新たな日々を(終)
4月29日 クロスネルヤード帝国 帝都リチアンドブルク 皇宮
御所の執務室に、即位23日目の新皇帝であるジェティス4世の姿があった。彼はこの日の朝に刊行された世界魔法逓信社の紙面を眺めている。その記事は以下の様な見出しで始まっていた。
“新ロバンス教皇、ヴェネディク=メデュラ氏に決定。泡沫候補が逆転当選”
見出しの下には、イノケンティオ3世の辞任に伴って行われた「教皇選挙」、通称“カーム・クラヴィション”の結果について綴られている。
4人の候補者の内、大本命だと言われていたグレゴリオ=ブロンチャスが落選し、本来ならば泡沫候補だと思われていたヴェネディク=メデュラが当選し、第54代教皇に選ばれたのだ。
しかしその裏には、日本国のバックアップを受けたヴェネディク派による、投票者に対する贈賄という闇が存在していた。金の力を使って選挙という仕組みを利用し、日本政府にとって扱いやすい教皇を即位させる、妙な動きを見せようものなら、資金を受け取ったことを逓信社にタレコミするぞとヴェネディクを脅す。それが日本政府の目的だった。
贈賄の為の資金提供を行った日本側にも非難は降りかかるだろうが、賄賂で選出された教皇を擁立したという汚名を被る神聖ロバンス教皇国が受けるダメージに比べたら、大したことではない。あくまで“神聖”でなければならない教皇の地位が、金で買われたという事実など、ヴェネディクは外部に決して知られてはならないのである。
しかし、事実上の“日本の狗”に成り下がる代償として、彼は頂点を手に入れた。此度の戦争を経て、“国家権力”に対する総本山の影響力は著しく低下したが、ジュペリア大陸中に存在する信徒“個人”の信仰心が消えた訳では無い。教皇の地位自体はまだまだ“金のなる木”なのである。
紙面を読み終えたジェティスは、新聞を2つ折りにして机の上に置く。その後、彼は1人の文官を呼び出してある命令を伝えた。
「2日後はニホン軍が完全に撤退する日だな。ニホンの医術士・・・トモカズ=シバタをここへ呼ぶ様にニホン軍へ伝えてくれないか?」
「承知しました」
皇帝直々の命令を受けた文官はその部屋を後にする。
その後、赤十字社に属する医師に、皇帝からのお呼びがかかったことが自衛隊を通して伝えられ、柴田はすぐさま、滞在中の野戦病院から皇宮へ参ることとなった。
・・・
皇宮・御所 玉座の間
御所に突入した自衛隊員の足跡が残るレッドカーペットの上に、スーツ姿で立つ柴田の姿がある。彼は自分を呼び出した張本人の登場を待っていた。
(玉座の間での謁見とは・・・)
彼は久しぶりに訪れた玉座の間を見渡す。かつて“非常勤の宮中医”をしていた頃にファスタ3世に呼び出された時には、専ら執務室で謁見することが殆どだった。
カーペットの両脇では、わずかに残った守備兵数人が立ってこちらを見ている。ちなみに皇帝直下の“皇帝領軍”は殆ど壊滅してしまった為、軍再建までの暫定的措置としてこの地方の治安維持は、ほぼ無傷の“ミケート騎士団軍”14万の内、同地方から派遣されてきた5万の兵によって守られている。
彼がしばらくぼうっとしていると、間の最奥にある玉座の脇から1人の青年が顔を出した。
「呼び出しておいて待たせて申し訳無い、トモカズ殿。中央議会が長引いてしまった」
玉座の間に現れたジェティス4世は、一足先に此処へ訪れていた柴田に対して謝罪の言葉を述べる。新たな皇帝となった現在の彼は多忙を極めていた。
ちなみに、この日の「皇帝領中央議会」で採決された議題は、“故アルフォン1世を“歴代皇帝”の名列から除名すべきか否か”である。結果として賛成407、反対134で可決されることとなり、アルフォンが皇帝の座に即いていたという歴史は消え、ジェティス4世は1代繰り上げて“第27代皇帝”として、名を連ねることになった。
同時に、批准までの期限が1年と定められた“講和条約”を採択する為に、“中央議会”と“一九長会議”の日程調整も行われている。この様に、皇帝領政府は日本政府と同様、戦後処理の為に奔走しているのだ。
「いえ! ・・・滅相もありません」
突然登場した皇帝に驚いた柴田は、咄嗟に右膝を床に付けて跪く。ファスタ3世を良く知る柴田から見れば、28歳の若年皇帝の姿はどこか腰が低い様に思えた。
その後、ジェティスは設置されている玉座に座って息を整え直し、片膝をついたままの柴田に向かって口を開く。
「さて、あと2日でニホン軍がこの地から完全に撤退する日が来る・・・。ニホン軍兵士の強さも驚異的だったが、貴方方の様な医術士の働きも目を見張るものがあった。お陰で多くの兵が命を取り留めたことに心から礼を言いたい」
ジェティスが述べたのは、ここ1ヶ月半の間、敵味方関係無く負傷者の治療にあたった衛生科隊員たちに対する陳謝であった。
「・・・光栄です、皆もそのお言葉を聞けば喜ぶことでしょう」
柴田は皇帝が告げた予想外の言葉に少し驚く。光栄という単語を述べた柴田に対して、ジェティスは満足そうな表情を浮かべていた。
(・・・今こそチャンスだ。言うんだ、俺!)
