌を絡めて引き出して、口と口とで淫らにつがう。

 息が出来なくて死んでしまうかと思われるほどのキスの後、ガレトは名残惜しそうに口を離した。

「……が、ガレト……っ」

 溶け落ちるような声音で名を呼ばれ、神様はまた新妻のくちびるを深く封じる。

 後はもう、ふたりで至上の快楽にちておちていくだけだった。精を溜めこんだ神様の愛撫はひどくねちっこく、処女おとめのカラナには毒入りの蜜の味わいの、甘い悪夢を思わせた。

 しとどに濡れて抱き合いながら、少女は鼻腔びこうに神様のにおいを感じていた。

 汗まみれの彼の体は、夏の青草の香りがした。ハーブ尽くしの草原のにおい。

 今まで味わったことがないのに、とても懐かしい香りがした。




 甘い毎日が始まった。

 ふたりで朝ごはんを食べて、ふたりで家事をして、ふたりできりもなくじゃれ合って、ふたりで同じベットで眠る。

 カラナは幸せだった。何もかも初めてのはずなのに、今までの生活よりずっと心と体になじむ。

(生まれる前から一緒だったひとだもの、なじまない訳がないわよね)

 花嫁は毎日心のうちでつぶやいて、そのたびやわく微笑んだ。

 幸せだ。きっとガレトも、自分と同じ幸せを味わってくれている。ああ、なんて幸福なんだろう。

 溺れ死ぬほどの幸福の中で、少女にはそれでも一つ気がかりがあった。神様の左腕のことだ。

「ねぇ、いったいいつになったら秘密を教えてくださるの? そのうち教えてくださるって、一緒になる前おっしゃったでしょう?」

 ことさらていねいな口調で責め立てる新妻の頬に、ガレトは淡く口づけた。いつものあいまいな態度をとられて、カラナが薄っすら涙ぐむ。あわてたガレトが、

「じゃあ、教える。今夜ディナーの時に教えるよ」

といつになくすんなりと約束した。

(そろそろ潮時だし)

 いったい何のことなのか、くちびるだけでつぶやく夫に、カラナはかすかな声で告げた。

「もし、あなたの腕が誰かのために損なわれていたならば。わたしその相手をひっぱたきに行ってやるわ」

 ささやくような本気の声音に、とかげの神様は困ったように微笑した。

(それは、困るな)

 息だけでもらしたささやきは、また泣き出した妻の耳には届かなかった。




 その日の夕食は、ガレトがひとりで作った。

 厨房ちゅうぼうに引っこんだまま、なかなか出てこない夫のことを、カラナはやきもきしながら待ち続けた。

 いつも一緒に台所に立つけれど、神様がひとりで夕食を作るのはこれが初めてだ。

(何が出てくるんだろう。ううん、それより、このことは腕の欠けた話と何か関係があるのかしら?)

 いくら考えても分からない。

 分からないけど、何も考えずに待っていることも出来やしない。

 少女はもやもやした気持ちをもてあましながら、ひたすらディナーを待っていた。やがて、香草をたっぷりみこんだ肉の焼けるにおいがし始めた。

「お待たせ! 出来たよ、カラナ」

 神様は照れたように笑いながら、銀のお皿を運んできた。この頃には珍しく、また体を覆うように緋色のマントをはおっている。

 さし出されたお皿には、小さなサイコロステーキが一つきり湯気を立てていた。

「……これだけ?」

(あんなに時間がかかっていたのに)

 思わず訊ねる妻に微笑わらいかけ、神様はちょっと小首をかしげてみせた。

「うん、これだけ」

「だって、あなたの分は?」

「僕はいらないんだ。僕には必要ないから」

 よく分からない返答に、新妻は納得のいかない顔でうなずいた。

「さあ、召し上がれ。気に入ってくれると良いけれど」

 大理石のテーブルの向かいにすわり、神様がはにかんで妻を見つめる。

 カラナは小さく微笑んで、「いただきます」と手を合わせた。一口サイズの肉を口に運んで噛みしめる。その刹那せつな、鮮烈なハーブの香りが鼻を抜けた。

(美味しい……!)

 どこか懐かしいような、それでいてこの上もなく鮮やかな香り。少女は夢中で口を動かし、あっという間に飲みくだした。

 その瞬間、味わったことのない衝撃が体を貫いた。肉にまぶしたハーブの香りの正体に、今さら気づいてしまったのだ。

 この香りは。日を浴びた夏草のようなにおいは――!

