門出
3月25日 ジュペリア大陸レッドイル半島付近の海上 「しまばら」艦橋
「リチアンドブルク講和条約」が締結される少し前のこと、第2次グレンキア半島沖海戦の結果としてルシニア基地に収容されていた7,000人を超える捕虜が、ミケート・ティリスから離れていた強襲揚陸艦の「しまばら」と「おが」、そして輸送艦の「おおすみ」と「しもきた」の艦内に鮨詰めにされていた。これら4隻の護衛として、「しまかぜ」と「さわぎり」の2隻がルシニアから同伴している。
これら6隻は現在、神聖ロバンス教皇国の領土が置かれている“レッドイル半島”から南の海上を進んでいる。彼らが向かっている先は、相次ぐ被征服民の暴動・反乱によって混乱の渦中にあるリザーニア王国とリーファント公国だ。ルシニア基地へ襲撃して来たこれら2カ国に捕虜を送り返し、賠償を請求する、それが今回の彼らの任務である。
「しまばら」の艦橋で海を眺める大崎淳也一等海佐/大佐は、目的地へと続く大海原を眺めていた。双眼鏡を右手に持つ彼に、航海長の益田時影二等海佐/中佐が報告を入れる。
「艦長、まもなく『おが』『しもきた』そして『しまかぜ』と別れます。我々と『おおすみ』『さわぎり』はこのまま西へ進路を取り、リーファント公国の首都ガイスの港へ向かいます」
「分かった」
大崎一佐は素っ気なく頷いた。程なくして、並走していた6隻の艦は二手に分かれていく。「おが」と「しもきた」、そして「しまかぜ」は目的地であるリザーニア王国の港街ヴァルハンへ向けて、航路を北へと変えた。
これら3隻と別れる「しまばら」と「おおすみ」の艦内には7,102名の捕虜の内、リーファント公国軍に属していた3,300名がぎゅうぎゅう詰めにされている。そんな2隻のウェルドック内では、床一面に敷かれた毛布の上に、捕虜となった元リーファント公国兵士たちが身を寄せ合っていた。
捕虜たちの2週間分の食い口を繋ぐ為、各艦の飛行甲板の上には食糧運搬用のコンテナが積めるだけ積まれており、さながらコンテナ船の様な見た目になっている。
・・・
「さわぎり」 士官室
艦内にある士官室では、リーファント公国に対して捕虜の返還と此度の戦争における賠償請求を行う為に派遣された外交使節2名が、目的地への到着を今かと待っている。
「新田さん・・・俺たち、絶対暇人だと思われてますよ」
「・・・俺はそう思われたいんだよ」
そう答えるのは外務官僚の1人である新田昇だ。彼は部下である遠藤和哉が語った冗談に対して、ニヒルな笑みを浮かべる。
「しかし・・・本当に彼らは賠償請求に応じると思いますか?」
遠藤は1つの不安要素を呈した。派遣した正規軍の壊滅に加え、被征服民の暴動によって混乱の最中にあるリーファント公国とリザーニア王国が、捕虜返還と賠償請求に応じるかどうかは疑わしかったからだ。
「まあ、確かに今のリーファント公国は賠償請求に応じられる状況ではないだろうが、返すべきものは返して、貰うべきものは貰わないと・・・。
日本政府や外務省は、情勢が急激に悪化しつつある『教化軍国家の支配地域(“アラバンヌ帝国文化圏”と“クロスネルヤード帝国支配圏”の狭間にあたるこの地域を、外務省は便宜上“オリエント”と呼んでいる)』の国々とは、通商関係を築くつもりは無いらしい。だから別に、その後どうなろうと知ったこっちゃ無いんだろう。
とりあえず、俺たちは外務省が作成した要求を飲ませるだけだよ」
新田は政府の意向を交えながら説明する。今後急激に治安が悪化するであろう“オリエント地域”に関しては、駐在させる大使や使節の身の安全が保障出来ない上に、現地政府の対日感情が芳しく無いであろうことを鑑みて、国交や貿易関係を築くメリットが少ないと判断されていた。
『間も無く、リーファント公国の首都ガイスへと到着します!』
「!」
艦内アナウンスが鳴り響く。待ち望んだ目的地への到着が間近となった2人の外交官は、緊張の面持ちを浮かべていた。
〜〜〜〜〜
リーファント公国 首都ガイス 大公家の城
この国を治める大公アンテオケ家の居城、その内部にある大公の執務室に、血相を変えた1人の兵士が飛び込んで来た。
「灰色の巨大艦が首都の沖合に出現しました!」
「・・・何!?」
日夜、被征服民による暴動や反乱の鎮圧に奔走する中で、突如舞い込んできた更なる一大事に、現リーファント公ボヘモンド=アンテオケ2世は堪らずふらつきそうになる。
「こんな時に・・・何処の国の艦だ!?」
ボヘモンド2世は声を荒げて問い糾す。君主が発した突然の剣幕に少し身体をびくつかせたその兵士は、冷や汗を額に滲ませながら答えた。
「中心の紅き太陽から放射状に拡がる旭光を描いた旗・・・ニホン国の艦だと思われます!」
「!?」
ボヘモンド2世は驚愕する。
彼らにとっては聖戦が撤回された時点で、日本との戦いを続ける気など無かった。しかし、リーファント公国は講和や停戦協定を正式に日本国と結んだ訳では無い為、両国は当然、未だ戦争状態にある。「第2次グレンキア半島沖海戦」にて、局地戦とは言え日本国と正式な交戦を行った彼らが見逃される道理がある筈が無かった。
その時、動揺するボヘモンドの下に別の兵士が現れ、新たな報告を知らせる。
「現在首都沖合に停泊しているニホン軍ですが、彼らは特使を名乗り、我が国に対して捕虜の引き取りと講和交渉を要求して来ました!」
2人目の兵士が告げた報告に、ボヘモンドは再び驚く。
「・・・講和だと? それに捕虜など、奴隷に売り飛ばすのが普通ではないのか? わざわざ敵に兵を送り返す等、何を考えている・・・」
