凱旋 弐
メストーの戦いの話を作る時に、参考にしようと去年8月16日に起きたカルフォルニア森林火災の記事をネットで漁っていたのですが、発生から半日足らずで36平方kmが焼けるという延焼範囲の拡大の早さにびびりました。原因は一個人の放火に依るものだった様で、やはり山火事は洒落になりませんね。
2月22日 帝都占領から1週間後 皇宮・御所 執務室
皇帝の執務室にある机の椅子に、1人の男が座っている。本来ならばこの国の長しか座ることを許されないその椅子に座っているのは、「ジュペリア大陸派遣部隊」の総指揮官である滝澤詠仁陸将補だ。
皇宮に司令部を置いた彼の下には、多くの隊員たちが現状報告のために訪れていた。
守備兵が殆ど居なかったリチアンドブルクは、赤子の手を捻る様に短時間で占領されてしまい、同都市は現在、ジュペリア大陸派遣部隊の占領統治下に置かれている。
尚、帝都攻略の最大目標だった現皇帝アルフォン1世については、派遣部隊による帝都突入の数時間前に、皇子スリガンや残った近衛兵、文官と共に都市からの脱出を果たしていた為に確保することは出来ず、攻略戦そのものは失敗に終わっていた。
早急に追撃したかったのは山々だったが、兵站の限界と日没などの様々な要因の為に断念せざるを得なかった。
その為、ジュペリア大陸派遣部隊の現在の状況としては、ルシニア基地から送られてくる追加の補給物資を待っている状態だ。その間、隊員たちは都市内部の各地点にて治安維持に当たったり、本国から送られてくる衛星写真から西側の地形についての情報を集めたりしている。
尚、保護した3名の大使館職員、及び遺体として発見されることとなったもう1人の職員と時田雪路大使については、すでに帝都を後にしており、ミケート・ティリス上陸作戦に参加した護衛艦「ちょうかい」に乗って、日本へと向かっている。
「まさか・・・聖戦じゃあ無くなっていたとはね。それが分かっていればビラをばらまくなり出来ただろうが・・・」
皇帝の椅子に座る滝澤は、世界魔法逓信社の夕刊紙を眺めながらぽつりとつぶやいた。彼は、既に大義が失われていた戦いの為に倒れた兵士たちに対し、一種の同情心を抱く。
「しかし非道い話だな・・・、首都を守るべき兵士と共に城から逃げ出すか。“金目の物と食糧を略奪しろ、男は皆殺し、女は歳を問わず好きなだけ犯せ”・・・って命令出したら、市民は何も抵抗出来ないじゃないか。まあ、焦土作戦をされなかっただけ良しとするか・・・」
滝澤は、自分たちが到達する前に帝都から逃げ出していた皇帝と近衛兵に対して、不快感に似た嫌悪感を抱いていた。
その後も彼は、辞書を片手に紙面を読み進める。そして夕刊紙を半分ほど読み終えた時、1人の隊員が執務室へと駆け込んできた。彼は息を整えながら姿勢を正すと、ある重大事項を報告する。
「我らが隊の管理下に置かれている皇帝領の“内務庁”に、『シーンヌート辺境伯領政府』から通信が届けられました!」
隊員の報告内容に、滝澤は首を傾げた。
「シーンヌートというと・・・確か最北の地方の名だな。一体、何の用で・・・?」
「それが・・・現在我々が捜索中の『北方AIDS調査班』の身柄を保護しているので、こちらで引き取って欲しいと!」
「・・・何、本当か!」
滝澤は驚きのあまり、椅子から立ち上がる。大使館職員5名と同じく、開戦から3ヶ月あまりの間、行方不明になっていた北方AIDS調査班の所在が判明したのだ。
「高機動車を一台派遣するくらいの余裕は有るな・・・! すぐにそちらに向かうと連絡を入れろ!」
「了解!」
指揮官の命令を受けた隊員は、すぐさま執務室を退出して行った。
その後、残存の予備燃料を積んだ1台の高機動車と3名の隊員が、北方AIDS調査班の待つシーンヌートへと派遣される事となる。