和やかな雰囲気になる一方、柴田は心の中で叫んでいた。実は彼には、新たな皇帝となったジェティスにどうしても伝えたいことがあった。それこそ、彼がこの地に舞い戻ってきた理由だったのだ。
しかし、玉座に座る皇帝に対して先に発言をして良いものか、彼がそんな事を悩んでいる内に、ジェティスの方が先に口を開いてしまう。
「本題に入ろう・・・! 今日、此処に貴方を呼んだ訳だが・・・」
ジェティスは無意識の内に、柴田が発しようとした言葉を遮ってしまう。それに気付く筈も無い彼は、そのまま言葉を続けた。
「・・・?」
口を紡いだ柴田は、皇帝が語る“本題”に注意深く耳を傾ける。その直後にジェティスが語った言葉は、またもや彼の予想を超えるものだった。
「・・・正式に、“宮中医”になる気は無いだろうか? ゴードー医師には本国に妻子があると言われて断られてしまった」
「!」
皇帝ジェティス4世から、一介の脳外科医である柴田へ告げられた“正式な宮中医への誘い”・・・それは1年以上前にファスタ3世から打診されたものと同一の事だった。
約3年前、柴田は邦人奪還の為に派遣された使節団の医療スタッフとして、「ジットルト辺境伯領」を訪れたことがある。そこで“ペスト”に遭遇した彼は、使節団の帰国後もジットルト市に残り続け、その後、日本本国から入れ替わりで派遣された医療スタッフたちの指揮を執り、彼らは同地で流行していたペストの終息に多大な成果を上げた。
結果、日本の医療人たちは多くの現地民から感謝されたが、同時に「神聖ロバンス教皇国」が日本国を敵視する原因にもなってしまう。
その後、日本医療団の功績は当時の皇帝であったファスタ3世の耳に伝わり、彼は“日本医療団”を長らく指揮していた柴田を、異教徒でありながら宮中医にしようと画策、更には日本政府に対して日本式医院設立の注文を行い、両国の国交樹立とほぼ同時に、帝都で“赤十字病院”が開院することとなった。
尚、宮中医の誘いを受けた柴田は、ファスタに対して“皇族だけでなく多くの人を治療したい”という思いを示し、“非常勤の宮中医”としての位置づけに落ち着くこととなる。それまでの過程で自衛隊から赤十字に身を移した彼は、本国から派遣された仲間たちと共に、この世界の患者たちを治療する為、文字通り身体を張って来た。
クロスネル人から見れば“異教徒”である彼らに対する偏見は多く、時には妨害工作も受けたが、日本の医術を認める者も多く居た。ファスタ3世の影響を受けているジェティスもその1人である。
「どうで・・・だろうか、トモカズ殿?」
言葉に迷っている様子の柴田に対して、ジェティスは更に問いかける。
皇帝としての威厳を出そうとしているのか、普段、他人に対して敬語口調で話す彼の命令口調は、少したどたどしい印象を受けるものだった。
「・・・郷堂医師に話をなさったのなら、陛下も既に本人からお訊きになっている筈でしょう。殿下の治療でしたら、彼と入れ替わりで本国から1人、専門の医師が派遣されます。何も不安になる事はありませんよ」
柴田は視線を左右に動かし、言葉を選びながら答えた。しかし、ジェティスは首を横に振る。
「それは分かっている。しかしそれは2ヶ月ごとの交代制だろう? それでは余りにも不安だ。だから私は・・・ここに永住してくれるニホン人医師が欲しいんだ。
貴方はこの国に2年近く住んでいるそうじゃないか。それならば、この国の勝手も分かっているだろうし、何より・・・父から名誉侯爵の位も受け取っていただろう。妹も貴方の事を信頼している様だ・・・。
父や妹の信頼を受けている人物ならば、私にとっても信用出来る。どうか考えて貰えないか?」
テオファに対して行われているHIV治療は、当然ながら継続されることになっている。その為、日本に帰る郷堂恵一の引き継ぎとして、1人の医師が東京から派遣されていた。郷堂に代わるその男の派遣期間は2ヶ月間であり、2ヶ月後には、また新たな医師が派遣される。
この様に、テオファのHIV治療については、日本からリチアンドブルクへ2ヶ月ごとに1人ずつ、交代制で医師を派遣するという計画になっている。ちなみに治療費については、月単位で日本側に支払われるという契約が交わされている。
しかし、一定期間で主治医が変わってしまうというのは、患者に不安を生み出してしまう大きな要因ではあるだろう。加えて、日本の医療水準の高さを知り、尚且つそれを認めているジェティス4世としては、“テオファの治療”だけでなく、その他の皇族の治療も行う“宮中医”として、“リチアンドブルクに永住し、手元に置いておける日本人医師”が欲しかった。
しかし、郷堂がこの話を断っている様に、日本と比べて生活が著しく不便な異世界の地で、一生を捧げる覚悟を持てる日本人などそうそう居る筈が無い。ならば、日本国外での生活が長く、日本に未練が無い者が良い。これらに当てはまる人材として、白羽の矢が立ったのが柴田だったのだ。
「・・・勿論、生活は保障する。何も不自由無く貴族としてこの国で暮らすことが出来る。どうだろうか・・・貴方は故郷に未練が無い方だと聞いた」
「・・・」
この国で宮中医となれば名誉貴族として優雅に暮らせる、大国の君主からそんな誘い文句を聞けば、普通の人間なら心が揺らぐだろう。それに、柴田には日本に帰り辛い理由がある。ジェティスとしては、そんな柴田の事情まで加味した上での勧誘であった。
しかし、柴田の心は既に決まっていた。彼は毅然とした声で答える。
「宮中医のお話ですが、申し訳ありません。お断りします・・・!」
「!」
柴田の答えを耳にしたジェティスは驚き、大きく目を見開いた。
「その上で・・・!」