彼はわざわざ大海原を超えて捕虜を運んで来たという、日本軍の行動が理解出来なかった。
近代国際法が制定される以前は、捕虜という存在は捕らえた側の国が自由に処分するものであった。捕虜に対する保護の意識が国際社会の中で明確に芽生えたのは19世紀後半のことである。
それ以前に行われていた捕虜の扱いとしては、奴隷にする、身代金と引き替えにする、敵方に捕まっていた味方と交換する、最悪の場合は殺す等々・・・命や身の安全が保障されているとは言い難いものであった。
「身代金を要求するつもりかも知れませぬ。・・・しかし、わざわざ向こうから出向いて講和を申し出て来た以上、あちらが我々と敵対し続ける意志が無いことの現れ・・・あちらにも最早余裕が無いのでしょう。臆することは無いのでは?」
大公ボヘモンド2世の側に立っていた宰相が、推論を述べる。この世界の国際常識としては、一般的に“戦争の講和”とは劣勢な国が優勢な国に対して終戦を求める行為を示す。即ち講和とは、持ちかけた側が敗戦国と見なされる場合が一般的なのだ。
勿論、時と状況によって例外も多々あるが、少なくとも此度の戦争において被害らしい被害を殆ど受けていない日本国の方からリーファント公国に講和を申し入れるなど、予想外のことであった。
「ふむ・・・ニホン国の特使に、講和交渉に応じると伝えろ!」
臣下の言葉に後押しされたボヘモンド2世は、講和交渉を受け入れる決断を下した。その後、リーファント政府から上陸許可を受けた「さわぎり」からシーホークが飛び立つ。見慣れぬ飛行物にざわめく市民たちを余所に、新田と遠藤の2人はリーファントの地に降り立った。
・・・
外交局 応接間
この国の外交を統括する部局へと赴いた2人の特使は応接間へと通され、外交局長のシラノ=ジェンテルスと対面することとなった。
彼に促されるまま新田と遠藤の2人はソファの上に座り、両者は簡素なテーブルを挟んで向かい合う形となる。最初に口を開いたのは新田だった。
「我が国が要求するのは捕虜の引き取りと貴国との講和です。具体的な要件はこちらになります」
そう言うと、彼は持っていた鞄からクリアファイルを取り出し、その中から1枚の書類をシラノに手渡した。シラノはそれを受け取り、内容に目を通す。それには以下の事が書かれていた。
・リーファント公国は、第2次グレンキア半島沖海戦にて日本軍によって収容されていた元リーファント公国兵士3,300名を即刻引き取る。
・リーファント公国は日本国に対して、賠償金30万ユロウ(900億円)を支払う。返済期間は交渉次第。年利は無し。
・リーファント公国は日本国に対して、今後一切の敵対行為を行わない。
(な、何だ!? これは!)
シラノは驚愕する。今回の会談は日本側が持ちかけた講和交渉である為、多少なりとも此方に配慮した内容になっているかと思っていたが、新田が示した講和条項にはリーファント公国の義務ばかりが記されており、日本側に一切の譲歩が無かったのだ。
「賠償金だと・・・我々は負けた訳では無いぞ!」
シラノは声を荒げる。確かに自衛隊の手によって、この国の正規軍はほぼ全滅していたたが、国土が何らかの攻撃を受けた訳では無い為、敗戦国という烙印を押されてしまうことに、彼は全く納得していなかったのだ。
「戦の結果を見れば、貴方方の惨敗でしょう。誰も貴方方を勝者とは見なしていない」
熱くなるシラノに対して、新田は冷静に切り返す。
「しかし・・・講和を申し出て来たのは其方では無いか! ならば其方が譲歩するのが道理だ!」
日本側に何らかの譲歩を求めるシラノに、新田は鋭い視線を向ける。
「では戦いますか、我々と。とは言っても、この国の様子を見ればそれどころでは無い様ですが・・・」
新田の指摘通り、正規軍が壊滅し、被征服民のアラバンヌ系民族による暴動と反乱が多発している現在のリーファント公国に、日本と戦う余裕など一切無かった。
「戦う余裕が無いのは其方も同じではないのか・・・? クロスネルヤード帝国と戦って、余裕を残しておける筈が無い。だからわざわざ講和など提示してきたのだろう」
シラノは日本側の状況を指摘する。確かに彼の言う通り、大なり小なり疲弊しているのは双方とも同じである。しかし、2国間には圧倒的な国力の差があることを、彼は分かっていなかった。
「・・・確かに我が国も万全という訳では無い。しかし我々には、まだまだ“余力”と“奥の手”がある。この都を更地に戻すくらいのことは出来ますよ。この講和は貴方方の事情を慮った、我々から貴国への最大限の配慮なのだと言うことをお忘れの無い様に・・・」
「!?」
新田はこの講和交渉が、日本政府からリーファント公国に対する“慈悲の心”によるものだということを告げる。明確な脅し文句を口にした新田に対して、シラノは思わず身震いをした。
言葉が出ない様子の彼に対して、新田は続ける。
「まあ、今日中に決めろと言われても無理でしょう。我々はいくらでも待ちます。良くお考えになってご返答下さい・・・」
彼は不敵な表情で淡々と述べた。その後、会談を終えた特使の2人と「しまばら」「おおすみ」「さわぎり」の3隻は、リーファント公国政府が正式な返答を出すまでこの国で待機することになる。尚、「おが」「しもきた」「しまかぜ」の3隻が向かったリザーニア王国でも同様の交渉が行われ、こちらも返答待ちという状態になっていた。
しかし、数日後の4月1日に、クロスネルヤード帝国が日本国との単独講和を果たしたという報道が世界を駆け巡ったことを切っ掛けとして、これら2カ国を含む聖戦に参加した教化軍国家のほぼ全ては、日本国との講和条約締結に舵を切ることとなる。