皇宮・御所 2階
数十名の隊員たちが、皇宮内の各部屋を漁って回っている。傍目には泥棒か物取りの様に見える彼らの行動を、御所の侍女たちは不安げに眺めているが、彼らにとっては当然、正当な目的が有って行っている事だった。
「何か物的証拠は無いのか!」
ジュペリア大陸派遣部隊・情報隊隊長の奥村明夫一等陸尉は、目的の代物が全く見つからない事に苛立ち、思わず声を荒げた。
彼らが探しているもの、それは現皇帝と教皇との繋がりを示す物的証拠である。しかし、当の皇帝の執務室は、自衛隊が踏み込んだ時にはすでに蛻の殻に近い状態であり、めぼしいものは何も出てこなかった。
何故なら、ミケート・ティリス上陸作戦が行われた直後に、掌を返した教皇イノケンティオの指示を受けた密偵オリスの手によって、証拠らしいものは全て彼と共に消えていたからだ。しかし、そんな事を知る由もない彼らは、根気強く皇宮の捜索を行っていた。
苛立つ上官に対して、1人の情報科隊員が侍女や文官、そして身柄を確保している政府閣僚たちから得た、とある証言について伝える。
「数ヶ月前から皇太弟に妙な秘書が付いていたという証言は、数人の閣僚から取れています。しかし、その人物の素性については分からないと・・・。ただその人物が度々行っていた発言の内容から、証言者は皆、怪しさは感じていた様です。文官や侍女たちは、新たに雇った秘書くらいに思っていた様ですが」
「・・・!」
“謎の人物”、部下の口から告げられたその言葉に、奥村一尉は目を見開いた。恐らくその人物こそが、教皇とアルフォンを繋いでいた内通者だったのだろう。
と言っても、そうだと言える証拠は何も無い訳だが。
「皇帝、または謎の人物は、教皇国との連絡に信念貝を用いていたと推測されますが・・・何分、電話やメールとは違い、履歴といった痕跡の様なものが一切残らない代物ですし・・・。念のため、皇宮内の“御所”及び“沢の間”を捜索しましたが、教皇国とのやりとりを裏付ける様な文書の類も、発見出来ませんでした」
隊員は報告を続ける。彼の言葉に、奥村一尉はただただ頭を抱えていた。
「せめて・・・紋章付きの便箋やシーリングスタンプの1つでも有れば、決定的な証拠になるんだがなあ・・・! クソッ!」
焦りとやるせなさのあまり、奥村一尉は左拳を壁に叩きつけた。部屋の中に鋭い音が響き、それを耳にした侍女の身体がビクッと震えた。
そんな彼女の様子を見ていた奥村は、壁を叩いた左拳の力を緩めると、冷静さを取り繕ったかの様な表情を浮かべて、彼女の方に顔を向ける。
「あ、ああ・・・怯えさせてすまない。他の部屋も案内してくれるか?」
「は、はい!」
彼の言葉を聞いたその侍女は、動揺しながら答えた。皇宮の捜索はこの後も徹底的に行われることとなる。
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ミケート騎士団領 ミケート・ティリス市 「かが」艦内
ミケート・ティリス市の港に停泊している「かが」は現在「クロスネルヤード帝国亡命政権」が設置されている。すなわちアルフォンの簒奪によって一時的に国を追われることとなった3名の皇族がこの艦の中に滞在していた。
士官室の応接スペースにあるソファに、1人の男が腰を下ろしていた。海上自衛隊員の制服や隊服とは、明らかに異なる衣装に身を包んでいる彼の名は、ジェティス=メイ=アングレム。前皇帝ファスタ3世の長男であり、日本を含む世界の各国が認めた正統な皇太子である。
妃であるレヴィッカ、末の妹であるテオファと共に、自衛隊の庇護の下、ミケート・ティリスまで来ていた彼は、終戦後にクロスネルヤード皇帝の位に即く事が決まっている。そんな彼の下に、1人の海上自衛官が、帝都に駐留している派遣部隊司令部から届けられた知らせを持って来ていた。