柴田は続けざまに、懐から1枚の書類を取り出した。彼は二つ折りになっていたそれを広げ、床の上に叩き付ける。
それは、存命だった頃のファスタ3世から授与された“名誉貴族の認定書”だった。柴田は顔を伏せたまま、長らくジェティスに伝えたかったことをようやく口にする。
「先帝陛下より賜っていた“一代限りの名誉侯爵”と“貴族姓”、そして“非常勤の宮中医”としての地位を、正式に返上したく思います!」
「・・・え!?」
柴田が続けて口にした言葉に、ジェティスは再び驚愕した。周りに立つ守備兵たちもざわついている。一度得た名誉貴族の称号を返上したいと申し出ることなど、前代未聞のことだったからだ。
「何を・・・、父上から賜った名誉が不服だったと申すのですか! それに生活ならば十分に保障すると・・・」
柴田の行動が理解出来ないジェティスは憤る。しかし、柴田の中にあったものは不服や不満という感情では無い。彼は片膝を付けたまま、“宮中医の辞退”と“名誉爵位の返上”という行動に至った理由を語り始める。
「いえ、そうではありません。これは本来、私の様な“罪人”が賜って良いものでは無かったのです」
「・・・!?」
自らを罪人と称する柴田に、ジェティスは怪訝な表情を浮かべた。
柴田は説明を続ける。
「数年前、私達の世界で巨大な戦いが起こり、その時、軍医として日本軍に従軍していた私は、医を志す人間として許されざる罪を犯しました。それ故、祖国そのものから目の仇にされた私は、とある事件を切っ掛けに、半ば祖国から逃げ出す様にこの大陸に居座りました。
今思えば、遠い異国の地で医療を行うことで、“贖罪”をしようと考えていたのかも知れません。その結果、この国で名誉貴族の地位を賜り、更にはテオファ殿下の治療を任された時には、まるで・・・今まで失った物を全て取り戻せたかの様な、そんな感覚を覚えていました」
彼の口が語った事実。それは彼が“ペスト撲滅事業”を機として、日本へ殆ど帰らずにジュペリア大陸に居座り続けた理由だった。
日本国内のマスコミから“捕虜虐待の医官”というバッシングを受け、かつての勤務先である自衛隊病院の同僚や上司から邪険に扱われていた柴田にとって、自分の事を知る者が居ない異世界の地での医療活動は、苦労は絶えなかったが、やりがいを感じるものだった。
そして2年近くもの間、あらゆる困難や偏見に対して、仲間と共に幾度も立ち向かった彼は、次第にこれを“贖罪”であると意識する様になった。
「それならば、尚のこと此処で暮らしていく訳にはいかないのか? 貴方の罪は、もう赦されたと言って良いのでは無いか? 貴方方のお陰で、ジットルトを含む3つの地方は流行病から救われた。貴方方のお陰で、この地に貴国の医院が建てられ、私の妹の病は収まったのだから!
この国に居る大勢の民が、貴方と貴方の仲間達に感謝している。もう十分では無いのですか!? 貴方は・・・罪の意識に囚われている!」
自身が罪人であることを告白した柴田に、ジェティスは感情を昂ぶらせながら訴える。彼から見れば、柴田の思考は自虐意識に囚われている様な気がしてならなかったのだ。
しかし、皇帝の説得を受けても柴田の意志は変わらない。彼は自嘲を反映した歪な笑みを浮かべながら答える。
「それは私でなくとも出来たこと・・・。我が祖国の医師であれば、誰でも出来ることでしかありません」
高度な医療技術を認められ、異世界の皇帝に気に入られた上に宮中医の誘いを受けた日本人医師・・・一見すれば多大な功績と優れた技能の末に得た栄誉の様に思える。
しかし、柴田と同じ事が出来る人物は、日本国内にごまんと居るだろう。柴田が述べた言葉は、“テラルス世界と日本の間に開く医療水準の差”と、“彼自身がただ幸運だっただけ”であることを示唆するものだった。
「先帝陛下より名誉侯爵の地位を賜った時、私は贖罪を終えた様な気持ちになっていました。しかし、それは間違いだった・・・。私の償いはまだ終わってなどいない。それどころか、一生掛かっても償い切れるものでは無い事に気付きました。
故に私は、此処リチアンドブルクだけでなく、この世界のより多くの命を救えるだけ救いたい! そう決めたのです」
「!」
柴田は心に決めた決意を語る。これこそ、彼が宮中医を断った最大の理由の1つであった。勿論、HIV治療がそもそも彼の専門分野では無いということもある。
「・・・決心は、変わらないか」
柴田の熱意を感じたジェティスは、彼がリチアンドブルクに留まっていられない訳を理解する。同時に、柴田には如何なる説得も通じないだろうということを悟った。
諦めがついたジェティスは、呆れと徒労感が混じったため息をつく。
「そこまで・・・自身を罪人と断じ、ここに留まっていられないと言うのなら、もう説得はしない。確かに・・・罪人である貴方を宮中医にはさせられないし、爵位も取り消さねばならないね。ただ・・・1つだけ忠告させて貰う」
「・・・?」
皇帝の口から述べられる“忠告”に、柴田は注意深く耳を傾ける。
「我が国を含め、この世界の医療水準は貴方の国とは根本的に違う。“この世界でより多くの命を救えるだけ救う”という生き方は、貴方にとってはただならぬ険しき道になることだろう。その上で、覚悟されたという事かな?」
「・・・」
ジェティスの忠告は“予言”だった。“贖罪”という生き方を選んだ柴田に対して、日本とテラルス世界の医療技術の差に今後何度も絶望し、挫折を繰り返す事になるだろうと予言しているのだ。
それはこの国で宮中医となっていれば、襲いかかる筈の無い試練である。しかし、忠告という名の脅し文句を前にしても柴田の決心は変わる事はなく、彼は首を縦に振った。
