医師たちの日常 Karte1
間を開けて申し訳ありません。
2029年4月1日・・・ついにこの日、リチアンドブルクの地に日本国による医院が竣工した。
最初の1ヶ月間は“異国の民が帝都に作った得体の知れない施設”と敬遠されていたが、皇帝陛下の息が掛かった医院であるということ、また、以前に藁をもすがる思いで来院した重篤な肺炎にかかったとある公爵貴族を治療・治癒してからは、貴族の人々が来院する様になり、そのことが評判となってからはちらほらと患者が入るようになっていた。
そんな状態で時は過ぎ、約2ヶ月後の6月7日、この日、強襲揚陸艦「こじま」に乗って、医院の交代要員として日本から派遣された5人のスタッフがリチアンドブルクへと到着した。
〜〜〜〜〜
2029年6月7日 クロスネルヤード帝国 首都リチアンドブルク 赤十字病院
新たな仲間を迎える為、病院のスタッフたちが待合スペースに集まっていた。彼らの前には長旅で少し疲労した様子の5人の若人が立っている。
「君たちが今回、日本から派遣された新規スタッフだね。歓迎するよ。私が院長の長岡寧です」
長岡は緊張した面持ちの5人の新人に向かって挨拶を述べる。
「は、はい! ありがとうございます!」
少したどたどしい様子で、新人の1人が歓迎の意に対する礼を述べる。
「では君たちにも自己紹介してもらおうか、じゃあ・・・君から」
長岡はそう言うと、彼から見て1番右端に立っている新人を指差した。指名された新人の青年は気を引き締め直して自らの素性を述べ始める。と言っても、彼ら5人の名前と担当職務は、長岡ら既存のスタッフたちにとっては、本国からの連絡で周知のことである。すなわちこれは一種の入社式の様なものだ。
「長崎大学出身の猪沢源次と申します。皮膚科医をやっております」
「信州大学出身、田原時政といいます。以前勤めていた病院では臨床検査技師をやっておりました。技師として皆様のお役に立てる様に尽力していく所存です」
「帝京大学出身の近藤雅美と申します。以前勤めていた病院では薬剤部で働いていました」
「横浜市立大学出身、西尾紀秋といいます。泌尿器科医をしています」
「東京医科歯科大学出身の早川沙希と申します。東京で口腔外科医をしておりました」
新人スタッフの5人は各自、出身大学と役職を述べていく。男女の内訳は男3人に女2人である。ちなみにこの病院は日本政府が日赤に委託することで設立された病院である為、派遣されるスタッフは大概が日本赤十字社の社員であり、彼ら5人を含め、スタッフたちが以前働いていたのは日本国内の赤十字病院であった。
「早速だが明日から業務に就いて貰おう。我々がここで行う仕事は、日本のそれとは大きく異なる。未知の病に遭遇する可能性もある。いままで学んできた常識に囚われることなく、柔軟な思考と鋭い洞察力を以て職務にあたるように」
長岡は異世界の地で働く為の心得を伝える。新人スタッフの5人はその言葉を聞いて、益々気を引き締める。そんな彼らの様子を満足げに見ていた長岡は、1人のスタッフを指差して指示を出す。
「飯島くん・・・彼らを案内してやってくれ」
「分かりました」
名を呼ばれた看護師の飯島彰伸は、5人の新人スタッフを手招きして呼び寄せる。飯島に招かれた5人は待合室の奥へと移動して行った。
この病院に勤めるスタッフは今回の新人5名を含め合計で40名、そのうち歯科医を含めた医師が10名で他の30名は看護師や薬剤師、作業療法士、放射線技師といった、所謂コメディカルと呼ばれる役職の人々である。医師の内訳は、心臓・循環器外科1人、脳神経外科1人、消化器外科1人、麻酔科2人、皮膚科1人、口腔外科1人、総合内科1人、泌尿器科1人、病理医1人である。
それぞれがそれぞれの専門分野を担当するが、基本的に外来患者の診察は持ち回りで行っており、いざとなれば専門を超えた分野も行っている。例えば消化器外科の唐内は消化器内科も行うし、心臓・循環器外科の長岡は呼吸器外科の専門医も取っている。さらに脳神経外科の柴田は精神科の分野も担当している。
施設については病棟、宿舎、発電室の3つの建物から成っており、いずれも2階建てである。ここは地震が無い為、建物の基礎は日本の建築物ほどしっかりはしていない。
「病床数20、手術室2、CT室1、MRI室1、シンチグラフィも出来るぞ」
5人の新入りを案内している飯島は、病院のスペックを説明する。
「大病院という程ではありませんが、中々の規模ですね」
説明を聞いていた新人の田原が、思ったことを口にする。
「そうだろう? ただ規模に見合うスタッフの数では無いね。まあ、この世界の人々は平民であれば滅多なことで無ければ医者にはかかりたがらないし、貴族の方々は宗教上の理由とかで、厳格な人はウチには来たがらないから、40人で十分回して行けるんだけど・・・」
飯島は苦笑いを浮かべながら、割と暇を持て余している現状について述べる。その後、院内の見学を終えた新人5人は宿舎へと連れられ、各自が割り当てられている部屋へと案内された。
〜〜〜〜〜
3日後 夕方 病院内
この日も診療時間を終え、スタッフたちは当直の為に医院へ残る数人を残し、医院の隣に併設されていたプレハブ宿舎へと戻る。
「「お疲れ様でしたー!」」
「ああ、お疲れさん」
宿舎へと戻る後輩たちに、この日の当直担当の1人である柴田が労いの言葉をかける。その後、静寂と暗闇が支配する深夜の病院の待合室に、この日の当直担当である柴田、神崎、田原の3人が、雑談と急患に備えるために集まっていた。