運ばれて来た捕虜については講和の締結後、アメリカ軍から借用していた艦載型汎用揚陸艇やエア・クッション型揚陸艇を用いて陸揚げされ、彼らは数ヶ月ぶりに故郷の大地を踏むことになった。
〜〜〜〜〜
4月4日 神聖ロバンス教皇国 総本山ロバンス=デライト 沖合
「リチアンドブルク講和条約」締結から3日後、世界宗教「イルラ教」の総本山、ロバンス=デライトの街に向かって海上を進む5隻の艦隊がある。その内訳は、海上自衛隊第2護衛隊群第6護衛隊に属する「きりしま」「たかなみ」「おおなみ」「てるづき」に、戦闘に参加していなかった補給艦「はまな」が名を連ねている。
5隻を率いる旗艦「きりしま」の艦橋では、今回外務省から派遣された使節団の団長を務める外務大臣政務官の洛奥咲佐が、双眼鏡を通して水平線の上に見える港街の姿を眺めていた。
「あれが・・・総本山か」
洛奥は2つのレンズの先に見える都市を見て、ぽつりとつぶやいた。
人口10万、他の列強国の首都と比較すればかなり規模が小さいロバンス=デライトの街は信徒たちから“総本山”と呼ばれ、ジュペリア大陸の各地に点在する教会や神学教育施設から収集される富によって、本来の経済規模とは不釣り合いな栄華を誇っている。
ここに日本人が訪れるのは2度目だ。1度目は教皇庁構成員による「皇居侵入未遂事件」への謝罪要求の為、そして今回は「聖戦の認可」によって戦線の拡大を招いたことに対する賠償請求の為である。
「東鈴の奴がリチアンドブルクで頑張ったんだ。次は俺たちの番だな」
遠き地にいる部下の姿を思い浮かべた洛奥は、使っていた双眼鏡を側に居た航海員に手渡すと、船室へと降りて行った。
・・・
総本山ロバンス=デライト 港
「・・・あれはニホン海軍の艦!」
「また来たのか!?」
「まさか・・・聖戦に対する報復の為に、この街を焼き尽くす・・・とか?」
「そんな、我が国も狂人皇帝に騙された被害者なのに!」
5ヶ月振りに現れた巨大艦隊の姿に、ロバンス=デライトは再び大騒ぎとなる。港には野次馬が集まり、曲がりなりにもクロスネルヤード帝国の首都を一時占領したという異教徒の巨大艦を、人々は不安の眼差しで見つめていた。
その後、艦隊から派遣された1隻の小型船が着港する。斯くして、日本政府はロバンス教皇庁に対し、2度目となる会談の申し入れを通達したのだった。
・・・
教皇庁 教皇執務室
椅子に座り、うつむく教皇イノケンティオ3世の下に、教皇庁の役人たちが次々と各国からの知らせを持って来ていた。
「タヴァン公国の首都が、アラバンヌ系民族の反乱によって落とされました・・・」
「教皇様・・・ジャヌーヤイ伯国政府より、アラバンヌ系民族による暴動を鎮圧する為の救援要請が通達されました。このままでは、同国の支配地域に置かれていた旧アラバンヌ系国家の独立を阻止出来ません!」
「リザーニア王国国王ボードアン3世より、聖戦撤回に対する抗議文が三度届いております!」
報告を述べる役人たちの表情は一様に暗い。アルフォン派の壊滅と唐突な聖戦の撤回によって、混乱の渦の中に落ちてしまった教化軍国家から、救援要請と抗議がひっきりなしにこの教皇庁へ届いていたのだ。
「・・・」
“寄進と布施”と称してクロスネルヤード帝国から吸い取ってきた富と人的資源を分配し、今まで飼い慣らして来た教化軍国家群から反感の嵐を買っている現状に、イノケンティオは頭を抱えるしかなかった。
無言で各方面から報告を耳に入れていた彼の下に、外交部の役人が四度訪れる。またどこぞの国からの戯れ言を報告しに来たのか、イノケンティオはそう思っていた。しかし、その役人が発した言葉は彼の予想を大きく裏切るものだった。
「ニホン軍の軍艦が港の沖合に現れ、彼の国の使節団が会談の場を持ちたいと申しております・・・。しかも今度は教皇様お一人ではなく、少なくとも幹部を2名は同席させろと・・・」
「な・・・何だと!!」
イノケンティオを含み、その場にいた全ての役人が驚愕した。日本人・・・血の穢れを好く異教徒が、この国へ再びやってきた。彼らの目的は言わずもがな大体予想はつく。
「すぐに幹部たちを召集してくれ! 緊急会議だ!」
生気を失っていたイノケンティオは椅子から立ち上がり、報告を持って来た役人に対して命令を出す。その後、召集を掛けられた教皇庁の幹部たちは、すぐさま円卓の間へと集まり、緊急会議が開かれることとなった。
・・・
教皇庁 会議室(円卓の間)
円卓を囲む教皇を首班とする幹部たち、その顔は一様に暗かった。
「・・・奴ら、我々に賠償を求めて来るつもりでしょう。聖戦を認め、教化軍国家に対してこの戦いへの参加を奨励した戦争責任に対する懲罰として」
外交部長のレオンが口を開いた。彼が述べたのは、日本がここへ訪れた目的についてだ。
「“血の穢れを好く罪人”どもが・・・」
教皇庁長官のグレゴリオが口にした言葉、それは狂信的なイルラ信徒が外科的治療を行う日本人医師の姿を見て付けた、日本人に対する蔑称である。
しかし、その名をつぶやく彼の声に力は無かった。以前はイルラの神“ティアム”より受けし加護に絶対的な自信を持ち、会議が開かれる度に声を荒げて日本に対する強行姿勢を主張していたが、事此処に至ってようやく現実が見えていたのだ。
「・・・どうされますか?」
国防部長のボニファスが全体に向かって問いかける。だが、妙案など何も浮かばない幹部たちは顔を俯けるだけだった。
「我々とて被害者なのだ。何とか言い逃れ出来ないものか・・・」
「全てアルフォンが悪い!」