「……ガレト……っ」

 カラナは若葉の目を見開いてつぶやくと、ものも言わず夫のマントを引きめくる。はらりと開いたマントの向こうに、血のにじんだ左腕の先がのぞいた。

「……ガレト……あなたの、肉なのね……っ!!」

 片腕の欠けた神様は、静かに微笑ってうなずいた。つかみかかろうとした妻を穏やかなしぐさで押しとどめ、「聞いて」とかすれた声音で告げた。

「君は、知っているでしょう? 僕の……とかげの神様ガレトの肉は『不老長寿の薬』だって。一口食べたら、寿命が二倍は延びるって」

「……じゃあ……そのために? あなたの欠けた左腕は、今までのわたしが食べたせいだったの……?」

「君が望んだんじゃない。僕が無理やり食べさせたんだ。今みたいに、だまし討ちみたいな方法で」

 とかげの神様は石のテーブルを回りこみ、妻の小さな頭を抱いた。

「許してくれ。僕は耐えられないんだよ、君の短い寿命には。いっぺん死に別れたら、またいつ逢えるか分からない。いつか、必ず再会できると分かっていても……空白の時間が辛いんだ」

 ガレトが深く息をつく。詫びるように、いつくしむように、新たな妻の髪を撫ぜ「ごめん」と泣きそうにつぶやいた。

 頭を撫でられ続けながら、カラナの若葉の瞳からひと粒雫がこぼれ落ちた。

「せめて少しでも長く一緒にいたいから、僕は毎回こうして君をだますんだ。君が前世のこまごまを覚えていないのを良いことに……毎回泣かれて、後悔して、でも、どうしてもやらずにいられないんだ」

 カラナの肩が震え出す。

 それほどに想われているのは嬉しい。切ないくらい、とても嬉しい。けれど、自分のためにガレトが損なわれてゆくことが、やりきれないほど口惜しい。

「……何てことするのよ……こんなこと繰り返してゆくうちに、あなたがなくなっちゃうじゃない……っ!!」

 カラナがガレトにすがりつき、身をふりしぼるような声を立てて泣き出した。片腕の神様は困りきった顔をして、右手だけで妻の頭を撫で続けた。




 ふと気がついて目を開けると、カラナは白いベットの上にいた。

 泣き疲れて眠ってしまったらしい。ぼんやり視線をさ迷わせると、となりにガレトが微笑わらっていた。

「落ちついた? カラナ」

「…………傷は?」

「うん、もう治ったよ」

 こともなげにこたえて、神様が欠けた左腕を示してみせる。痛々しい赤みはすでに引いてはいたが、今までより少し輪郭りんかくがこそげて見えた。

 カラナが細く息をつく。

 黄緑色の潤んだ瞳をまたたいて、夫を見つめて問いかけた。

「ねえ、ガレト。わたしを愛してる?」

「うん」

「……本当に?」

「うん」

「嘘よ」

 かぶせるように否定され、神様が赤い目を意外そうに見開いた。

 前世の彼女と、けんかをしたことはもちろん何度もある。数えきれないほどあったが、自分の愛そのものを否定されたのは初めてだった。

 あまりの衝撃に黙りこむ夫を責めるそぶりで、カラナは言葉を重ねてゆく。

「嘘よ、嘘に決まってる! 本当にわたしを愛しているなんて、でたらめもいいところだわ!」

「……何で……? ねぇ、どうしてそんなこと言うの……?」

 とかげの神様が、泣き出しそうに赤い目を潤ませてすがりつく。

 妻はいっぺん言葉をきり、静かな目の色でこう告げた。

「愛しているなら、待てるはずよ」

「…………っっ」

 ガレトが、虚を突かれたように黙りこむ。カラナは夫の白い頬へ手を伸ばし、優しく撫ぜながら口を開いた。

「どんなに淋しくても、どんなに悲しくても。わたしのことを心から愛しているのなら、いつまでだって待てるはず」

 穏やかな口ぶりで言いながら、カラナは左手で己の胸を押さえつける。

 残酷なことを言っているって分かっている。

 痛いくらいに分かっているけど、これ以上このひとを欠けさせるのは耐えられない。

「……ねえ、もう止めてよ、こんなこと。あなたがこの世になくなっちゃったら、わたしはどうやって時を過ごせば良いの……?」

(ああ、我がままだ。わたしもこのひととおんなじくらい、我がままだ)