深夜2時頃 待合スペース
夜勤の3人は眠気覚ましの緑茶を片手に雑談をしていた。その中の1人が椅子の背もたれに肘を付いて体をもたれかけながら、他の2人に話しかける。
「今日も患者さん、数える程しか来なかったぞ。開院して2ヶ月、この調子じゃあ、民間の医院なら廃業だな。俺たちとしても、この世界の疾病に関するデータを収集しなければならないのに」
総合内科医の神崎志郎は、閑古鳥が鳴くとまでは行かずとも、予想以上に患者が来ない現状についてぼやく。
「単にまだ信頼度が足りないせいもあるだろうが、宗教上の理由が大きそうだな。この国の医術士は信仰されている宗教と密接に関係している様だし・・・この世界の医術士も、来てくれたのは1人だけだしね・・・」
そう述べるのは脳神経外科医の柴田だ。ちなみに彼が口にした”来てくれた医術士”というのは、医学実習の為にこの病院を訪れている、とある若き青年医術士のことだ。
この病院を設立するに至った理由は、もちろん国交樹立の条件だったのもそうだが、日本国内の都市を除けば世界最大の規模を誇るリチアンドブルクを起点にして、この世界の衛生観念と医学知識の水準の底上げを計ろうとしたのも主な理由だった。
その為、この病院では現地の医術士たちに教育を行う為に、10人までという上限を設けて医学実習の参加希望者を募ったのだが、”あそこでは教典に反する医術を行っている”とでも吹聴されたのか(実際彼らにとってはその通りだが)、教会とイルラ教に染まっている医術士たちが募集に応じることは無かった。
かろうじて1人、割とやる気のある青年が来てくれたが、それも何時まで保つのだろうかというのが、スタッフ全員が思っていたことだった。
「・・・」
神崎と柴田は会話を続ける。新入りの田原は年長者2人に挟まれ、若干居心地が悪そうにして湯飲みをすすっていた。その時・・・
バンッ! バンッ!
「「・・・?」」
扉を叩く音が彼らの耳に届く。音のする方を見れば、夜の暗闇で良く見えないが1人の人影があった。
「御免下さい! ニホン国の医術士様はまだいらっしゃいますか!?」
「!」
そう叫ぶ声は女性のものであった。この地で初の深夜外来に3人は少し驚きつつも、事態の大きさを悟る。彼女はこの広大な首都リチアンドブルクの郊外まで、わざわざ深夜に来たのだ。女性が深夜の街に出るなど、元の世界でも結構危険な行為である。今、扉の向こうにいる女性はそんな危険を冒してまでここに来ている。状況の重大さが伺える。
柴田はすぐさま来訪者の元へ駆け寄り、扉を開ける。そこに居たのは、タオルケットの様な布にくるまれた何かを抱えている女性の姿だった。
「どうされましたか!?」
「・・・!」
扉の向こうから出て来た真っ白な装束の大男に少しばかり驚いたのか、女性は一瞬黙りこくってしまったが、すぐに我を取り戻した彼女は柴田の問いかけに答える。
「お、お願いします! 息子を助けてください!」
そう言うと、女性は抱えているものを柴田に差し出した。彼女が抱えている布の中には、高熱を出し、頬が紅潮している幼男児の姿があった。かなり苦しそうな様子が見て取れる。2人の身の着を見れば、華美とは言わないが、それなりに高級そうな衣装に身を包んでいる。おそらく彼らは貴族なのだろう。
「・・・すぐに診察します! 中へ!」
状況を正確に察知した柴田は、母親と名乗る女性とその男児を病院内へ入れる。同じく事態の重さを知った2人も、治療の為の準備に取りかかった。
第二診察室
診察室に入る患者とスタッフ、合わせて5人、診察用のベッドの上には今回の患者である男児が寝かされている。彼の名はスウィーテ=コルサコフ、クロスネルヤード帝国伯爵位「コルサコフ家」当主の第四子息である。年齢は4歳半だ。
柴田が彼の脇から取り出した体温計が測定した検温の結果は、40.2℃と異常な高熱で呼吸も荒い。状況は深刻だ。
「症状はいつからですか?」
首元のリンパ節を触診しながら、柴田はスウィーテの母親、すなわち伯爵婦人であるウェルシェ=コルサコフに彼が発症した時期について尋ねる。
「・・・今日の朝です!」
(朝・・・となると半日以上前か・・・)
柴田は心の中でつぶやいた。朝っぱらからこれだけひどい容態なら、病院が開いている時間に来てくれた方が良かったのに、そんな事を思いながら、彼はスウィーテが発症している病気を特定するために、その所見を探る。
「僕! どこが痛い? どこが悪い?」
高熱によって少しばかり意識が朦朧としている様子のスウィーテは、柴田の質問に息も絶え絶えな様子で答える。
「あ・・・頭痛い・・・」
「頭が痛い! なるほど、他には? 喉は?」
「・・・」
咽頭の痛みの有無を尋ねる柴田の質問に対して、スウィーテは小さく頷いた。簡易的な問診を終えた柴田は、側に立っていたウェルシェの方を向く。
「ウェルシェさんから見て、息子さんの容態に何か気になる点はありませんでしたか? 何でも良いんです」
柴田の問いかけに、ウェルシェは朝から今までの息子の容態について記憶を巡らす。
「・・・熱と・・・頭の痛みの他には・・・、少し震えていたくらいです・・・」
「嘔吐・・・吐き気は?」
「・・・いいえ、ありませんでした」
大したことを言えなくて申し訳無い、そんなことを考えながらウェルシェは答えた。
(悪寒、高熱、頭痛・・・喉頭痛! インフルエンザかなあ?)