「そうだ! そもそも奴が余計な事をしなければ良かったんだ!」
幹部たちは次々と、戦争の引き金を引いた張本人であるアルフォンに対する罵詈を口にする。かつて彼が行った対日宣戦を歓喜の声で迎えたことなど、忘れている様であった。
動揺と悲観が会議を支配する中で、議長である教皇が口を開いた。彼は円卓に参加している部下たちの顔を見渡す。
「取り敢えず・・・私とグレゴリオ、そしてヴェネディク。この3名でニホン国の使節との会談を行うことにする。異論は有るか?」
「・・・」
イノケンティオの問いかけに、否定の言葉を述べる者は居なかった。その後、会談の同席者として彼が指名したのは、熱狂的なイルラ信徒であり、教皇庁の役人たちからの支持も厚い教皇庁長官グレゴリオ=ブロンチャス、そして彼の腹心の部下であり、教皇の真の心を知る唯一の幹部である内務部長のヴェネディク=メデュラの2名である。
程なくして会議は終了し、教皇庁は会談の求めに応じることを正式に日本側へと通達した。沖合に停泊していた5隻の艦の内の1つ、「きりしま」の艦内で待機していた2名の特使は、小型ボートに乗り換えてロバンス=デライトの港へ向かい、教皇庁側が用意した馬車で教皇庁の建物へと案内された。
・・・
教皇庁 応接間
外務大臣政務官の洛奥咲佐とその部下である外交官の子門葵は、多数の工芸品が並べられている応接間に通されていた。そんな彼らの下にロバンスの代表として現れたのは、教皇イノケンティオと教皇庁幹部であるヴェネディクとグレゴリオの3名である。
「・・・ニホン国との会談は2回目ですが、貴方方は初見ですねぇ。私がロバンス教皇のイノケンティオと申します! こちらは私の部下、教皇庁長官のグレゴリオ=ブロンチャスと教皇庁内務部長のヴェネディク=メデュラです」
ソファから立ち上がる洛奥と子門に対して、イノケンティオは余裕ある表情で自分と部下2名の素性を述べた。今までの落胆振りが微塵も感じられない教皇の声色に、ヴェネディクとグレゴリオは心の中で大いに驚いていた。
「・・・日本国外務省大臣政務官の洛奥咲佐と申します。こちらは私の部下で、子門葵と言います」
イノケンティオの自己紹介に応じる様に、洛奥の方も自分と自分の左後に立っている部下の素性を紹介した。互いに自己紹介を終えた両者は、大理石製のテーブルを挟んで向き合う様に設置されたソファに座る。
「さて・・・今回はどの様なご用件でしょうか?」
先に言葉を発したのはイノケンティオだった。彼の問いかけを受けた洛奥は鞄の中から3枚の書類を取り出し、それぞれをイノケンティオ、ヴェネディク、そしてグレゴリオの目の前に置きながら、今回彼らがこの国を訪れた理由について説明する。
「クロスネルヤード前皇帝・アルフォン1世によって布告された対日宣戦に対して“聖戦”を認可したことについて、公式に日本国への謝罪と賠償を要求します」
「!」
予想通りの要求を示してきた異教徒の男に対し、信仰心の薄いヴェネディクは観念した様な表情を浮かべた一方で、熱心なイルラ信徒であるグレゴリオは、目の前に提示された要求の内容に怒りの感情を抱いていた。
洛奥が配布した書類に記されていたのは、日本と神聖ロバンス教皇国の間で締結する講和条約案であった。その内容は以下の通りである。
・神聖ロバンス教皇国は戦争責任を認め、日本国に対して賠償金200万ユロウ(6,000億円)を支払う。年利は無し。
・神聖ロバンス教皇国は同国内にあるイシハ銀山の採掘権を日本国に譲る。
・神聖ロバンス教皇国は日本国及び日本国民に対して、今後一切の敵対行為を行わない。尚且つ、他のイルラ教国やイルラ信徒の反日感情を焚きつける様な行為は一切行わない。
・神聖ロバンス教皇国は日本国と通商条約を締結する。
「・・・何だ、これは。余りにも行き過ぎでは無いか!」
条項案を目の当たりにしたグレゴリオは、その内容に憤怒する。その隣に座っていたヴェネディクも、無言のまま頭を抱えていた。
しかしその一方で、イノケンティオは平然としたまま日本側が提示した講和条件を読み進めていた。彼は読み終えた書類を再びテーブルの上に置き、洛奥の顔へ視線を向ける。
「・・・我々には貴国が求める一切の賠償に応じる道理はありません」
「・・・!?」
イノケンティオの口から発せられた言葉に、子門、そしてヴェネディクとグレゴリオは目を見開く。彼の部下である2人にとっても、教皇の口から発せられた言葉は予想をも超えるものだった。
「ほう・・・それはどういう理由で?」
平静を保っていた洛奥は、イノケンティオの理論を問う。彼は何食わぬ顔で答えた。
「・・・我が国が貴国に宣戦したという事実は存在しません。むしろクロスネルヤード帝国の“お家騒動”に振り回されたのは、我々も同じなのですよ。何て言ったって、我々も最初はアルフォン前陛下の虚言を真に受け、貴方方ニホン国がファスタ陛下を暗殺した犯人だと信じていましたからねえ・・・。
親族の多くを失った1人の信徒が敵討ちを掲げた・・・、悲しむ信徒を助けたいと思うのは教皇として当然のこと・・・。だから、他のイルラ教国の協力を得られやすいようにと、彼の対ニホン宣戦に“聖戦”を与えました。
それについてはお詫び申し上げます・・・が、我々はあの男に騙されて誤った聖戦を与えてしまった、だから我々も被害者なのですよ・・・」
「・・・!」
教皇として信徒を想う慈愛の心を持ち出し、悲痛な表情を浮かべて見え透いた詭弁をしゃあしゃあと述べる教皇の言動に、子門は生理的な嫌悪感を抱く。