「派遣部隊からの報告に依りますと、現在、リチアンドブルク、及び皇帝領にて、敗走兵の確保が進められている様です。10日以内には、殿下を帝都へご案内出来るかと思われます」
そうジェティスに告げるのは、「かが」の船務長である百原丹波二等海佐/中佐だ。彼の言葉に、ジェティスは複雑な笑みを浮かべる。
「・・・そうですか、いよいよ帰ることが出来るのですね」
ジェティスは軽く頷くと、感慨を含む様な深みのある声で答えた。
伝えるべきことを伝えた百原二佐は一礼し、勤務部署である戦闘指揮所へと戻る。士官室から退出する彼の後ろ姿を見送ったジェティスは、ソファの背もたれに上半身を沈めると、天井を見つめながら深いため息をついた。
(思想の違いが、神への狂信が・・・家族を引き裂き、国まで割った。“始祖”イルラ=ナーザルが追い求めた理想とは何なのだろうか? 彼が現在に居れば、本当にこんな事を望むのだろうか・・・)
彼は心の中で、イルラ教の開祖とされる男の名をつぶやき、その意志を問う。
1000年前以上に“とある帝国”にて誕生したとされる“イルラ教”は、様々な迫害や危機を経た後、ジュペリア大陸の広範囲に拡がる一大世界宗教へと発展したという歴史を持つ。
その“とある帝国”は約500年前にアラバンヌ人の手によって跡形もなく滅び去ってしまったが、帝国の後継者として当時の教皇から戴冠を受けたのが、当時はまだ新興国家だった「クロスネル王国」の王、オルトー1世だった。ここから、クロスネルヤード帝国皇帝が教皇国の“守護者”になるという現代まで続く2国間の関係がスタートする。
その後、一時期はジュペリア大陸で最大の権勢を誇ったとされるアラバンヌ帝国との覇権争いに勝利したオルトー1世は、クロスネル王国の覇権を確定付け、後に国号を“王国”から“帝国”に改称、それ以降、クロスネルヤード帝国は、世界最大の国家としての地位を保ち続けて来た。
しかし、長い時を経てあまりにも巨大に成りすぎたイルラ教の権力は、次第に人々に対して害をなす様になっていく。経典に固執するあまり、医学の発展や真理の研究を妨げ、さらには異教徒を蹂躙する様になっていたのだ。
それに不条理を感じた“第26代皇帝”ファスタ3世は、自国が有する力が教皇庁の権威の後ろ盾となり、多くの人々を害している現在の状況を打破しようと画策した。その為の工作の一環として、現行の“経典”に反しながらも、圧倒的な発展を遂げている日本の医療技術を保護・利用し、イルラ教の既得権益を削ごうともした。最終的には帝国の領土を構成する地方の長たちを全員、自らの主張で説き伏せた後に独自の“国教会”を築くことによって、神聖ロバンス教皇国とは完全に袂を分かつつもりでいたのだ。
しかしその道半ばで、後ろ盾の喪失と権威・権益の失墜を危惧した教皇イノケンティオ3世によって唆された、実弟アルフォン=シク=アングレムの手に掛かり、彼は暗殺されてしまう。
新皇帝の地位に即いたアルフォン1世は、暗殺の罪を日本人医師団に転嫁し、対日宣戦を布告。仇討ちという名目の下に集った兵士たちの士気は最高潮に達し、終いには世界の広範を巻き込む戦いに発展することになる。
しかし、ミケート騎士団長ハリマンス=インテグメントの手引きでショーテーリア=サン帝国に亡命していた皇太子ジェティスの存命が明らかにされると、形勢は一気に逆転。簒奪者の烙印を押されたアルフォン1世は、“18人の長たち”の殆どから離反されてしまったのだ。
しかし、教皇を軽んじる前皇帝を疎ましく思っていた、“保守派”を標榜する5つの地方と、帝国の後ろ盾の下、アラバンヌ文化圏で好き勝手してきた他のイルラ教国群、そして基本は皇帝の言いなりとなるクロスネルヤード属国群は、真実の暴露後も聖戦が撤回されなかったこともあり、彼の下に付き続けた。