2人から聞いた所見から、柴田はスウィーテを脅かしている病の正体について考察する。直後、柴田と同様の病名を考えていた神崎が、側に立っていた田原に指示を出す。
「インフルの検査をしよう。綿棒を持って来て」
「は、はい!」
指示を受けた田原は、鼻粘膜を採取してインフルエンザを診断する為の専用の綿棒を取りに、第二診察室を後にする。その様子を確認した柴田は再びスウィーテの方を向いて彼に話しかける。
「今から病気の検査を行うよ。その時、鼻の穴の中に綿棒みたいなものを入れるから、少しの間だけ起き上がってくれるかな」
柴田はそう言うと、男児の後頭部と項の部分を右手で支え、彼の上半身を起こそうとする。その時、彼はとある異常に気付いた。
(・・・”項部硬直”と”ブルジンスキー徴候”・・・!)
柴田の目の前には、項が硬直しているために首が曲がらず、頭部を持ち上げられただけで上半身全体が浮き上がり、更には触れていないはずの両膝が曲がっているスウィーテの姿があった。神崎もその様子を見て驚いている。
(・・・と言うことは)
柴田はこの所見からとある病名を思い浮かべていた。彼は自分の予想を確かめる為に、更なる検査を行う。まず始めに、柴田はスウィーテの右脚を持つと、膝を曲げた状態で大腿部が地面に対して垂直になるように股関節を曲げる。その状態でつま先が天井を向く様に膝を伸ばすと、膝の角度が120°くらいになったところで伸びなくなった。
「う・・・」
「ケルニッヒ徴候有り・・・」
柴田はつぶやく。スウィーテは柴田が行った検査によって新たに生じた膝の痛みに顔を歪める。
「・・・先生、一体何を!?」
「病気を特定する為の検査です。ご心配なく」
不安そうな表情を浮かべるウェルシェに対して、柴田は簡潔に答える。直後、彼は自身の後方に立っている神崎の方を向き、彼に話しかける。
「神崎先生、これは・・・」
「ああ、恐らく”髄膜炎”だな」
柴田と神崎の2人は同じ病名を思い浮かべていた。直後、神崎の指示を受けてインフルエンザ検査用の綿棒を探していた田原が診察室に戻って来た。
「綿棒を持ってきました!」
急いで来たのか、息を切らしながら診察室に現れた田原は、2人に滅菌シートに覆われた未使用の綿棒を見せる。
「いや、インフル検査はもう良い。代わりに血液検査と腰椎穿刺による髄液検査を行う! 荒川先生と黎さんを起こして来て、すまんが大至急!」
「・・・! 分かりました!」
神崎の新たな指示に事態の重さを察した田原は2つ返事で答えた。その後、田原はこの病院に勤務している麻酔科医と放射線技師を起こす為に、スタッフたちが寝泊まりしている宿舎へと向かった。
30分後、田原によって呼びつけられた荒川と黎の2人を含めて、5人のスタッフが第二診察室に集まっていた。麻酔科医の荒川翔太と放射線技師の黎亜紀を呼んだのは、CTスキャンと腰椎穿刺の際の麻酔を行うためだ。すでにスウィーテの血液検査とCT検査は終えてある。血液検査により白血球数の圧倒的増加を確認したことから、細菌性の疾患である可能性が高い。
その後、5人は撮影されたCT画像を見ながら、ある話し合いをしていた。
「散瞳は無く、対光反射に問題は無い。また嘔吐の症状は見られない」
「CTの結果、頭蓋内圧亢進や、それに関連する疾患、合併症は認められず」
「脳ヘルニア発症の可能性は低いか」
「腰椎穿刺は問題無いと思われます」
5人は患者の状態を確認する。彼らが語っているのは腰椎穿刺による髄液検査の是非についてである。
「・・・」
息子を変な道具に乗せられたかと思えば、自分を差し置いて何やら話し合いを行う5人の白装束の姿を見て、ウェルシェはこの上ない不安を感じていた。この国の医術士では手の施しようが無かったとは言え、やはり異教徒の医術士に息子を託したのは間違いだっただろうか、そんなことを考え、少し混乱している彼女に神崎が近づく。
「・・・?」
きょとんとしているウェルシェに対して、神崎は質問をぶつける。
「息子さんが最後に物を食べたのは何時ですか?」
「・・・? 今日の夕方です。ほとんど食べられなかった様ですが・・・」
奇妙な質問をしてくる神崎に疑問を抱きつつ、ウェルシェは答えた。それを聞いた神崎は診察室の外の待合スペースを指し示しながら、一旦診察室を出る様に促しつつ、ウェルシェに語りかける。
「ウェルシェさん、ちょっとこちらへ。息子さんの治療についてお話があります」
「・・・!?」
神崎の言葉に驚きつつ、息子を診察室に置いて行くことにちょっとした不安を抱きながら、彼に促されるままウェルシェは診察室を後にする。
15分後、医療スタッフたちは2人の話し合いの成果を待っていた。彼がウェルシェと共に待合室へと行ったのは、これからスウィーテに対して行う必要のある「髄液検査」に必要な「腰椎穿刺」という手技について説明する為である。