しかし、彼が述べたことが嘘であると断ずる物的証拠は、その殆どがイノケンティオが雇っていた密偵オリスによって持ち去られており、更には最重要参考人であるアルフォンとスリガンは自害してしまった為、「イノケンティオがアルフォンを脅迫・誘導し、ファスタ3世の一家を殺害させた上に、対日宣戦を行わせた」という真実は最早闇の中なのである。
故に教皇の主張は大方、洛奥の予想通りだった。
「同じ被害者同士、これからは手を取り合いましょう・・・」
歪んだ笑顔を浮かべながら、イノケンティオは言葉を続けた。その後、筋書き通り賠償請求を拒否された洛奥は、再び口を開く。
「・・・成る程、確かに貴国と手を取り合える様になることは大変理想的なことです。しかし、貴方方が犯した“誤り”によって、戦線が不必要に拡大したのも事実。我々が払った犠牲も決して少なくは無い。このままでは、我が国民が納得致しません。我が国は国民主権を国是としていますからね・・・」
洛奥は鋭い眼光で、イノケンティオら3名の顔を見つめていた。その後、彼は続ける。
「それでも賠償は払えないと仰るならば、これは少し申し上げにくいのですが・・・」
「・・・何です?」
首を傾げながら問いかけるイノケンティオに対して、洛奥は賠償金支払いに代わる案、否、日本政府にとっての“本命の案”について語り始める。
「・・・貴方が教皇を辞めれば良いんですよ。指導者が引責辞任したという体裁があれば、我が国の国民も一先ず納得するでしょう」
「!?」
洛奥が告げた代案、それは“イノケンティオ3世の引責辞任”だった。そしてこれこそが、日本政府の真の目的だったのだ。
「な・・・! その様な事、貴国は要求出来る立場に無い!」
想定外の提案を出されたイノケンティオは、今までの落ち着きを装った表情を一変させ、憤怒の形相で洛奥を問い糾す。
数多の苦労の末にたどり着いた教皇という名の地位、ただそこに居るだけで巨万の富が流れ込んで来る今の地位を自ら手放す選択肢など、彼の頭の中には存在しなかった。
しかし・・・
「ちょっと待って下さい・・・。その場合、賠償金は破棄されるという事で宜しいのしょうか?」
「!?」
狼狽するイノケンティオの脇から、幹部の1人であるヴェネディクが洛奥に問いかける。自身の意と反して、日本側が提示した代案に乗り気な姿勢を示した部下の言葉に、イノケンティオは呆気に取られてしまった。
「辞任と引き替えに、賠償請求は破棄するくらいの譲歩はしましょう。何なら銀山の割譲も無しということで・・・」
洛奥は教皇の辞任と引き替えにして、多大な譲歩を行う意志が有ることを示す。
実際の所、賠償請求と銀山の割譲はそれ自体が目的ではなく、これらを無しにするという譲歩を示すことで、イノケンティオ3世の引責辞任という本来の目的を通しやすくする為の餌でしかなかったのだ。
「尚、我々には貴国と戦うくらいの余力は大いに残っている。よくお考えになってから返答することをおすすめします・・・」
「!」
洛奥は此処に至って明白な脅し文句を口にする。その言葉に教皇国側の代表である3名は、思わず身震いをした。
「我々を脅す気か・・・!」
そう言うと、グレゴリオは洛奥を睨み付ける。
「では・・・再び“聖戦”と銘打って教化軍国家を束ね、我々に対抗しますか? まあ、教化軍国家の首脳たちが応じることは無いだろうと存じますが・・・」
自身に向けられたグレゴリオの眼光を気にも留めず、洛奥は冷静に言い返す。
本来の常備戦力が1万に満たない神聖ロバンス教皇国が、列強“七龍”の一角に数えられて来た理由は、教皇という宗教的権威の下に各イルラ教国家の戦力を動員出来るという、世界宗教の総本山ならではの特性の為である。
しかし“最大の盾”であった「クロスネルヤード帝国」は、アルフォン1世の敗北によって総本山の影響下から離脱する事がほぼ確定し、更には今まで子飼いとしていた「教化軍国家」の各主要国も、聖戦の撤回という決断を急遽下した教皇庁に対して反発する動きを見せており、更には被征服民であるアラバンヌ系民族の反乱によって、国内情勢が混乱の極みの中にあった。
この状況下で、教皇国に付き従う国家権力は皆無に等しく、彼らが日本に抗う術など存在しなかった。
「少し・・・我々だけで話し合う時間を頂けませんか?」
呆気に取られている教皇と興奮気味のグレゴリオを抑えながら、ヴェネディクは洛奥に猶予を求める。
「構いません。何日でも待ちましょう・・・」
洛奥は淡々と答えた。自分たちの提案に乗ってきた相手の態度を前にして、彼の口角がわずかに上がる。言うべき事を全て言い尽くした洛奥は、教皇国側の3人に今後の予定を告げた。
「では本日はこれまでという事で・・・。我々は艦の中に居ますので、結論が出次第、港に待機している我が国の海軍兵にご連絡下さい」
「分かりました・・・」
ヴェネディクが答えた。
会談を終え、ソファから立ち上がった洛奥と子門の2人は、教皇国側の代表であるイノケンティオらに対して一礼した後、応接間の出入り口へと足を進める。
洛奥が扉の取っ手を掴もうとしたその時、彼は何かを思い出したかの様に手を止めて、イノケンティオらの方へ振り返り、口を開いた。
「そうそう、此度即位なさる新たなクロスネルヤード皇帝陛下は、“国教会”を設立して独自のイルラ教を築いて行くつもりだそうですよ・・・」
「!? そ、そうですか・・・」
自身の意図と関係なく会談が進み、呆然としていたイノケンティオは、洛奥のこの言葉を受けて久しぶりに口を開いた。
捨て台詞を言い残した洛奥は、部下である子門を引き連れて扉の向こうへと消え、応接間を後にする。部屋に残されたイノケンティオと教皇庁の幹部であるヴェネディクとグレゴリオの3名は、冷や汗を流しながら彼らの後ろ姿を見送っていた。