「・・・分かった。では、もう二度と会うことはないだろう。だが、ここを去る前に・・・1つ頼みがある」
「・・・何でしょうか?」
柴田の心を今一度確認したジェティスは、彼に最後の頼み事を告げる。それは此処を去る前にとある人物に会って欲しいというものだった。
その後、柴田は“名誉貴族の認定書”を返上して玉座の間から退出し、皇帝が告げた待ち人が居る場所へ向かう。
・・・
皇宮・墓所
歴代の皇帝と皇族の墓が並ぶその一角に、1人の少女の姿があった。その側には、彼女の侍女の姿もある。
墓前に手向けられた花の前に跪き、両の掌を合わせて目を閉じるその少女に、後ろから近づく1人の人影がある。
「・・・ここにいらしたのですね、テオファ殿下」
「!」
名前を呼ばれた少女、すなわち帝国の皇女であるテオファ=レー=アングレムと、彼女の侍女であるラヴェンナ=リサッカライドは、突如後ろから聞こえて来た声に驚いて振り返る。しかし、その声は彼女らが良く知る人物のものであった。
「兄上様から事情は聞いております・・・。名誉貴族の称号を返上し、宮中医の位も正式に断られた上で、故郷へ帰られるのですね。トモカズ先生・・・」
「ええ・・・陛下には、私の優柔不断に付き合わせてしまって申し訳無いと思っています」
テオファの言葉に対して、柴田は頷きながら答える。
事情を既に知っている皇女の顔は、どことなく悲哀を湛えていた。彼女は異教徒の医術士である柴田との別れを前にして、悲しさや寂しさを感じずにはいられなかった。それは、柴田がテオファに依存していた様に、テオファにとっても、柴田は亡き父親の幻影を思わせるまでになっていた存在だったからだ。
異国の医師と大国の皇女という、本来ならばそうそう出会う事は無い筈の2人は、それぞれが持つ辛い過去の記憶の為に、互いが互いの存在に依存するという奇妙な関係を築き上げていたのだ。
「お別れ・・・なのでしょうか?」
テオファは別れを惜しむ言葉をつぶやく。その両目は涙で潤んでいた。悲しみを隠しきれない皇女に対して、柴田は彼女の目の前に跪くと、その悲しげな顔を見上げ、微笑みながら口を開いた。
「殿下・・・。私は・・・一時的とは言え、貴方に仕えられる立場になれたことを、心より嬉しく思います」
「!」
東亜戦争中に死んだ恋人の生き写しであるテオファに出会い、彼女の治療を行っていく中で、彼の心は多幸感に満たされる様になった。
しかし、後に彼はそれがテオファへの依存であることを自覚する。それはある日の夜、病床の彼女が柴田に依存している事を吐露し、彼に宮中医になってくれと懇願したのを拒否出来なかった時だ(26話 来客)。
多くの肉親を一気に失った悲しみの為、一時期は柴田に父親の幻影を覚えるまでになっていたテオファの精神状況は、実兄であるジェティスとの再会を果たした事で、明らかな落ち着きを見せていた。歳を重ねれば、その悲しみはもっと薄れていくのだろう。それは即ち、彼女が柴田に対して抱いていた依存心が薄れていくということだ。それなのに、柴田の依存心がそのままになってしまってはならない。
(・・・この人は悲しみを超えて次に進もうとしているのに、いい大人が15歳の少女に依存して過去を癒そうなんて、いい加減にみっともないよな)
皇女の前に跪きながら、柴田は自身の不甲斐なさを心の中で自嘲する。しかし、それも今日で終わりだ。“贖罪の道へ進む決意”と“依存対象からの脱却”。これら2つにケジメを付けた彼は、この地を再び訪れた目的をようやく達成することが出来たのだ。
“心より嬉しく思う”という柴田の言葉に、テオファは驚き、そして微笑んだ。彼女は目の前で片膝をつく男に、1つの質問を投げかける。
「・・・また、会えますか?」
再会を願う皇女に、柴田は頷きながら答える。
「ええ。また何時か此処へ参上致します、必ず・・・。殿下の病もいつか、そう遠くない内に、完治出来る日が来ると思いますよ」
何時しかの再会を約束し、HIVの完治という希望を示す彼の言葉に、テオファは再び屈託のない微笑みを浮かべた。
「では・・・また何時かお会いする日まで」
そう言うと柴田は立ち上がり、テオファに背を向ける。歩き出し、皇女のもとを去る彼の顔は、悲しき“過去”を断ち切ったかの様な涼しげな表情を浮かべていた。
クロスネルヤードと日本、この2カ国間で勃発した此度の戦争で、多くの人々が大切なものを失った。戦争は何時の時代の何処の世界でも、人々から大切なものを奪う。
しかし、人々は悲しみを乗り越えようと努力することが出来る。戦いの果てに得るものが何も無くても、前を向いていればいつか笑える時が来ると信じることが出来る。
「・・・また、何時か」
一時は命を脅かされる程に衰弱していながらも、今は両脚で大地の上に立つまでに回復を遂げた1人の少女は、去りゆく男の背中を見つめながら、更なる一歩を踏み出そうとしていたのだった。
〜〜〜〜〜
日本国 首都東京 とある医療機関の研究室
この研究室に属する医師・医療者たちは、患者自身のT細胞を用いた新たなAIDS治療法の臨床試験を、2023年から全国規模で行っている。元々はアメリカのとある医療機関と共に、日米両国の患者700名以上に対して「国際共同治験」として行っていたものだったが(主導はアメリカ)、2025年の「転移」によって、強制的にアメリカの医療機関との繋がりが絶たれた為、現在は日本国内に居る患者のみを対象にして、単独で試験を継続していた。
「我々はこの臨床試験を、何としても成功させなければならない。全てが上手く行ったとしても、治療法として確立させるまであと5年はかかるだろう。しかし、第1相試験で既に数人の完治者を出している。効能は明らかになっているも同然だ!