腰椎穿刺とは背骨の中を走る”脊髄”を覆う”クモ膜下腔”という空間に外部から針を刺し、その中に満たされている”髄液”という体液を採取する検査のことである。脳の”脳室”と呼ばれる部位から産生される髄液は、髄膜炎や脳腫瘍などの疾患を診断するための判断材料になるのだ。
今回、この検査を行う目的はスウィーテ=コルサコフが発症した髄膜炎が、どのような原因によるものかを識別するためである。それによって治療方法も薬剤も変わってくるからだ。
「神崎先生遅いですね・・・説明に手間取っているんでしょうか?」
放射線技師の黎は、中々待合所から帰ってこない2人に不安を抱いていた。
「無理も無い。何せここでやる事なす事意味不明だろう、彼女には。むしろここまで目立った文句を言わず、息子さんをゆだねて貰えているだけでもこちらとしてはありがたいよ」
柴田が答える。ここへ尋ねてくる患者たちの中には、どんなに分かりやすく説明しても、採血や内視鏡、超音波、点滴などの検査・治療が理解できず、抵抗したり激しい時には暴れ出す者もいた。
その時・・・
『・・・何ですって!?』
待合スペースの方から何やら大きな声が聞こえた。ウェルシェの声だ。不穏な事態を察知したスタッフたちは聞き耳を立てる。
『せ・・・背骨に針!!? 背骨に・・・!?』
『はい。麻酔を打ちますから痛みは有りません。ご心配な・・・?』
直後、興奮する彼女をなだめる様な神崎の声が聞こえる。その時、神崎の声が途中で途絶えたかと思うと、何かが床へ倒れる音がした。
バタッ!
『ウェルシェさん・・・? ウェルシェさん!?』
その直後、動揺した様子で母親の名を呼ぶ神崎の声が聞こえる。ただならぬ事態を察知したスタッフ4人は、待機していた診察室から、待合所へと急行した。
待合スペース
「・・・お見苦しいところをお見せしました」
ウェルシェはそう言うと、スタッフたちに申し訳なさそうな表情を浮かべる。彼女は神崎から腰椎穿刺についての説明を聞いていた時、背骨に針を刺すという言葉にショックを受け、気絶してしまったのだ。
彼女が一先ず落ち着いていることを確認した神崎は改めて説明を続ける。
「とりあえず、先程申し上げた通り、麻酔という痛み止めを打つので検査は痛みを感じません。採取した髄液を調べることによって、お子さんの病気の原因、行うべき治療を判定することが出来るのです。なにとぞ御理解頂きたい!」
神崎は頭を下げる。彼に続き他の4人も同様に頭を下げる。ウェルシェは患者に対して頭を下げるという異世界の医術士たちの行動に驚きつつも、その熱意に心打たれる。元々、深夜2時という常識外れの時間に訪れて来た自分たちを、何も文句を言わずに受け入れてくれた者たちなのだ。
結論を出した彼女は、落ち着いた表情を浮かべてゆっくりと口を開いた。
「こちらこそ、息子をよろしくお願いします」
「「・・・!」」
ウェルシェはそう言うと、深く頭を下げる。その言葉にスタッフ5人は安堵する。
第二診察室
ベッドの上に寝かされているスウィーテは、間も無く髄膜炎の症状のピークが訪れる発症後24時間を迎えようとしている。彼の様子は来院時よりさらに苦しそうだった。柴田はそんな彼の目線に合わせるように床の上にしゃがみ込むと、少し焦りを見せる声でスウィーテに語りかける。
「君に話があるんだ・・・」
「・・・?」
スウィーテは顔を近づけて自分に話しかけてくる男の方を向く。その後、柴田が彼に説明したことは、これから行う治療についてだった。普通に説明すれば大人にとっても少し難しい腰椎穿刺についての説明を、幼児に伝わる様に最大限分かりやすく説明する。
「・・・という訳で麻酔という痛みを消す薬を打つときだけ、さっきみたいにちくっとするけど、それ以外は痛くないよ。君は僕たちが言った通りの姿勢を取ってじっとしてくれれば良い。・・・検査を受けてくれるかな?」
柴田は優しい声で問いかける。ウェルシェ、そして他の4人のスタッフはその様子を固唾を飲んで見守る。
「・・・うん」
少し考える素振りを見せた後、スウィーテは小さな声で答えた。
「・・・良い子だ」
柴田は笑顔を浮かべながら、2つ返事で検査を受けることにOKを出してくれたスウィーテの頭をなでる。乳幼児を専門に診察を行う小児科において、患者を褒めることは重要な要素だ。直後、柴田はスタッフたちの方を向くと全体に向けて指示を出す。
「良し! 直ちに穿刺を行う! 田原、準備は良いな!」
「はい、オッケーです!」
田原は、はきはきとした声で答える。その後、計5人の医師とメディカルスタッフによって、腰椎穿刺を行う準備がてきぱきと整えられた。
「トイレは大丈夫?」
「・・・」
荒川の問いかけにスウィーテは小さく頷いた。彼の視線の先にはベッドの上で横になりながら、背を荒川の方へ向けつつ、さらに猫背の様な体勢でじっとしている幼児の姿があった。彼の体勢が崩れない様に、田原が外部からスウィーテの体を支えている。