だが、そうやって残った兵力のほぼ全ては、「ミケート・ティリス上陸戦」と「メストーの戦い」にて壊滅。さらにはそのタイミングで教皇庁によって聖戦が撤回されてしまった。孤立無援同然となったアルフォン1世は、わずかに残った近衛兵その他と共に、帝都を捨てて西へ逃れたという。
「私はこの先・・・、父上の意志を引き継ぐ事が出来るのか? 国を平和に戻すことは出来るのか?」
ジェティスは今まで起こって来た出来事を思い返しながら、帝位への即位という、まだ先のことだと考えていたイベントが目前に迫っている事実を前に、緊張に似た感情を抱いていた。“世界最大国家の君主”という地位は、まだ30歳にもなっていない若い身空である彼の双肩に、あまりにも重くのしかかっていたのだ。
しかしながら、他国の力を得てまで自らが望んだ地位に、プレッシャーを抱く姿を他人の前に晒すことなど出来ない彼は、こうして時折、1人で不安を吐露することがあった。
項垂れた姿でぶつぶつとつぶやく彼を、扉の影から見ていたレヴィッカは、不安を抱えている様子の夫ジェティスに近づき、彼の左頬に右手を添えると、優しい声で語りかけた。
「・・・大丈夫ですよ。殿下なら」
「・・・!」
ジェティスはレヴィッカの顔を見上げる。彼女の微笑みと優しい声が、彼の心から負の感情を消して行く。
「ああ、そうだな。何時も・・・支えてくれるのは君なんだ」
妻の一言で心が落ち着いたジェティスは、彼女に対して微笑み返す。しかし彼は、“もう1つの懸念”について思い浮かべていた。
(私以上に・・・テオファは、大丈夫なんだろうか?)
彼が心配しているもう1つの事柄、それは末の妹であるテオファ=レー=アングレムについてであった。
「かが」医務区画
各種の護衛艦の中でも、いずも型護衛艦の医務区画はかなり広い方である。そんな場所に設置されている数多の病床の中の1つに、テオファの姿があった。
いつもは神秘的な笑顔を欠かすことの無い彼女だが、この日は事情が変わっていた。
「どうした!? 何があった!」
容態が変わった皇女の下に、彼女の主治医である日本赤十字社所属の感染症内科医・郷堂恵一と、元主治医で脳神経外科医である柴田友和の2人が駆けつける。
郷堂は側にいた衛生員に、何が起こったのかを尋ねた。
「朝食を食べられた後から、悪心を訴えられています!」
衛生員の報告と、小さなポリバケツに顔を突っ込む皇女の姿を見て、郷堂は“しまった”といった雰囲気の表情を浮かべた。
(まずいな・・・、とうとう副作用が出たか・・・!)
HIVの母子感染によって、現代の世界でも難病とされるAIDSを発症してしまった彼女は、3ヶ月以上に渡って抗AIDS薬の服薬を続けている。治療は功を奏しており、免疫状態の指標であるCD4陽性Tリンパ球は正常値まで回復し、ウィルス量を反映するHIV-RNA量も、2030年における技術力の検出限界である4コピー/mlを切った。
しかし良いことばかりでは無い。ついに抗AIDS薬の主要な副作用である消化器症状が、嘔吐として出てしまったのだ。
「申し訳ありません・・・。お見苦しい所を!」
朝に食べたものを殆ど吐いてしまったテオファは、他者に嘔吐の瞬間を見られるという羞恥に顔を歪めながら、側に居た医療スタッフに対して謝罪を口にする。
「何も気にすることなど、増して謝ることなどありませんよ!」
郷堂はテオファの背をさすりながら、彼女に語りかける。
吐き気は中々収まらない様で、かなり気分が悪そうだ。皇女の侍女であるラヴェンナも突然の事態に動揺し、口元を両手で覆っていた。
「・・・これは、殿下は一体!?」