・・・
教皇庁 執務室
会談を終えたイノケンティオは、2人の部下と別れた後に1人で自室に戻って来ていた。円卓の間では、日本側が提示した条件を受け入れるか否かを協議する為の会議の準備が進められている。
「・・・クソッ!」
彼は、指が手の甲を突き破らんばかりの力で握り締めた右拳を、悔しさと怒りを滲ませた台詞と共に、机の上に叩き付けた。自分以外は誰も居ない空間で、彼は見るに堪えない形相を浮かべている。
「異教徒どもの国々を蹂躙し、奪い、姦し、攫い、売り飛ばし・・・私はこの富を築き上げて来た!
盲信者どもは”神”の為だと言えば、文句の1つも無く言われるがまま兵と金を出す・・・。生粋の馬鹿だと心の底で笑ったが、都合の良い”駒”だった! この駒さえあれば、私はいつまでも富を得ることが出来たのに・・・!」
聞くに堪えない言葉を並べるイノケンティオ3世、本名ロドリーゴォ=アヴェンチェリスの掠れた様な声が、執務室内に響く。彼はイルラ教のトップたる教皇の地位に居ながら、神の存在と加護を信じている訳ではなかった。
彼にとって教皇の地位とは、際限のない富を得る為の道具であり、信徒たちは彼の足下に金をかき集める“駒”でしかなかったのだ。
「絶対・・・報復してやる! 私の全てを奪ったニホンに・・・!」
ロドリーゴォは日本への復讐を誓う。しかしそれは単なる負け犬の遠吠えに過ぎなかった。
その後、円卓の間に召集を掛けられた幹部たちの間で、「“現教皇の辞任”と引き替えに一切の賠償請求を破棄する」という日本の提案を飲むか否かについて協議が成されることになる。その場においてイノケンティオ3世は、「神聖な教皇の地位に対して干渉する様な異教徒の要求を飲むことは、総本山の品格を落とし、ひいては神に対する冒涜になりかねない」と主張し、提案の拒否を断固として訴えた。
しかし、彼は教皇庁の幹部たちに、クロスネルヤード帝国の離脱が最早食い止められないであろう事実、そして聖戦の撤回によって対日戦争に殉じた兵士たちの名誉を傷つけ、各イルラ教国の首脳たちの反発を買っている責任を激しく問い糾され、最終的にはイノケンティオを除く幹部全員の意見の一致により、日本の提案を承諾し、ロドリーゴォは全ての責任を取って自ら教皇の地位を退くこととなった。
それが洛奥ら日本使節団に伝えられたのは、会談があった日から2日後のことだった。
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4月6日 教皇庁
提案受諾の確認、及び講和条約の内容を確定させる為、洛奥と子門の2人は再び教皇庁を訪れていた。2日振りとなる協議の結果、日本と神聖ロバンス教皇国の間には、以下の様な条件の下で講和が結ばれることとなった。
・第53代ロバンス教皇イノケンティオ3世は、此度の戦争における戦争責任を認め、教皇を辞任する。その代わり、日本国は一切の賠償請求を破棄する。
・神聖ロバンス教皇国は日本国及び日本国民に対して、今後一切の敵対行為を行わない。尚且つ、他のイルラ教国やイルラ信徒の反日感情を焚きつける様な行為は一切行わない。
・神聖ロバンス教皇国は日本国と通商条約を締結する。
「予定通りでしたね。思っていたより早く決着が着いて良かったですよ」
教皇庁の廊下を歩く2人の日本使節団、その内の1人である子門は、団長である洛奥に交渉成功を祝う言葉を投げかけた。
「彼らにはこれ以外の選択肢は無いからね、遅かれ早かれこうなるしか無かっただろう」
洛奥は淡々と答える。しかし、冷静を装う彼の方も喜びを隠しきれていない様で、その顔はうっすらとした笑みを浮かべていた。
「だが、これで終わりじゃないぞ・・・。その前に最後の仕事が残っている」
「はい」
上司の言葉に、子門は気を引き締め直して返事をする。
その後、表向きの仕事を終えた彼らは、教皇庁からロバンス=デライトの港に戻り、日が落ちるまで待機することとなる。
・・・
同日夜 ロバンス=デライト 港
夜の闇の中にロバンスの街の灯が点る。昼間の活気はなりを潜め、静寂が支配していた港に洛奥と子門の2人が立っていた。
数分後、彼らの目の前に一頭立ての馬車が現れ、その中から1人の人影が姿を現す。本来ならばこんな時間にこんな場所に現れる筈の無いその人物こそが、2人が待ち望んでいた男であった。
「貴方がヴェネディク=メデュラ殿ですね・・・」
洛奥はその男の名を告げながら、彼に対して右手を差し出す。2人が待っていた人物、それは教皇庁幹部の1人である内務部長のヴェネディク=メデュラだったのだ。
「はい、いかにも。・・・昼間に頂いたお話とは、現教皇の辞任後に行われる教皇選挙の件ですね?」
ヴェネディクはそう言うと、洛奥が差し出した右手を握り返す。
「フフ・・・やはり貴方は、我々が見込んだ通りの人物である様だ・・・」
ヴェネディクの指摘は図星だった。洛奥は、教皇庁の要職に就いている彼の内面を目の当たりにした様な気持ちになり、思わず笑みをこぼす。
握手を終えた両者は、互いの右手を放した。
「ここでは少し肌寒い、我々の艦へどうぞ。お察しの通り、後に行われるであろう“教皇選挙”についてお話があります」
洛奥は港に係留してあった海上自衛隊の小型ボートを指し示した。その上では、2人の海上自衛隊員が敬礼をしながら立っている。
「ふむ・・・確かに此処では人目につくかも知れませんなあ・・・」