「バイタルサイン、OKだ」
荒川は神崎の言葉に頷く。その後、彼は再びスウィーテに語りかける。
「じゃあ今から麻酔を打つよ。一瞬だけさっきみたいにチクッとするけど、すぐ痛みは無くなるからね」
患者の不安を和らげる様に話しかけながら、荒川は消毒液を浸した脱脂綿で背中の穿刺部位周辺を消毒した後、局所麻酔薬が入った注射針をその部分に刺した。針を刺された痛みにスウィーテの体が一瞬だけビクッと動いて反応したが、麻酔薬が体内に入り、その痛みはすぐに消え去る。
(強い子だな・・・)
検査に対してあまり動じない様子のスウィーテを見て、神崎は心の中でつぶやいた。
「・・・良し、後は頼むぞ」
麻酔薬の注射を終えた荒川はそう言うと、腰椎穿刺を行う柴田へとバトンタッチする。滅菌手袋を付けた柴田の手には穿刺針があった。
「吐き気とか痛みがあったら、我慢せずに言うんだよ」
柴田の言葉にスウィーテは頷く。直後、柴田は穿刺針を腰椎と腰椎の間に刺し込む。髄液が穿刺針の中へ入って来る。
「初圧、140mmH2O・・・クエッケンステットテスト陰性・・・」
スウィーテは荒川や柴田に言われた通りにじっとしていた。やはり自分の背中で何をされているのか分からない恐怖心があるのか、目をぎゅっとつぶっている様子が見て分かった。確かに痛みはない。彼が感じているのは、背中で何かされている、体の中に何かが入って来たという違和感だけだ。
「・・・」
腰椎穿刺を受ける彼の姿を、彼の母親は心配そうに見つめていた。その一方で、神崎の説明通り、痛がる様子を見せない彼の姿を見て、少し安心していた。数分後、スウィーテの背骨から穿刺針が抜かれ、髄液の採取が終わったことが2人に伝えられた。髄液の採取を終えた彼は1〜2時間ほど絶対安静となる。
それから40分後、穿刺を終え、解熱剤である座薬を投与されたスウィーテは、一時的とは言えども高熱から解放され、何とも安心した様な顔で眠りについていた。
「採取した髄液より、多形核白血球と厚い莢膜を持つグラム陰性桿菌を検出しました。またラテックス凝集によって菌種も判定できました。『ヒブ』が原因の『細菌性髄膜炎』かと思われます。
現在、確定診断を得る為に血液培養を行っています。同定の結果が出るのは明日ですが、ほぼ間違いないかと・・・」
採取した髄液の検査を終え、検査室より帰って来た臨床検査技師の田原が検査結果を報告する。
「インフルエンザ菌莢膜b型か・・・」
神崎がつぶやく。ようやく患者の病の原因が分かったことに、その場にいた全員がひとまず安堵していた。
「インフルエンザ菌」とは呼吸器や中耳に感染する細菌の一種で、様々な分類と種類から成る。かつて、流行性感冒を起こす病原菌だと勘違いされたことからこの名を付けられたこの菌は、主に乳幼児に対して中耳炎、肺炎、結膜炎などの様々な疾病を引き起こす病原体であり、中でも「インフルエンザ菌莢膜b型(略してHib)」と呼ばれる種類は、髄膜炎や喉頭蓋炎などの重篤な病を引き起こすのだ。
現在の世界では、100カ国以上の国々でHibに対する免疫を付ける為の「ヒブワクチン」の投与が乳児に対して行われており、日本では比較的最近である2013年に、国の定期接種に組み込まれた。
「・・・デキサメタゾンと静注用セフトリアキソンナトリウムを持って来い、俺がやる」
「分かりました」
神崎に指示を出された田原は、四度診察室を後にする。しばらくして田原から薬品と注射器を受け取った神崎は、ベッドの上に横になっているスウィーテの元に近づく。深い眠りについているのか、彼は神崎が腕を掴んでも起きる気配が全く無かった。
「髄膜炎は、発症から24時間で症状のピークを迎え、一説には30%という結構な高確率で何らかの障害を脳に残すなど、予後はあまり良くないことから早期発見・診断が重要であるとされている。
彼はまだ発症から24時間は経ってはいないだろうし、早期発見が出来たので障害が残る可能性は低いでしょうが、これだけの熱と症状が朝から出たのであれば、もう少し早く受診して頂きたかったものですね」
「・・・!」
患者の腕にゴム管を巻き付け、静脈内注射の準備をしながら神崎はウェルシェに語りかける。彼の言葉に彼女は少し苦い表情を浮かべ、顔を反らした。
「・・・実はここへ連れて来ようという提案を主人に断固反対されていたのです。”異教徒の汚れた医術に頼るなど、恥を知れ”・・・と」
ウェルシェは深夜に来院した理由を語り始める。柴田、神崎、荒川、田原、そして黎の5人は、彼女の話を黙って聞いていた。
今朝、厳密に言えば昨日の朝だが、10時頃に愛息子のスウィーテの様子がおかしいと侍女の1人が報告してきた。屋敷の当主であり、ウェルシェの夫であるファセット=コルサコフ伯爵は、すぐに教会の医術士を呼び付け治療に当たらせたが、当然ながら病の原因は分からず、医術士が処方した熱冷ましも効果は薄かった。