主に一体何が起こっているのか、ラヴェンナは自身の側に立っていた柴田に尋ねる。彼は眉間にしわを寄せながら答えた。
「抗AIDS薬による副作用です・・・。以前も説明申し上げましたが、殿下の病を治療する薬は、こういった症状を時折起こすのです」
「・・・な!」
柴田の答えに、ラヴェンナはショックを隠せない様子だった。テオファの病を抑え続ける為には、服薬は一生続けなければならないと説明を受けていたからだ。それは即ち、この様な症状を呈すリスクを、一生に渡って背負い続けると言うことに他ならない。15歳の少女に背負わせるにはあまりにも酷な現実を、ラヴェンナは身を以て感じていた。
その後、テオファの悪心は落ち着きを見せる。そして今後、消化器症状がひどくなる場合には制吐薬を処方するということになった。
「かが」 男子トイレ
男子トイレに並ぶ小便器の前に、白衣を身に纏った男2人が並んでいる。自身の左隣にある小便器の前に立つ郷堂に対して、柴田はぽつりとつぶやいた。
「“副作用”・・・何とかならないものですかね・・・」
嗚咽に苦しむ皇女と、その皇女の様子を見て取り乱す侍女の姿を目の当たりにした柴田は、どうにもならないことを分かっていながら、思わず願望を口にしてしまう。
しかし、郷堂は彼の言葉を笑うことは無い。出すものを出し終えて、一足先に洗面台に向かう彼は、柴田に対して抗AIDS治療の現状について語り始めた。
「理論的には・・・服薬治療を継続すれば、HIVはいつか体内から消失するとされている。2010年頃には服薬治療でAIDSを完治させるまで“70年以上”かかると言われていた。即ちそれは、一生服薬は止められないし、治らないってことだ。だが2025年にはそれが“45年”にまで縮まった。
抗AIDS薬の発展は、AIDSを“治らない病”から“いつかは治るかも知れない病”に変えたんだ。ま、“治る病”じゃないことには違い無いが、知らなかっただろう、これ?」
郷堂の問いかけに、柴田は驚いた表情で頷いた。郷堂は手を洗いながら説明を続ける。
「だから殿下も、60歳くらいまで“多剤併用療法”を続ければ完治するかも知れないね。ま、この理論通りにAIDSを完治させた人間なんて存在する訳無いから何とも言えないが。ただ殿下の持つHIVの場合は、ちょっと事情が変わって来るかもね・・・」
「・・・どういう意味ですか、前にも言ってましたけど?」
柴田は首を傾げた。良く分かっていない様子の彼に対して、郷堂は説明を続ける。
「柴田先生・・・あんたと神崎先生と長岡先生は、HIVは専門外だったら気にしなかったと思うけど、殿下が感染しているのはHIV-2じゃないか。
最初、リチアンドブルクで治療を開始しようとした時、そのことをちゃんとこっちに伝えてくれなかったから、結構焦ったんだよ。テレビ電話越しに『HIV陽性の患者が出ました』って言われたら、誰だってHIV-1だと思うさ。あの後、田原くんがちゃんと伝えてくれたから良かったものの・・・。
道理で・・・母子感染によるAIDSが、発症するまで15年以上かかったなんて、異常な遅さだなと思ったんだ。HIV-2の母子感染例なんて、日本人医師にとってはかなり興味深い事例だよ」
郷堂はヒト免疫不全ウィルスの種類の違いについて説明する。
実はHIVと呼ばれるウィルスには2つの種類がある。一般的にAIDSと呼ばれる疾患を発症し、世界的な流行を起こしているのが“HIV-1”であり、通常HIVと言えばこれを指す。
それと比較して“HIV-2”は感染力や病原性、発症率が低いとされており、無治療のHIV-1感染者の殆どがAIDSを発症するのに対して、HIV-2感染者の75%は無症状のまま生涯を終えると言う。このウィルスは西アフリカで局地的な流行を起こしている。テオファに感染していたのは後者だったのだ。