 カラナはそう思いながらしゃくり上げて泣き出した。

 強すぎる想いは、やがて歪んでゆくものだ。

 ガレトとカラナの魂の想いは、もう愛ではないのかもしれない。恋と庇護欲ひごよくと独占欲と、いろいろなものが絡まり合い混ざり合った、何か得体の知れぬもの。

 それでも、互いがたがいを痛いくらい想っているのは本当で。

「ねえ、もう止めて。わたし、何度生まれ変わってもあなたと一緒にいたいのよ……っ!!」

 神様が困惑しきった表情で、妻の肩へと手を伸ばす。

 丸くなめらかな肩へ右手を触れて、とまどいながらも、うなずいた。




 第五章・贖罪しょくざいの夢と最後の願い


 カラナを妻にめとってから、長い年月が過ぎた。

 ある夜、ガレトは夢を見た。

 カラナと一緒になったばかりのころの夢だった。カラナは本当に嬉しげで、ガレトと一緒にいられる、そのこと自体を全身で楽しんでいるようだった。

 ある晩に、カラナはひとりで厨房にこもった。

「入ってきてはいけませんよ」

とお母さんのような口調でたしなめ、歌いながらキッチンへ入って小一時間。鼻歌混じりに運んできたのは、一口サイズのステーキだった。

「え、これだけ? 君の分は?」

「いいのいいの、わたしはいいの。それよりも、さ、召し上がれ」

 上機嫌で料理をすすめる妻に押され、ガレトが肉を口に運ぶ。

(美味しい)

 一種独特の、花のような甘い香りがついている。それに柔らかい。歯を立てる間もなく、舌の上でさらさらと甘く溶けてゆく。

 またたく間に一口分を食べきった後、ガレトはもだえるほどの激しい後悔に襲われた。

 この香り。

 夏に咲き誇る花の蜜にも似た、このにおいは。

「……カラナ……君の、肉なのか……?」

 泣き出しそうに訊ねる夫に、カラナはあっさりうなずいた。

「そうよ。だってわたし、死んでからもあなたと一緒にいたいんだもの。あなたがわたしの肉を食べたら、いつまでだって一緒でしょ?」

 楽しげに笑う妻の姿に、片腕の神様はやっと心から理解した。

(ああ。僕はこんなにむごいことを、このひとに対してしてきたのか)

 ガレトは気の狂ったように笑う妻を抱きしめた。目がやけどしたように熱くなり、視界が歪んで、涙がぼろぼろこぼれ落ちた。

 カラナは抱きしめられながら、くつくつと肩を揺らして笑い続けた。

 笑いながら、泣いていた。




 痛ましい夢から目覚めた時、となりにカラナが眠っていた。

 一見すると若いままのようにも見えるが、桃色の口もとにはわずかにしわが浮いている。透き通るように白かった肌も、ほんのわずかにくすんでいる。

 娶ってから二百年あまり経っているのだ。いかな神様の肉を口にしたとはいえ、容色の衰えはまぬがれまい。長寿の効果も、もうじき切れる。

 それが分かっているから、ガレトはよけい妻に優しくした。別離わかれが辛いから、出来るだけそばにいた。

(でも、きっと、もう)