そこで医術士は教会の司祭による”祈祷”を施すことを提案。彼はそれとなく”お布施”を用意するように指示し、司祭を呼ぶために教会へ向かった。しかしその後、再びコルサコフ家の屋敷を訪れた医術士から伝えられた言葉は、”司祭は別の公爵家のお屋敷に行っている為、ここへ来られるのは明日になる”との伝言だった。
ファセット伯爵とウェルシェはその言葉に愕然としたが、その時、彼女の脳裏にとある変わり者の公爵が広めていたある噂話が浮かんだ。皇帝陛下が遠き東の国から呼び寄せた医術士たちは、教会の医術士や司祭が匙を投げた病を瞬く間に治す、奇跡の腕を持っている、と。
すぐに彼女はこのことを夫に伝えた。ここで待つよりも皇帝陛下が認めた腕を持つ他国の医術士たちに我が子を託してみようと。しかし、厳格なイルラ教徒であるファセット伯爵は彼女の言葉に怒り、前述の言葉を放ったのだった。何時来るやも知れない司祭を待つことなど出来なかった彼女は、夫を含めて家の者が皆寝静まった深夜に、息子を連れ出してここを訪れることを決心した。それがウェルシェとスウィーテが夜間診療を選んだ理由だったのだ。
「・・・」
医療スタッフたちは、ウェルシェの話を黙って聞いていた。
「それは大丈夫なのですか・・・!? 先程は何も知らずに早く来て貰いたかったなどど言ってしまいましたが・・・」
荒川は少し焦った様子で彼女に尋ねる。
「・・・」
ウェルシェは少し考える素振りを見せる。そしてゆっくりと口を開いた。
「・・・スウィーテは・・・息子は大丈夫なのでしょうか?」
「・・・!」
質問を質問で返してきたウェルシェに荒川は少し面くらう。
「・・・抗生剤は投与しましたから、症状は治癒しますが、先程述べた通り、何らかの障害を残す可能性はあります。それについては経過を観察しなければ何とも。しかし息子さんは比較的軽症で発見も早かったので、障害が残る可能性も低くはなるかと」
ウェルシェの質問に、荒川は事実をそのまま答える。
「・・・そうですか。治るのなら、良かった」
ウェルシェは荒川の言葉を聞いて顔をうつむける。その頬には一滴の涙が伝っていた。
「・・・!」
乳幼児の死亡率が現代と比べて異常に高いこの世界においては、40℃を超える熱病に罹った4歳児など、本来なら助かる可能性はかなり低い。かつて、第3子である長女を熱病で亡くしていた彼女は、それを痛い程理解していた。彼女の涙は喜びの涙であった。
そんな彼女の姿を見て、神崎が柴田に耳打ちをする。
(あんた、侯爵様だろう。伯爵より上だな。何とかしてやれよ・・・)
(無茶言うなよ・・・!)
彼女の涙が、夫から離縁されるやも知れぬ悲しみから来ているものだと勘違いした神崎は、柴田に”侯爵としての立場を利用してウェルシェの旦那を説き伏せろ”とささやくが、”1つの家庭の事情に踏み込む訳には行かない”と、柴田は彼の言葉を否定する。
「・・・」
窓の外を見れば東の空が明るくなっているのが見えた。地平線の彼方から昇って来る光を窓越しに眺めていた荒川が口を開く。
「今後についてですが、我々としては最低でも2週間ほど入院して頂き、治療と経過観察を行いたいのですが・・・」
「・・・」
荒川は若干言いづらそうに入院のお願いをする。ウェルシェも返答に困っている様だった。我が子の為を思うなら、ここに入院させるのが最善だ。それは彼女も分かっている。しかしそれではスウィーテをここへ連れて来たことが夫にばれてしまう。厳格なイルラ教徒である彼にこのことが露見してしまえば、最悪離婚されてしまうかも知れない。嫁いだ家から三行半を突きつけられたとなれば、実家に帰ったところで両親からどんな目で見られるか・・・。
ウェルシェはあらゆる思案を巡らせる。ひどく悩み、苦しんでいる彼女に柴田が近づく。
「・・・?」
きょとんとしている様子の彼女に、柴田は優しい声で語りかけた。
「息子さんを入院させてください」
「え、あ・・・」
「私が何とかしますから・・・」
「!?」
彼の口から放たれた言葉に、ウェルシェを含め、その場にいた全員が驚く。
「は、はい。宜しくお願い致します・・・」
ウェルシェは頭を下げる。柴田の言葉に、半ば促されるまま彼女は息子を入院させることを決めたのだった。
〜〜〜〜〜
翌朝 リチアンドブルク中心街 コルサコフ家の屋敷 寝室
1人の男児が赤十字医院に入院することが決まった日の朝、とある貴族の屋敷では大騒ぎが起こっていた。
「ウェルシェとスウィーテが居ない・・・!?」
コルサコフ家の当主であるファセット=コルサコフ伯爵は、侍女の報告に耳を疑う。
「はい! お二方ともお部屋におられません!」
「どういうことだ!? まさか攫われたというのか!?」
妻と息子が夜中の内に消えた。その事実にファセットは狼狽していた。
(何処に行ったというのだ・・・!)