だからと言って、HIV-2への感染をHIV-1感染より楽観的に捉えて良いかと言えば当然そうではなく、両方とも人間の免疫力を落としてしまう恐ろしいウィルスだということに違いは無い。
ちなみに、両者がこの様な違いを呈す理由として様々な推論が上げられているが、未だ判然とはしてないのが現状だ。
「まあ、HIV-2自体が分からないことも多いから何とも言えないけど、希望を持つことは悪いことじゃないよ、前にも言ったけどね。
それに本国の医療機関では、殿下から採取したT細胞を基に、いざとなれば“キメラ抗原受容体発現T細胞療法”を行う準備も進めている様だし・・・」
「“キメラ抗原受容体発現T細胞療法”?」
郷堂が発した新たな単語に、彼の隣の洗面台で手を洗っていた柴田は再び首を傾げる。
「がんに対する免疫療法としてアメリカで確立された治療さ。理論上は対HIV療法としても応用出来る筈なんだけど、それについては2025年に日米合同で臨床試験が行われていた最中だったから、エビデンスが無くて何とも言えない。それに一般の治療法として売り出すには滅茶苦茶金がかかるのが難点なんだ。だが試験を受けた感染者の中では、完治したとされる人がちらほら居て、確か日本人も1人混じっていた。
確か試験自体は日本の医療機関が引き継いでいて、日本国内で試験を受けた患者を観察し続けている筈だよ。経過は割と良好らしい。エビデンスを得るまで後何年掛かるか分からないけれどね。
だから言っただろう、万に一つの可能性が無い訳じゃないって。殿下が新たな完治例になることを祈ろう・・・」
「・・・」
語り終えた郷堂は、ポケットからハンカチを取り出すと、両手を拭いながら手洗いを後にする。隣の洗面台で手を洗っていた柴田は、一足先にトイレから出て行く郷堂の後ろ姿をしばらく眺めていた。
・・・
ルシニア基地にある石油採掘精製施設から、補給艦に積載された燃料がミケート・ティリスに向かっている。更には追加の弾薬も、強襲揚陸艦に載せられてこちらに向かっていた。
それらは、帝都からミケート・ティリスまで戻って来ていたジュペリア大陸派遣部隊・後方支援隊の手によって、リチアンドブルクまで運ばれる予定だ。準備が整い次第、帝都から逃げ出したアルフォン一派に対する追撃を行う予定である。彼らが向かう場所については、衛星写真やドローンを用いて随時探索を行っている最中だ。
アルフォン、そして日本にとって、最後の戦いの時は近い。
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ジュペリア大陸南西部 アラバンヌ帝国 首都アドラスジペ
“リチアンドブルク陥落”の一大事件は、「世界魔法逓信社」の手によって各国に拡散されていた。長らく世界最大・最強と位置づけられて来た列強国の首都を占領した日本国の名は、再び世界を驚愕させたと言って良いだろう。
それは、イルラ教と歴史的な因縁を持ち、尚且つ教皇国やイルラ教国家群からの圧迫を受けていたこの「アラバンヌ帝国」の民も同様である。彼らにとって、言わばイルラ教国家の親玉的な存在であったクロスネルヤード帝国の首都陥落の一報は、狂喜を以て迎えられた。
「これでクロスネルヤードはもう終わりだ!」
「もう侵略にビクビクする必要はなくなったぞ!」
「アラバンヌ帝国万歳! ニホン国万歳!」
逓信社の紙面を片手にお祭り騒ぎを呈す首都市民たち、そんな狂喜に包まれる街の様子を、皇城のバルコニーから眺めている男が居る。
この国の皇帝であるセルジーク=アル・マスノールは、謎の国の偉業を称える市民たちの姿を複雑な感情を以て見つめていた。
(ニホン国・・・本当に奴らは、一体何者なんだ?)