3ヶ月前にはこの世界にもHIVが存在していた事が確認されたと聞く。地球だろうが異世界だろうが、HIVの為に苦しむ人が居る限り、我々は歩みを止める事は無い! それが我々の運命なんだ!」
かつて日米の医療機関が2023年に合同でスタートさせたこの臨床試験を受けている患者は、2030年現在、日本全国に300人以上存在する。今の所、その中の7割近い患者にウィルスの消失が認められている。実際に完治したと判断するには、あと数年経過観察をしなければならない。
成功すれば歴史的偉業となり、このテラルスで初めて発見されたHIV患者であるテオファに対して、同様の治療が施されることだろう。その時に備え、同研究室には、彼女の血液から採取されたT細胞が保管されている。
HIV/AIDSの治癒を目指す研究者たちの戦いは続く。
・・・
東京・千代田区 首相官邸
5階の総理執務室に、ベギンテリア駐在公使の青松田之祐から外務省へ通達されたとある一報が届けられていた。
「アラバンヌ帝国からのコンタクト・・・?」
首相の泉川はその一報に驚く。知らせを持って来た外務大臣の峰岸は、アラバンヌ帝国についての説明を行う。
「5カ国目の列強です。所在地はここ、ジュペリア大陸南西部と呼ばれる場所です。オリエント地域の更に西側ですね」
峰岸は机の上に広げた世界地図のある場所を指差す。
「アラバンヌ帝国」とは、この世界の列強の通称である“七龍”に、最も古くから名を連ねているとされ、“古豪の七龍”と呼ばれている国だ。その国からの国交樹立を求める使節団が、この世界で最も西側にある日本国在外公館、ベギンテリア駐在公使館を訪れたのだ。
「彼らの要求は対等な国交の樹立・・・まあ問題は無いでしょう。これで未接触列強はあと2カ国・・・」
「イスラフェア帝国とスレフェン連合王国ですね・・・」
泉川がつぶやく。彼が述べた2カ国は共に問題が有る国だった。
「イスラフェア帝国は産業革命に達している。我々の技術水準に最も近いこの国と貿易関係を築くことは経産省の悲願です。しかし、ここは海外との交流を著しく制限している事実上の鎖国国家。接触は困難を極めている。
そしてスレフェン連合王国も同様に閉鎖的で謎が多い。どうやらこの国は魔法研究に重きを置いているらしく、その上にここ十数年はかなり好戦的になっている様です」
峰岸は謎の多いこれら2カ国について、現在分かっていることを述べる。
「スレフェン・・・か。まあ、無理に友好関係を築く事もないでしょう」
泉川は不安要素を含むスレフェン連合王国に対して、積極的な接触を行わないことを決める。斯くして、今後の外交課題は「イスラフェア帝国との接触」に焦点が絞られることとなる。
〜〜〜〜〜
4月30日 クロスネルヤード帝国 帝都リチアンドブルク郊外 病院跡地
この日の午後、明日の完全撤退に向けて、自衛隊の衛生科隊員たちは野戦病院の片付けを行っていた。郷堂と柴田、赤十字に属する2人の医師も、帰国の為の準備を進めている。
尚、テオファの主治医として帝都入りしていた郷堂の引き継ぎ役として、日本国から派遣された別の医師が明日此処へ到着する手筈になっている。
「いよいよこの国ともお別れか・・・。早く帰りたいと思っていたが、いざこの時が来るとなると、何だか名残惜しいなあ」
トランクに荷物一式を詰め込み終えていた郷堂は、部屋の窓からリチアンドブルクの様子を眺めていた。戦乱から2ヶ月近くが過ぎた街並みの様子は、既に日常を取り戻し、活気に満ちている。
「お前さん、今後どうするんだ?」
郷堂は窓の外に視線を向けたまま、出発準備を整えている同室の柴田に声をかけた。彼が爵位を返上し、宮中医の誘いも断ったことは、既に彼の耳にも入っている。
「各友好国に対する医療教育支援の一環として、各国にスタッフを5名ほど派遣する計画がありますよね。このいずれかに参加したいと思っています」
柴田は答える。彼は日本から再び飛び出す意志を決めている様だ。
医学が遅れているこの世界で、日本の医療技術を求める国は止まない。転移したばかりの頃は、貴重な医療品を国外へ大量に輸出することは禁止されていたが、その後、生産体制が整うのに従って(元々中国との国交断絶によって、医療品の自給率は転移前から跳ね上がっていたが)これらの規制は解除され、日本国内の医療法人や医療団体は各国に対して医療支援を行う様になっていた。
日本政府は、“テラルス世界の医療水準の向上は、海外で活動する日本人の保護にも繋がる有意義な活動”だとして、これらの活動を認めている。実際のところは、日本人が活動する各国に医療スタッフを配置する手間が省けるからだった。わざわざ日本政府が診療所を建てなくても、各医療団体が寄付金で日本人の医療スタッフを勝手に各国へ配置してくれるなら、それで十分という訳だ。
「何で宮中医を断ったんだ? 俺は妻子があるから駄目だが、日本に帰りたがらないお前さんにとっては願ってもない話だろうに・・・」