ファセットは思案を巡らす。その時、彼は昨日のウェルシェが口にしていたある言葉を思い出していた。「皇帝陛下が遠き東の国から呼び寄せた医術士たち」、彼らに頼れば息子の病が治るかもしれないと。
(まさか・・・あやつ!)
彼は妻が病人である息子を連れ、深夜の内に異教徒の医院へ行ってしまった可能性に思い至っていた。その時、侍女に続いて1人の執事が来室してきた。
「失礼します! 屋敷の前に変わった装束を着た異国人が訪れて来ております。例の医院から来たと申しておりますが・・・」
「!」
執事の報告にファセットは驚愕する。屋敷を訪れていたのは他ならない柴田であった。病人であった息子と、異教徒の医術士を頼ることを提案していた妻、そしてその異教徒の医術士の来訪、この状況で彼の中の予感は確信に変わっていた。
「今すぐそやつを中に入れろ!」
彼の命令により、柴田はただちに屋敷の玄関へ通されることとなった。
コルサコフ家の屋敷 正面玄関
玄関へと通された柴田は、周りにいる守衛や侍女から好奇と猜疑の視線を浴びせられ、居心地が悪く感じていた。そんな彼の元に、怪訝そうな表情を浮かべた1人の男が奥から現れ、彼に近づいて来る。
「お前が異教徒の医術士か・・・」
「・・・はい。柴田友和と申します」
何やら不穏な感情を抱え、睨み付けて来るファセットに対して、柴田は平然とした装いで自らの素性を述べる。
「私の予想が正しければ、私の妻と息子がお前の医院に行っているはずだが・・・違うか?」
「はい、その通りでございます」
平然と答える柴田に激情したファセットは、胸ぐらを掴まんばかりの勢いで、彼を怒鳴り付けた。
「ならば話は早い! 今すぐウェルシェとスウィーテを返してもらおうか!」
剣幕が玄関に響き渡る。怒りを露わにする主人の姿に屋敷の者たちが驚きの表情を見せるなか、柴田だけは平常を崩さない。
「現在、ご子息は我が病院に入院中です。医師として退院の許可を出せる様な状態ではありません」
自分の怒りを意に介す様子もない柴田の姿に、ファセットは益々怒りを深めていく。
「入院だと・・・!? 穢らわしい異教徒が、何が目的だ! 身代金でも求めるつもりか!」
ファセットは柴田を罵倒する。そんな彼の様子を前にして、柴田は懐から折りたたまれた1枚の上質な羊皮紙を取り出す。
「失礼ですが、どうかこれをご覧に成って下さいませんか?」
「・・・!? 何だ!」
ファセットは差し出された紙を柴田の手から奪い取る様にして取り、その内容を見る。
「・・・!!」
ファセットは驚愕する。羊皮紙の中に書かれていた内容は、彼にとって信じられない内容だった。
・・・
トモカズ=シバタ
上記の者の我が国に対する多大なる功績と功労を称え、名誉貴族たる一代の”侯爵”の地位と”姓”を授ける。
クロスネルヤード皇帝 ファスタ=エド=アングレム
・・・
「こ・・・、侯爵だと! まさか・・・お前が噂の!」
差し出された書面の内容を目にして、ファセットは震えていた。書面には皇室の印も押されている。一代限りとは言え、今目の前にいる異教徒は、この国の中で自身より上に立つ存在だったのだ。
同時にファセットは、貴族の間で流れていたとある噂の事を思い出していた。異国の医術士に、皇帝が名誉貴族の位を与えたというものだ。その医術士は謁見の後そそくさと帝都を後にしたので、その者の名と出自は広まらなかったが、誰か優れた”総本山”の医術士なのだろう。ファセットはそう考えていた。
「まさか異国とは、ニホン国のことだったとはな! だが、いくら位では私より上とは言えども、たかが一代限りの名誉貴族が大きい顔をするなよ・・・!」
爵位という権威を振りかざして来た柴田に対して、ファセットは吐き捨てる様に言った。
「私のことをどう思おうが勝手ですよ・・・。それより奥で話しませんか? 貴方の奥様とご子息の詳細について伝えたいので・・・」
柴田は不敵な笑みを見せながら顔を寄せ、ファセットに耳打ちする。ファセットは渋い表情を浮かべながらも、立場上柴田をないがしろに出来ないこと、及び未だ自分の元から消えている妻子の情報について知る為、柴田を応接間へ通したのだった。
応接間
「それで・・・今、私の妻と息子はどうしている・・・?」
先程とは違い、ファセットはやや落ち着いた声で尋ねる。しかしその目にはまだ柴田に対する猜疑心が満ちていた。
「先日の夜中、診療時間を終えた当院に貴方の奥様とご子息が来院しました・・・」
説明を行う柴田は、始めに彼は昨夜の顛末について語る。
「故に我々は貴方の奥様の依頼を受け、ご子息の治療を行いました。現在は投薬治療中です。また奥様も現在我が病院の休憩室でお休みになられています。奥様を病院に止めておく理由は我々にはありませんが、ご子息については最低でも2週間は入院して頂く必要があります」
柴田は事実をそっくりそのまま述べる。
「な、2週間だと! そんな長い間我が子を異教徒が営む得体の知れない施設に預けろと言・・・!」
バンッ!