わずか5年の間に、立て続けに2カ国の列強を破ったことになる日本国。セルジークは、東の果てにあるというその国の強さに驚くと共に、一種の気味の悪さも感じていた。
その後、彼は側に立っていた文官に1つの指示を出す。
「外務大臣を此処へ呼べ。彼の国・・・ニホン国と接触を図る用意をするんだ!」
「はっ!」
皇帝の命令を受けた文官は、直ちにその場から退出した。
斯くして、リチアンドブルク陥落の事実を受けた各国は、各々の目的に従って動き始めることとなる。
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ジュペリア大陸北西部 イスラフェア帝国 首都エスラレム 皇城
アラバンヌ帝国同様、列強“七龍”の1つに名を連ねるこの国は、国内に世界魔法逓信社の支部の設置を認めていない為、国民の間に海外についての情報が伝わるのが遅く、未だ多くの国民が“リチアンドブルク陥落”について知らない状況だ。
しかし政府中枢に身を置く者たちは違う。海外からの情報収集を行う部署である“情報局”によってもたらされたその一報に、この国の長である皇帝ヤコブ・エフライマン=モーセ/ヤコブ12世は驚きを隠せないでいた。
「まさか本当に、リチアンドブルクが陥落しようとは・・・!」
500年に渡って他国からの攻撃を受けた事が無い都市、世界で唯一“帝都”と呼ばれていたクロスネルヤード帝国の首都が落ちたという事実に、ヤコブ12世は絶句する。
言葉が出ない様子の皇帝に対して、報告を持って来ていた情報局局長のイサーク・アセラン=デボラは説明を続ける。
「はっ・・・、ミケート・ティリスへの上陸戦、そして今回の結果から判断するに、彼の国の力は疑いの無いものの様です。近々、内偵を出す予定となっておりますが、将来的には国交の樹立も視野に入れるべきかと・・・」
イサークは情報局が総意として出した見解について述べる。確かに日本と対立するのは得策では無いことは、誰の目に見ても明らかだろう。
「我が国には“蒸気機関”の力が有る・・・。彼の国はどうやってそこまでの力を手に入れたのだ?」
ヤコブ12世は、日本が持つ力の根源について尋ねる。皇帝からの質問を受けたイサークは少し間を開けると、言葉を選びながら答えた。
「・・・それが、ニホン人は我々と同様、“魔力を持たない民”だと述べているという情報が入っております」
「・・・何だと!」
イサークが告げた更なる報告に、ヤコブ12世は再び驚愕することとなった。魔力の無い民など、自分たちイスラフェア人以外に居るとは思いもしなかったからだ。
「この国について、更に多くの情報を集めよ!」
「はっ!」
イサークは深く頭を下げながら、皇帝の命令を拝聴した。
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スレフェン連合王国 首都ローディム 王城
4つの国家からなる連合王国であるこの国は、王族が魔術師の家系という世界的に見ても珍しい国だ。
故に、この世界における軍事研究のトレンドが“魔法”から“火薬兵器”にシフトする最中、この国は魔法による軍事技術の開発に国家予算の多くを投入しているという。そんな「スレフェン連合王国」は、“七龍”の中では日本に次ぐ新顔であり、10年程前に“極西の七龍”と呼ばれていた「ソウ帝国」を破って七龍の座に即いたという過去を持つ。
そしてこの日、この国を治める国家元首である“スレフェン王”ジョーンリー=テュダーノヴ4世の下に、国家の魔法研究を司る“技術庁”の長官を務めるクリンス=ガティーネが訪れていた。
「・・・ニホンか、あまり聞いたことの無い国だな」
ジョーンリー4世はクリンスが持って来ていた逓信社の紙面を眺めながら、ぽつりとつぶやいた。彼は視線を紙面からクリンスの方へ向けると、彼に対して1つの疑問を示す。
「もし我が国とこのニホン国がぶつかれば、我が国は破れるのか?」
王の口から発せられた鋭い質問に、クリンスは少し面食らう。
「確かに、現状では得策とは言えません・・・。しかし、“密伝衆”との協力の下に行われている研究が実を結べば、他の列強国など恐れるに足りません! 我々の覇を妨げる者は、この世界から消えて無くなるのです」
彼の口から出た答えに気を良くしたジョーンリー4世は、左の口角を上げて不敵な笑みを浮かべる。
「フフ・・・期待しているぞ」
「はっ!」
自国の王から期待の言葉を受けたクリンスは、この国における敬礼のポーズを取りながら、皇帝の部屋を退出して行った。
今話の中で、郷堂と柴田がHIVの治療法について語る場面がありますが、現実世界で今実際に行われている研究と、2030年という劇中世界の設定を混ぜ合わせた台詞になっているので注意してください。2017年現在、AIDSは不治の病以外の何者でも無く、一度感染すると高い薬を飲みながら一生付き合うことになるので、気をつけましょう。
ただ調べてみると、完治に向けた様々な治療法が世界各地で研究されている様で、今はイギリスで治験中の治療法が1番ホットな様ですね。いつかは治る病になることを願いたいものです。