 このままいなくなる気さえしてきて、ガレトはそうっと妻の頬を撫で上げた。

 静かに目を開いたカラナが、弱々しく微笑んだ。

「……もうじきお別れね、今回のわたしとは」

 とかげの神様は泣き出しそうにうなずいて、頬にいびつな笑みを浮かべた。

「……ねえ。最後にさ、僕にしてほしいことはない?」

「そうねぇ……」

 カラナは遠い目をして考えて、それからふんわり微笑んだ。

「あのね、わたし、あなたに抱きしめてほしいのよ。あなたの両腕で、優しく抱きしめてほしいのよ」

 ガレトが『くっ』と小さく声を上げる。

 不自然なほどにまばたきながら、「ごめん」とくぐもった声であやまった。

「ごめん、ぼくは……君の願いを叶えられない」

 ひとりの時間が切なくて淋しくてたまらなくて、自分勝手な考えで失ってしまった左腕。

 この両の手で抱きしめたいと、実は何度も願っていた。思うたびやるせない気持ちになって、ひとりくちびるを噛んでいた。

 こらえきれずに涙を流す神様に、妻はほんのり笑いかけた。

「何も今の世の話じゃないの。次からで良いのよ、ガレト」

「……つぎ?」

「あのね、ガレト。わたしが死んだら、わたしの腕をあなたの腕にいでほしいの」

 突拍子もないことを言い出すカラナを見つめ、ガレトがひっとのどを鳴らした。

「……接ぐ?」

「そうよ。死んだらもう、この腕に用はないでしょう? だからお願い、この腕をあなたに使ってほしいの」

 とかげの神様が、涙を拭って崩れるように微笑わらいかけた。

「それじゃあ、君のことは抱けないよ」

「そうよ。だから来世まで、楽しみにして待ってるわ」

 とかげの青年は、綺麗な顔をくしゃくしゃにして笑ってみせた。

(ああ、だから好きなんだ。何回出逢っても、そのたびに一番好きになる)

 ガレトは泣き笑いながら、愛しい妻に抱きついた。片腕だけでせいいっぱい、小さな体を撫でさすって抱きしめる。

「次の世からは、いっぱいいっぱい両手で抱きしめてあげるから。……だから、さ、」

 とかげの神様が、ふいにぐるるっとのどを鳴らす。

 赤い瞳からぽろぽろ涙をこぼしながら、妻の首に右手を回した。

「……だから、すぐにでも生まれ変わってきておくれ……っ!!」

 カラナはしわの浮いた目もとを緩めてうなずいて、淋しい神様にキスをした。

 視界がだんだんぼやけてくる。愛しいひとの泣き顔までがかすんでにじんで、全体にもやがかかってくる。

(もう、おしまいね)

 穏やかに口もとに笑みを浮かべて、カラナは意識を手放した。ふっと体の軽くなる刹那、カラナの中に青草の香りがさっとはしった。

(ああ、美味しかったなぁ……)

 むせ返るほど鮮烈な、夏の青草の香りのステーキ。

 愛しい神様の、体の欠片かけら――。

 その想いを手みやげに、カラナは天へ召されていった。のこされたとかげの神様は、声もなく泣いてないて泣きながら、妻の亡骸なきがらに嵐のようなキスをした。

 やがて泣き終えた神様は、真っ赤に泣きはらした目をして、妻の左手へ手をかけた。ごきりという乾いた音が、神殿の奥ににぶく響いた。




 エピローグ・いびつな左手


 それから幾年いくとせが過ぎたろう。

 とかげの神様の神殿に、大荷物をしょった女の子が駆けこんできた。しゃくり上げて泣きながら、大理石の冷たい床に腰を下ろす。

 ふいにかたんとかすかな音がして、女の子は顔を上げた。

「……誰かいるの?」

 ひょこりと柱の向こうから、ひとりの青年が現われた。

 びっくりしたような顔をして、少女の方へ歩いてくる。赤い目の綺麗な青年だ。絵に描いたように美しいが、少し体のバランスがおかしい。

(腕だ。左腕が変なんだ)

 少女は心中でつぶやいて、ほんの少しだけ首をかしげた。

 青年は女の人のように華奢きゃしゃな体をしているが、左腕だけことさら細い。爪は右手の爪よりずっと形が整っていて、女の人の指そのものだ。

 青年は赤い目を緩ませて、女の子におもしろそうに問いかけた。

「ねえ、どうしたの? すごい大荷物だね」

「……家出してきたの! あたしヒィナって言うんだけど、さっき弟とけんかしてね、弟が悪いのに『お姉ちゃんが折れろ』って、パパもママも言ってきたのよ! ひどいと思わない?」

 少女の言葉に、青年がおかしそうに苦笑う。

「で、何で家出先が神殿なの?」

 からかうように訊ねられ、ヒィナはぐっと亜麻色の髪をたくし上げた。

 細い首すじに、赤いとかげのあざがくっきりと浮いていた。

 青年はふっと笑い止め、怖いくらいまっすぐな声で問いかけた。

「……とかげのお姫様?」

「そうよ、だからあたしここに来たの。まだちょっと早いかもしれないけれど、とかげの神様の奥さんに……」

 言いかけたヒィナの体を、赤い目の青年が抱きしめる。

 それは腕と腕とのバランスが崩れていて、少しいびつな感触で、でも何だか妙に安心した。

 少女は深く息をついて、青年の背へと手を回した。

「とかげの、神様?」

「……そうだよ。おかえり」

 初めて逢うひとの、初めての『おかえり』は、何だか変に懐かしくて。

 ほんのちょっぴり、涙が出た。

                                      (了)


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