再び激昂するファセットの言葉を遮り、柴田は2人の間にあるテーブルの上に2枚の書類を叩き付けた。
「・・・!?」
「これらはご子息のカルテ、そして各種検査結果を記したものです。スウィーテ=コルサコフの病名は『細菌性髄膜炎』! 治療が遅れれば死に至る可能性が極めて高くなる恐ろしい病です。奥様が行動をしなければ、1ヶ月も経たぬうちに間違い無くご子息は亡くなっていたでしょう!」
「・・・なっ!」
スウィーテの診断書と共に、柴田は恐怖の事実を突きつける。
「で・・・デ、デタラメを言うな! そんな病の名など聞いた事が無いわ!」
ファセットは柴田の言葉に言い返すも、その顔には冷や汗が流れていた。彼の脳裏には、今のスウィーテと同じくらいの歳で彼と同じ様な熱病を発症し、治療と祈祷の甲斐無く亡くなった長女の記憶が浮かんでいたのだ。
「・・・」
尊大に振る舞うも、わずかに言葉に詰まった口調と、若干青ざめている様子を見て、柴田はファセットの心の動きを悟る。
「貴方には1人の娘がおられたそうですね・・・。数年前、熱病に罹りお亡くなりになったとか。”祈祷”の甲斐もなく・・・。奥様はそのことから今回も”祈祷”が意味を成さないことを悟り、我々にご子息を託されたのではないでしょうか?」
「・・・そ、それは」
的確に心の内を抉る様な柴田の指摘に、ファセットは何も言い返せなくなっていた。もし、今回も”祈祷”の甲斐無く我が子が死んでしまっていたら・・・。そんな考えが頭の中をよぎる。
「・・・スウィーテは・・・息子は治るのか?」
恐る恐るといった感じでファセットは柴田に尋ねる。
「はい。すでに薬を投与致しました。熱も若干下がっております。このまま大きな容態の変化が無ければ、2週間後には退院出来るかと・・・」
「・・・そうか」
柴田の説明をファセットはうつむきながら聞いていた。先程の怒りもどこかへ消えてしまっている様だった。
「事後報告になって申し訳ありませんが、入院について承諾を頂けますね?」
「・・・し、仕方有るまい! 私の意思ではないが、妻が勝手に入院させてしまったのだからな・・・!」
柴田の問いかけにファセットは答えた。彼はあくまで自分は異教徒の医術を認めていないという釘を刺す。
「御理解頂けた様で感謝致します」
柴田は謝意を述べ、頭を下げる。その後、彼は屋敷を後にすると病院へと戻り、事の顛末をウェルシェに伝えた。夫の逆鱗に触れることを恐れ、帰るにも帰れなくなっていた彼女は、柴田の報告を聞いて肩の荷が降りた様にほっとした表情を浮かべていた。
その後、正式に入院が決まったスウィーテに対しては投薬治療が続けられることとなり、耐性など存在しないこの世界の細菌には抗生剤が高い効能を示した為、スウィーテは程なくして回復していった。その後もう一度行われた髄液検査によって髄液が正常の状態に戻ったことが確かめられ、また、目立った障害が残っていることも確認されなかった為、当初の予定通り、初来院から2週間後、退院を迎えることとなった。
〜〜〜〜〜
2週間後 6月25日 赤十字病院
「本当にありがとうございました・・・!」
ウェルシェは感謝の言葉を述べながら深く頭を下げる。彼女の隣では回復したスウィーテが彼女と同じくお辞儀をしていた。なお、ファセットがここへ見舞いに来ることは最後まで無かった。
「また、何かあれば遠慮無くいらしてくださいね」
柴田は笑みを浮かべながら述べる。見送りに出ていた神崎と田原も同じく笑顔を浮かべ、彼の言葉に頷いていた。その後、家路へ付く2人の後ろ姿を眺めながら、スタッフの1人である田原が隣に立っていた神崎に話しかける。
「宗教か・・・難しい問題ですね・・・」
「ああ、日本でも揉めることがあるからな。この世界の患者たちへの説得は治療以上に今回と同様、困難が付きまとっていくだろうね・・・」
「・・・」
臨床検査技師の田原は、淡々と述べる神崎の横顔を見つめる。彼は赴任を終える2ヶ月後までの間に自身に降り注ぐであろう”常識”との戦いに、思いを馳せるのだった。
今後は医師たちの日常(?)パートが3話ほど続き、その後事態は大きく動きます。
第3部については、この後の話の流れや、描こうと思っている自衛隊の戦闘描写から察するに、自分が思っているよりも中々暗い話になりそうな予感がしています。