ヴェネディクはそう言うと、洛奥に促されるまま、特に警戒すること無く小型ボートに乗り込んだ。彼に続いて、洛奥と子門が同じくボートに乗り込む。
計5人の人員を乗せたボートは、海上自衛隊員の手によってエンジンが動き出し、港を離れて沖合に停泊している「きりしま」へと向かって行った。
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2030年4月8日 クロスネルヤード帝国 帝都リチアンドブルク 皇宮
御所の中に設けられた控え室に、絢爛な法衣を纏った1人の青年の姿があった。彼、ジェティス=メイ=アングレムの手元には、“世界魔法逓信社”の紙面が握られていた。その一面は以下の様な見出しで始まっている。
“現イルラ教皇イノケンティオ3世、辞任を決意”
見出しの下にはその詳細が記されており、神聖ロバンス教皇国と日本国との間で行われた協議の結果、現教皇が戦線を不必要に拡大させた責任を取って辞任する代わりに、日本側は神聖ロバンス教皇国に対する一切の賠償請求を放棄すると書かれている。
更には約3週間後に「教皇選挙」が開かれるであろうということが記載されていた。
「・・・」
記事の内容を複雑な心境で読み進める彼の下に、1人の文官が現れる。
「殿下・・・用意は宜しいですか?」
文官の問いかけに、ジェティスは首を縦に振って答えた。
「ああ・・・行こう」
ジェティスは立ち上がり、控え室を後にする。
彼が向かった先は御所の出入り口のさらに先、宮中庭園に設営された壇の舞台裏だった。
参加者たちの目からは見えないこの場所では、数多くの侍女や文官たちが準備の為に奔走している。この日は彼らが待ちに待った、ジェティスの「即位式」の日なのだ。
開放された皇宮の正門からは、帝都に住まう皇族貴族、各国の大使や18人の長の代理人などの招待客が次々と入って来ており、庭園に設置されていた席は、既にほぼ全てが埋まっている状態だった。
「間も無く式典が開始されます。・・・準備は宜しいでしょうか、陛下?」
1人の文官が尋ねる。ジェティスは無言で頷き、彼から手渡された儀仗を右手で掴むと、壇上へ上がる階段へと足を進める。段を一つ一つ上がるごとに、心臓の鼓動が高まるのを感じていた。
そして遂に、彼は即位式に訪れていた観衆の前に姿を現した。新たな皇帝の誕生を祝う為に集まっていた人々は、壇上に登場した主役に対して両耳を劈くばかりの歓声と拍手を送る。
特別席に座る各国の大使も、微笑みと拍手を以て新皇帝の登場を称えていた。その中には、外務事務次官から新たな駐クロスネルヤード帝国特命全権大使となった東鈴稲次の姿もある。
歓迎の拍手に包まれたジェティスは、一足先に壇上に上がっていた“大司教”アーティア=リカレント・ラリンジールの下へ近づく。アーティアの両手には、5ヶ月前にアルフォン1世が被ったものと同じ、クロスネルヤード皇家に代々伝わる帝冠の姿があった。
ジェティスはアーティアの前で片膝を付く。アーティアは自身の前に跪く男に、クロスネルヤード皇家に代々伝わる帝冠を授けた。戴冠を受け、新たな皇帝となったジェティスが立ち上がる。クロスネルヤード帝国第28代皇帝誕生の瞬間を、人々はその目に焼き付けた。同時に、再び巨大な歓声が巻き起こる。
即位式は戴冠を終えた“新皇帝の言葉”で締めくくられる。大勢の参列者の方を向いたジェティスは、自身に向けられている数多の笑顔を見渡すと、大きく息を吸い込み、はっきりとした声で、壇上に設置されていた「声響貝」に向かって新皇帝としての最初の演説を始める。
「・・・恐るべき陰謀によって巨大な戦乱が勃発し、我が国は2つに割れることとなった。多くの人民が命と生活を失ったことだろう。民を害すこと、それは私の父が掲げて来た信念とは反するものだった。
しかし、狂信に駆られた亡霊は消え去った。我が国は平和を手にすることが出来たと言えるだろう」
新皇帝ジェティス4世の言葉や身振り手振りに、民衆は釘付けになっていた。彼が述べたのは、先の戦争についてである。世界を欺いた簒奪者によって引き起こされた悲劇は、戦地となった地域に住んでいた国民たちに、生々しい傷跡を残していた。
帝都貴族の中にも、出征によって命を落とした者、アルフォン1世が行った中央議会の弾圧によって被害を被った者が数多くおり、それらの悲劇は彼らの頭に消えない記憶として残っているのだ。
戦争の記憶が頭を過ぎっていた聴衆に向けて、ジェティスは演説を続ける。
「ニホン国との戦は終わった。そしてその結果としてこうして皇帝が代わり、皆も知っていると思うが教皇も代わる。そして一部の地域では此度の戦争の影響で新たな戦火が巻き起こっている。この中央世界は大きな変容を見せるかも知れない。故に今後、我が国がこの平和を維持出来るかどうかは、我々の努力にかかっていると思う。
その為に・・・今後この国を戦火に巻き込まない為に! 私は父の理想を実現したいと思っている。父の友人だったアーティア殿も協力して下さるそうだ」
ザワッ・・・
ファスタ3世の理想を継承するという姿勢を見せたジェティス4世の言葉に、民衆はどよめきを見せる。それは教皇国への対抗姿勢を再開するということだからだ。
しかもそれにイルラ教の大司教の協力を取り付けたと言う発表も、聴衆にとっては疑問符が付く内容だった。迷いを見せる民衆に対して、ジェティスは演説を続ける。
「この国が・・・信教に起因する戦火に再び巻き込まれない様に、他者が利する為の戦いに搾取されることが無い様に、私は私の治世を掛けて、父が追い求めた理想である“国教会”を設立したいと思っている!