郷堂は純粋な疑問を呈する。
故郷に嫌われた故に、故郷に帰りたがらない柴田にとって、ジェティスが提案した“リチアンドブルクに不自由なく暮らせる環境を用意する”という申し出は、打って付けだったからだ。
「・・・依存するのは、柄じゃないんです」
「・・・?」
“過去からの脱却”と“贖罪”・・・柴田の答えはあらゆる思いをはらむものである。しかし、事情を知らない郷堂は、ただ首を傾げるだけだった。
その後、支度を終えて一息ついていた2人の部屋に、1人の自衛隊員が駆け込んできた。息を切らすその隊員は、驚く2人にとある報告を伝える。
「さ、先程・・・シーンヌート辺境伯領から来たという1台の馬車が、内務庁庁舎へ訪ねて来たのですが・・・、その馬車から“神崎志郎”と名乗る日本人が現れたと・・・!」
「!?」
隊員の報告に2人は驚愕する。
彼が告げた日本人の名前・・・それは遠き地シーンヌート辺境伯領で行方不明となり、その後死亡扱いにされた同僚の名前だったからだ。
「神崎先生が見つかった・・・!? あの人は死んだ筈じゃあ・・・」
郷堂は、既に死亡した筈の人物が現れたという隊員の言葉が信じられなかった。しかし、困惑している彼に対して、柴田はいつの間にか部屋を出る用意を整えていた。
「行きましょう、郷堂先生!」
混乱する郷堂の思考を現実へ引き戻す一声が、彼の脳内に響き渡った。部屋の扉の前で待機している柴田に、郷堂は頷く。
「ああ・・・分かった!」
その後、郷堂と柴田の2人は、報告を持って来た隊員の案内で神崎が現れたという帝都中心街の内務庁庁舎へと向かう。
・・・
帝都リチアンドブルク・中心街 内務庁庁舎
ジュペリア大陸派遣部隊が司令部を置いていた内務庁庁舎の一室に、その人物の姿があった。彼は窓の外を眺めながら、かつての仲間が此処へ来るのを心待ちにしていた。
(・・・また生きてお前に会えるとはなぁ、柴田・・・そして郷堂先生!)
彼、神崎志郎は心の中で待ち人の名を呼んだ。その時、部屋の扉が開く音が聞こえて来た。
「・・・!」
神崎は音がした方を向く。勢いよく開けられた扉の前には、柴田と郷堂の姿があった。奇跡の再会を前にして、最初に口を開いたのは郷堂だ。
「本当に・・・生きていたんだな!」
「ええ、ちゃんと足はありますよ。一度、危うく逝きかけましたけどね」
神崎はそう言うと、自分の両脚を指差す。2本の足はちゃんと床の上に付いていた。
「・・・良かった!」
後輩医師の生存を喜ぶ郷堂は感情が昂ぶる余り、両目から大粒の涙を流す。郷堂は神崎の存在を確かめる様に彼の左手を掴み、膝から崩れ落ちた。彼の男泣きが部屋の中に響き渡る。
「・・・柴田!」
扉の前から2人の様子を眺めていた柴田に向かって、神崎は右手で手を振った。その後、郷堂と同様に神崎の方へ歩み寄った柴田は、神崎が差し出した右手をがっちりと掴み、涙を堪えながら口を開いた。
「良く、帰って来たな!」
「・・・お陰様でね!」
神崎は笑顔で答える。そこで柴田のやせ我慢も限界に達し、彼の左目から一筋の涙が流れ落ちた。その後も3人の医師たちは奇跡の再会を喜び、固い握手を交わす。
程なくして気持ちが落ち着いた彼らは、話をする為に椅子へと座る。内容は勿論、神崎がどうやって生き延びたのかについてだ。
「・・・調査班からはぐれてしまった後、3日くらい何も無い荒野を歩き続けてね・・・4日目の夜にとうとう気力を失った俺は、死ぬつもりで意識を闇に投げ出したんだ」
シーンヌートでの出来事を語る神崎の指は、手足共に凍傷によっていくつか無くなっており、顔のあちこちにも凍傷の跡が見られた。それらは彼がどれほど過酷な環境に身を置いていたかを物語っている。
神崎はここで一度話を切り、郷堂から貰った煙草を大きく吸い込んだ。日本製の紙煙草を久しぶりに味わう彼の顔は、幸せそうな表情を浮かべている。
「・・・で、どうなったんだ?」
柴田は話の続きを尋ねる。神崎は煙を吹き出しながら、奇跡の生還劇の続きを語り始める。
「・・・目が醒めたらあの世、そう思って目を開いたら天井が視界に飛び込んで来た。事態が飲み込めなかった俺が周りを見回していると、その家の主人が現れた。そこは貴族の別荘でね、主人の話によれば、明朝に倒れている俺を見つけて、急いで助けてくれたということだった。
月の明かりも見えない曇天の夜だったせいで分からなかったが、数日間歩き続けた俺は、とある集落に辿り着いていたんだ」
そこまで語ったところで、神崎は再び煙草をくわえる。体力も気力も失い、行き倒れになっていた所をある貴族に拾われた、それが彼が生き延びた理由だったのだ。
「・・・でも、何故その貴族はそこまでお前に良くしてくれたんだ?」
柴田は1つの疑問を呈する。死にかけとは言え、浮浪者の様な見た目になって倒れていたであろう神崎を、その貴族が手厚く保護した理由が分からなかったからだ。