勿論、明日明後日で出来ることでは無いだろうし、父の様に無理に推し進めるつもりも無い。ただ諦めるつもりは無い! 急な事で驚いているとは思うが、ここに居る皆には納得した上で協力して欲しいんだ」
ジェティスは民衆に対して説明を続ける。しかし、彼らは顔を見合わせてざわめいていた。
「何故・・・そこまでして教皇国との関係を断ち切る必要があるのだ?」
「確かに、アルフォン1世の凶行の大元は教皇国に対する忠義心に依るものではあったが・・・」
「まさか、教皇様の関与があるとでも言うのか?」
「そんな馬鹿な! 教皇様が信徒に肉親殺しをさせる等、あり得ない!」
聴衆の間には様々な言葉や推論が飛び交っている。特別席に座る各国の大使たちも、即位式が妙な流れになってしまっていることに戸惑いを見せていた。
(さすがに、すぐには乗ってはくれないか・・・。教皇国が推し進めていた征服事業の為に、この国が兵と金を出させられていたのは周知の事実だろうに)
各国の大使と共に特別席に座る東鈴は、ジェティスの提案に中々賛同しない民衆の様子を見ながら、心の中でつぶやいた。
勿論、全員がそうという訳では無い。特に“革新派”と呼ばれる派閥に属する貴族たちは、彼が提示した国教会の設立という提案を心の中では歓迎しているのである。しかし、彼らはそれをおおっぴらに口にすることは出来なかった。
「・・・」
即位式に訪れていた人々から笑顔が消える。聴衆の心を掴むことが出来なかった悔しさを滲ませながら、ジェティスは再び口を開いた。
「・・・私の話は以上だ。私の為に此処へ集まってくれた皆には感謝している」
そう言うと、彼は民衆に背を向けて、そそくさと舞台裏に降りてしまう。
斯くして、満28歳の若年皇帝の即位式は、最初の興奮が嘘の様に、困惑と戸惑いに満ちた微妙な空気のまま終了することとなった。
・・・
同日夜 皇宮・御所 皇帝の執務室
正式に新たな皇帝となったジェティス4世は、椅子に深く腰掛けながら大きなため息をついた。彼が悩んでいたのは、即位式の場で行った演説内容についてだった。
(・・・あれで、民衆は私に付いてきてくれるのだろうか?)
即位式の様子を思い出して落ち込む彼は、再び大きなため息をつく。
そんな意気消沈中の彼の姿を、扉の隙間から心配そうに眺めている2つの人影がある。その正体はジェティスの妻である“皇后”レヴィッカと、皇女から皇帝の妹という立場になったテオファだった。
「義姉上様・・・兄上様は大丈夫なのでしょうか?」
実兄の様子を右目で覗いていたテオファは、彼女自身にとっては義姉にあたるレヴィッカの顔を見上げながら尋ねる。
「皇帝という地位に即いたあの人・・・貴方の兄上の覚悟は、こんな事で揺らぐものではないわ。その内に・・・」
(過ぎた事をくよくよしても仕方が無い! ヨオォーシ!)
「!?」
レヴィッカの言葉を遮る様に、気合いを入れる様な雄叫びが部屋の中から聞こえて来た。驚いたテオファが扉の隙間から再び部屋の様子を覗いたところ、負の感情を頭の中から叩き出す為に両の頬を掌で何度も打つジェティスの姿が見えた。
「あれなら取り敢えず大丈夫ね・・・、安心した?」
「!」
レヴィッカの問いかけに、テオファは無言で頷いた。両の頬が真っ赤になった兄の姿に、テオファは思わず笑ってしまう。彼の迷いは一先ず消え去った様子であった。
その後、即位式での失敗から気を取り直したジェティス4世は、皇帝として行う最初の事業として、戦争の傷跡が深く残る国内の建て直しに本格的に着手することとなる。
ちなみに教皇イノケンティオ3世、本名ロドリーゴォが正式に教皇の地位を退いたのは、ジェティスの即位から2日後のことだった。その後の彼は、神聖ロバンス教皇国の内陸部にある田舎で一生を終えることとなる。築き上げた富を元手に、その余生を何不自由なく過ごしたという。
しかし、クロスネルヤード帝国という大きな後ろ盾を失った「教化軍国家」群は、最早国内におけるアラバンヌ系民族の反乱や独立運動を制圧することは叶わず、同国家群の支配地域は“内紛”という名の混沌の渦の中に飲まれて行くこととなった。
次回、衝撃の最終回です。