勿論、単にいい人だったからと言われればそれまでなのだが、そこにはちゃんとした理由があった。
「・・・“コルサコフ家”って、覚えてるか?」
「!」
神崎が述べたその単語に、柴田はピンと来るものがあった。それは開戦前、健在だった頃の“リチアンドブルク赤十字病院”に、母親に連れられて駆け込んできた貴族の子の姓だったからだ(4話 医師たちの日常Karte1)。
「・・・アルフォン1世が敢行した“革新派”と“正統派”への弾圧。かつて日本の医院の世話になった経験から、密かに革新派になっていたコルサコフ家の人々は、身の危険を感じてシーンヌート地方の所有地に逃げ出した。その逃げた先のお庭に偶然、俺が行き倒れになっていたのさ。
その後は子供を治療した恩返しって事で、俺はコルサコフ家の下でご厄介になることになったが、終戦の報道を受け、此処へ連れて来て貰った。・・・明日には日本に帰る予定だったらしいじゃないですか、本当に危なかったよ」
かつてリチアンドブルクで治療した貴族の子、その家族に辺境の地でばったり出会って救われたという神崎の話を聞いた郷堂と柴田は、納得すると同時に呆れた笑みを浮かべていた。
「・・・本当に悪運が強いと言うか、何と言うか。情けは人の為ならずって本当なんだなあ」
郷堂は思ったことを口にする。ここまで運が強い人間が、果たして他に居るだろうか。
「日頃の行いですよ・・・!」
神崎は間髪入れずに答えた。柴田と郷堂の2人は揃って“どうだか”とつぶやく。
その後、彼らは他愛もない雑談を交わし、再会出来た喜びを再び噛みしめ合う。尚、この事は既に日本政府に伝えられており、当然ながら神崎の名は非戦闘員犠牲者の欄から外されることとなった。
・・・
内務庁庁舎 外
神崎との再会を終えた2人が、内務庁庁舎の正面玄関から出て来ていた。
かつてジュペリア大陸派遣部隊が司令部を置いていたここも、今はその役目を終えて、総指揮官の滝澤詠仁陸将補を含むわずかな自衛官が残っているのみである。既に通常業務が再開されており、役人たちが慌ただしく出入りしていた。まわりには数人の警備兵も立っている。
再会を終えた3人の医師は明日の昼、自衛官と共にオスプレイに乗ってミケート・ティリスへ向かうのを待つばかりとなっていた。
「彼、元気そうで良かったですね」
「・・・ああ」
柴田は並んで歩く郷堂に話しかける。再会の余韻に浸る彼らは、玄関を出た先にある8段ほどの階段をゆっくりと降りていた。既に太陽は西に傾きつつあり、2人の視界には夕日に照らされた建物と人の群れが映っている。
夕焼け色に染まる中近世ヨーロッパ風都市というのも、中々情緒を感じられる風景だ。明日にはこの国ともお別れか・・・風景を惜しみながら、郷堂と柴田の2人はそんな事を考えていた。
その時・・・
「・・・」
雑踏の中にローブを被った1人の人影がある。内務庁庁舎の中から出て来た“ターゲット”を確認したその人物は、人ごみの中から内務庁庁舎の前に姿を現した。
「おい、そこの。止まりなさい。此処が何処だか分かっているのか?」
警備兵の1人が行政庁舎に近づいてくる不審な人物に気づき、立ち止まる様に求める。するとその人物は、隙を付いてその警備兵の視界を振り切り、内務庁庁舎に向かって走り出したのだ。その右脇には刃物が光っていた。
「・・・取り押さえろ!」
咄嗟の出来事に、庁舎の護衛に当たっていた兵たちの反応が遅れる。突如現れた不審者を取り押さえようと、2人の兵士が飛びかかるが、刃物を持つその不審者は彼らの間をすり抜け、柴田と郷堂の元へと一気に近づく。
「!?」
彼ら2人はここで初めて、自分たちに向かって不審者が近づいていることに気付いた。突然の出来事に頭の処理が追いついていない彼らの下へ、そのローブの人物は瞬く間に近づく。
「おのれ、悪魔!」
「!」
ローブの中から聞こえて来たのは“少女”の声だった。彼女が両手で構える刃物は、一直線に柴田の脇腹へと向かった。
ザクッ
「・・・え」
刃物は衣服を貫き、腹部に突き刺さる。大量の血が吹き出し、柴田はたまらず膝から崩れ落ちた。地面に倒れ込むその刹那、彼はローブの中に隠れた犯人の顔を目の当たりにする。
「・・・き、君は!」
ローブの中に見つけた顔、その正体に柴田は驚愕する。
それは彼が3年前に、アテリカ帝国皇太子や数名の外交官と共に訪れた「ヨハン共和国」で出会ったものだった。だが、記憶の中よりもずっと大人びた顔つきになっている。
「はぁ・・・、はぁ・・・」
少女は息を切らしながら、地面に倒れている柴田を見下ろしていた。余りにも突然過ぎる出来事に、側に立っていた郷堂は言葉が出ず、動くことも出来なかった。
「・・・確保!!」
目的を成し遂げた達成感からか、天を見上げ、その場から動かない少女に向かって、警備兵たちが取り押さえにかかる。特に抵抗もしなかったその少女は瞬く間に確保され、殺人未遂の現行犯で連行されて行った。
「おい、しっかりしろ! ・・・おい! 布を持って来てくれ、医療道具もすぐにだ!」
地面に倒れる柴田に、郷堂が呼びかける。彼は傷口を両手で押さえ込みながら、騒ぎを聞きつけた自衛官に布きれと医療道具を持ってくる様に指示を出していた。
血はどんどん失われて行き、視界がぼやけて来る。彼は地面の上に倒れている自分を覗き込む人々の顔が、徐々に分からなくなっていた。
「な、何が・・・どうなって・・・?」
彼は自分が刺されたという事実をリアルに感じることが出来ない。ついさっきまで楽しく雑談をしていた事が嘘の様だった。
「柴田・・・! おい、嘘だろう・・・何故こんな事に・・・!」
郷堂の声に混じって、神崎の声も聞こえて来る。殺人未遂の現場を目の当たりにした野次馬たちのざわめきも聞こえている。しかし、それらは視界と同様に徐々に薄れていき、最後には自分の息しか聞こえなくなっていた。
「死・・・ぬ・・・のか、俺は?」
何も見えず、何も聞こえなくなった漆黒の空間で、柴田は自分自身に問いかける。リアリティが何も感じられない状況の中で、血を失う感覚だけは鮮明に感じる。それが彼に死への意識を明確に刻み込んでいた。
“そうね・・・ヒポクラテスの誓いに背いたものね”
「!」
孤独と絶望に沈んでいたその時、誰かの声が何も聞こえない筈の耳に聞こえて来た。驚いた柴田が目を開くと、白衣に身を包む1人の女性が側に立っていたのだ。地面に倒れている彼を見下ろすその顔は、困った笑顔を浮かべていた。
「亞里砂・・・?」
柴田は、自分を見下ろすその人物を見誤る筈がなかった。彼の目の前に立つその人物は、6年前の中国大陸にて、卑劣な事件の被害者となって廃人同然となり、自殺してしまった筈の恋人、唯川亞里砂だったのだ。
幻覚か、天からのお迎えか・・・彼女の正体は分からない。しかし、柴田は目の前に立つその存在をすぐに受け入れた。
“なあ、俺は天国に行けるかな? いや・・・無理か。南京で罪を犯した俺に、君と同じ場所へ行ける資格は無いね・・・”
柴田は1つの疑問を投げかけた。自嘲気味に語る彼に、唯川は怪訝な顔をして答える。
“さあ、どうかしらね・・・”
「!」
唯川は自虐意識に囚われている柴田の姿が気に入らず、意地の悪い答えを返した。直後、彼女は地面の上にしゃがみ込み、彼の左頬に自らの右手を伸ばしながら、1番伝えたかった言葉を告げる。
“でも・・・これだけは覚えておいて。貴方が何処に居ても、私は何時でも側に居るから”
「・・・!」
彼女が口にしたその言葉に、柴田は微笑みを浮かべる。それはかつて、尖閣諸島沖で発生した日中衝突で両親を一気に失ってしまった彼を支えてくれた言葉だった。
“そうか。それなら益々、俺はなんと言う愚かしい事をしてしまったんだろうね・・・。君は側に居てくれたというのに・・・。つまりこれが、「贖罪」という訳か・・・”
柴田は自身の愚かさを憂いながら、狂信者に刺し殺されるという罰を受け入れる。彼は東亜戦争において、治療中だった人民解放軍兵士の捕虜を精神的に害したという過去があったのだ。その上、生還を果たした同僚、そして亡き恋人に再び会えた喜びからか、この世への未練が無くなりつつあった彼の意識は徐々に薄れていく。その目尻からは一筋の涙がこぼれていた。
程なくして彼の意識は消える。唯川は意識を失った柴田の身体を眺め続けていた。その後、彼女は再び立ち上がり、安らに眠る彼の顔を見つめる。
“貴方が来るにはまだ早い・・・。神崎先生や金崎先生たちを信じましょう”
生死をさまよう柴田に、唯川は生存への可能性を示唆する言葉を残す。その後、彼女の身体は微かな光の集まりとなって虚空へと消えて行った。
・・・
腹部に深い刺し傷を負った柴田は、撤収作業中だった自衛隊の野戦病院へと運び込まれた。その後すぐに緊急手術が行われ、海上自衛隊所属の医官である金崎努三等海佐が執刀医となった。
尚、柴田を刺した“少女”は、警備兵たちの取り調べに対して、柴田を襲った動機を「血を啜る悪魔への報復」だと述べた。それ以外は何も口に出すことは無く、如何なる取り調べにも黙秘を貫いた。その後、日本国内の世論の感情悪化を恐れた皇帝領政府によって、彼女には早々と死刑が宣告された。執行されたのは2ヶ月後のことである。処刑台に上がる少女は一切取り乱す事は無く、薄ら笑いさえ浮かべていたという。
戦争終結後に発生したこの一件は日本国内でも報道され、しばしの間、国民の心に“イルラ教への恐れ”を植え付けることとなったのだった。
第3部はこれで最終回となります。長らく読んで頂きありがとうございました。
この後はエピローグを1話だけ挟んだ後に、第4部「ティルフィング・選挙篇」へと移ります。全体的に悲劇で終始した第3部とはかなり作風が変わり、再び戦記では無くなるのでご注意下さい。




